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もし和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・

a_honaの回答

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  • a_hona
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回答No.8

私が理解しているかどうか定かではないですが、聖徳太子以前の、「元の和」、と言われているものの実在が、リアリティもって語られるならば、質問者さんの説も説得力を持ってくると思いました。聖徳太子以前というと、古墳時代、豪族の時代の話になるのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 聖徳太子以前の、「元の和」、と言われているものの実在が、リアリティもって語られるならば、  ☆ ふたつの事例を挙げたいと考えます。  ひとつは 記紀神話における物語をめぐってです。  アマテラスオホミカミの主宰するタカ〔ア〕マノハラ(高天原)が この地上のスサノヲらの(実際には その子孫のオホクニヌシの世代における)イヅモの国に対して そのイヅモの地はおれたち(アマテラスら)の土地だからおれたちに服属せよと言って来たコトにすべてが始まるという問題だと考えます。上から目線が――常態として――始まったコトです。  もうひとつは これは外国の文献資料なのですが 例の魏志倭人伝にある記事を例証とし得ます。要するに邪馬台国連邦(?)ないし連合王国(?)は その女王の卑弥呼を《共立》したとあるところです。  この《共立》のナラハシも崩れて行きます。  すなわち 初めの――神話としての資料ではありますが――タカマノハラという上から目線(=お二階へのアマアガリ志向)が そこで人びとが共に担ぎ上げるそれとしての王=神であったのが 聖徳太子の憲法のときには 統一王=唯一神の体系となったということです。  (むろん 細かくは八百万の神々がいますが 実質的に共同自治の主宰者(≒その神)としてのただひとりの為政者なる存在に統一されたかたちになる)。  ですから 聖徳太子のときには 仏教が入って来て 崇仏派の蘇我氏と日本の神道に立ち排仏派の物部氏とに意見が分かれてこれを争ったということになっていますが 要は 統一アマテラス(為政者)に自分が成ることに命を懸けたタカマノハラびとがいたということになります。  すなわち そのときに――と言ってもこの全国制覇の大作戦なる動きは 400年ごろの応神ホムダワケの頃から始まっていると見ますが―― 元の・市民どうしのヨコ一線の社会なる和の状態から タテに上下のマナザシ関係が社会の仕組みとして形作られた世の中において(しかもクウキのごとき仕組みとして)人びとが右へ倣えして生活を共にするという国柄へと変わって行った。  つまり 唯一神のもとに統一主宰者アマテラスが立つというためには ヨコどうしの間に培われていた元の和を乱したのだと言わざるを得ませんし その後に醸し出された《あらたなる大和》は クウキ・マジックによって人びとが酔わせられていつも右へならえをする《それはそれはおだやかな世の中》であると考えられます。  こう捉えています。

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