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マルクスの「定在と概念の矛盾」につきまして。

urigadai2013の回答

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回答No.2

マルクスの言ったという「定在(定有)と概念の矛盾」がいったい何を意味するのか、ということだと思います。 私はそれをアダム・スミスが「国富論」で言った労働は等価交換によって賃金が支払われるのだから、生産過程で剰余価値が生じるのではなく、流通過程で生じるという主張にあると思います。 スミスは資本主義生産は労働の価値に利潤を上乗せすることで、その上乗せ分を生産過程に再投入することで発展すると考えていました。 それに対してマルクスは資本主義生産は生産過程の労働力と労働との「差異」を資本家が搾取することで発展するシステムだと考えたことにあります。 スミスの間違いは生産過程の労働力と賃金が等価交換によって行なわれるのだから、剰余価値は生産過程からは生まれないと考えたことにあります。 ところがスミスが「国富論」で述べているように分業によって、労働力、つまり労働者の再生産費である生活費を上回る労働、これは社会の総労働の分数で具体的には数値に表わせないものですが、資本主義は労働力と労働が分離し、乖離した特有の生産方式で、資本主義が成立する以前は労働力と賃金は一体のもの、等価なものでしたが、資本主義生産はそれを分業によって分離したものと見做すことができます。 労働者は労働者の再生産費である生活費を上回る価値を生み出します。 資本家は労働力と労働との「差異」を搾取することによって、それを再生産に投入して拡大再生産を可能にし、そうして資本主義は発展してゆきます。 下のtefu_tefuさんがせっかくマルクスの「資本論」の該当箇所を引用されたことは敬意を払うのにやぶさかではありませんが、問題はそれに対する彼の解説がちょっと問題があることです。 マルクスが労働の量を問題にし、質を問題にしなかったというのは、マルクスの時代は労働はもっぱら労働時間で計算されていたので、量で計算されていたので、それを質で見なかったというのは、時代が違うし、無い物ねだりです。 ベンジャミン・フランクリンが「時は金なり」と言ったのは、資本主義の初期は賃金は労働時間という量で計算されていたということです。 だけど今の時代は労働は質で計算されていますから、今の時代は「時は金なり」ではありません。 それと、技術革新というのは20世紀になってからの話で、それ以前のマルクスの時代は生産も単純なもので、量的な拡大を目指して競争していたので、技術革新によって剰余価値を獲得するのはずっと後の時代です。 商品は売れなければ商品ではなく、ただの物です。 だから売れて初めて剰余価値も実現されるということができます。 貨幣が資本に転化するのも同じで、貨幣は生産過程の投入されることで資本で、そのままではただの金属です。 だからと言って、剰余価値が流通過程から生じるとは言えません。 商品が売れるか、売れないかには大きな飛躍を必要とします。 そこに資本主義に限らず、商品経済の矛盾があります。 資本主義がそれ以前の商品経済と違うのは、労働力という商品があったからです。 そしてその労働力は分業によって、労働力を上回る剰余価値を生み出します。 それが労働です。 労働力と労働の間に乖離が生じます。 その乖離、「差異」をひそかに、搾取することで資本主義はその「差異」を生産過程に再投入することで拡大再生産を可能とするシステムです。 だけど、資本家は搾取していると意識していません。 労働というものが、社会の総労働の分数だからで、具体的に数値で表せないからです。 だけど、マルクスは人類は総体的に見れば、生産力を増大してきたのだから、見えないけれども、労働はあると言いました。 それは人間の労働力というものが、単に生活費を生産するだけではなく、それを上回る「活力」を備えているからです。

kimko379
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