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もし和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・

noname#207138の回答

noname#207138
noname#207138
回答No.3

こんにちは。 お初に質問者さまの質問に回答を付けます(笑) とりあえず因にですが、聖書にはこうあります「私(イエス)が平和をもたらしに来たと思ってはならない。むしろ剣をもたらしに来たのである。親を子に、子を親に向かわせる。神よりも親を愛する者は私にふさわしくない。神よりも子を愛する者は私にふさわしくない」 ここでいう「私(イエス)にふさわしくない」というのは、意訳すると「天国に入れるに値しない」という事という解釈が一つの解釈として成立します。 聖徳太子ほどの人格者であれば「和をもって~」と言って大きく差し支えはないかもしれませんが、現代社会の一般的な人間がこれを言いだしたらそれこそイエスマン製造工場のライン作業という表現は実に言い得て妙でしょう。 つまり、同じ言葉でもそれを受け取る人、使う人の意識によって全く意味が異なるという事です。 「人のものを盗むな」という基本的な事でさえ、それを指摘すると気分を害する人はいます。 こんなのとも和を持てと?「和」は関わる人全ての働きかけによって成立しますし、逆に関わる全ての人を考慮しないと成立しません。 そのために必要なものはなんでしょう? 自分の至らない部分を指摘された時に、それを共同体と自分個人との幸せのバランスを考えて最適に保つために昇華させる、つまり変化を与える覚悟や勇気などです。 誰だって子供の頃におもちゃ屋の前でおもちゃを買ってもらうべくだだをこねる様な類いの経験をお持ち、もしくは理解できると思いますが、社会人になると当たり前にそのようなわがままを言わない程度には精神が昇華されています。 社会人になったらそれをしなくていい事は無い事を自覚するのは必須事項です。 この必須をわきまえないのであれば、そこに「和」はありえないでしょう。 自分に都合の悪い事であれ、それが正義であり真実であり守るべき価値のあるものだとしたら、自己犠牲の上それを受け入れるべきです。 ところが欲に支配されている欲の奴隷にはこれは絶対にできませんから、反発、つまり「和」を成立させません。 つまり「和をもって~」というのは有識者ではなく、有意識者の間でのみ正当な意味を持つと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 あぽっするさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  マタイによる福音(10章 34節以降)を挙げておられます。  ▲ (=これは わたしでもなく対話の相手でもなく第三者からの引用であることを示すシルシです) ~~~~~  「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。   平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。  [・・・]  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 昔からの神ないしその信仰(というよりはむしろ集団としてのシュウキョウ)が イエスの言葉を聞いて新たにたどって行くさまと過程があるので そのことについても触れているのかとわたしは考えるのですが いま保留とします。  なおまづ先にこの問いの命題は 次の聖句から発想をぜんぶぬすんで来ていることを明らかにしておきます。  ▼ (パウロ:ローマ書 7:7) ~~~~~~~~~~~~~  では、どういうことになるのか。  律法は罪であろうか。決してそうではない。  しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。  たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて:  ★ 聖徳太子ほどの人格者であれば「和をもって~」と言って大きく差し支えはないかもしれませんが、現代社会の一般的な人間がこれを言いだしたらそれこそイエスマン製造工場のライン作業という表現は実に言い得て妙でしょう。  ☆ 賛同していただきありがとうございます。  そしてじつは――今回はあまり出さなかったのですが――その聖徳ウマヤドのミコの思想をこそ批判している内容になってはいるのです。  ☆☆ (シルシをふたつ重ねるのは 過去のものからの引用であることを意味します)(No.1お礼欄)~~~~   すなわち 問いとしての命題は 言いかえると:    和を乱そうとしてなら これこれの批判的な思想や施策を提出することはなかった。  と言おうとしています。そういう問題であると考えていますし それについてさらに広い見地からのご意見をつのりたい。こう思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり ひと言で言うと 聖徳ぼんくら太子は 蘇我氏とともに物部氏を殺しほろぼしたあと このフレーズを憲法としています。すなわち 権力はおれたちがにぎった おまえら文句あっか みなおれたちにしたがえという意味にしかなりません。ひとごろしをしてから このような《和》を言っているのです。  和にとって:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  [・・・]必要なものはなんでしょう?  自分の至らない部分を指摘された時に、それを共同体と自分個人との幸せのバランスを考えて最適に保つために昇華させる、つまり変化を与える覚悟や勇気などです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 外交官(アポステロス)さんは こちらの方面で受け取って解釈されています。そういうことだとわたしも思います。  少々きびしい調子でも言っておられます。   ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自分に都合の悪い事であれ、それが正義であり真実であり守るべき価値のあるものだとしたら、自己犠牲の上それを受け入れるべきです。  ところが欲に支配されている欲の奴隷にはこれは絶対にできませんから、反発、つまり「和」を成立させません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ きびしいですね。つまりあるいは 中身は おっしゃるとおりであると同時に その口調はきびしいですね。  というのも やはりパウロからパクるとすれば:  ▼ (コリント前書 6:12) ~~~~~~~  「わたしには、すべてのことが許されている。」  しかし、すべてのことが益になるわけではない。  「わたしには、すべてのことが許されている。」  しかし、わたしは何事にも支配されはしない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これもきびしいのですが 何と言いますか 律法のように禁止命令とは少し違うようにもひびきます。と思って出しました。どうですかねぇ。  つまり:  ★ つまり「和をもって~」というのは有識者ではなく、有意識者の間でのみ正当な意味を持つと思います。  ☆ というように世界を狭く区切らないほうがよいのでは? とも思ったものですから。(行動するのにどこか窮屈に感じるのではないかと思ったものですから)。どうでしょうかねぇ。

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