• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:Bedeutung と Sinn との違いは?)

BedeutungとSinnの違いとは?

Tastenkastenの回答

回答No.5

こんにちは。 まず、フレーゲについて御紹介いただいたサイトの内容については、意外に思いました。Sinnの方の訳語が問題かと思っていたら、Bedeutung の方ですか。No.4で引用した「引照」の解説は、タイプするのが面倒で、一部のみにしたのですが、やはり補完しておきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  引照[reference]《意味論》〈記号(コトバなど)と、それに対応する事柄、モノとの対応関係〉。《犬》《イヌ》《dog》は犬を引照する、という。もちろん《引照》とは「記号とそれに対応する事柄、モノとの対応関係」を引照する[refer]、ともいえる。この場合、《引照されるモノ》を「引照物」[referend]《引照する記号》[refent]という。(指示[designation]と同じ意味にとってもよい。ただ、designate、designationが、《具体的な有形的事物を指す》という意味合いが強いので、無形的・抽象的・概念的事物や、それらの間の関係をもふくめて《引きしめす》という意味でrefer、referenceが最近では主として用いられる) (思想の科学研究会編「哲学・倫理用語辞典」三一書房) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 上の説明は、フレーゲに特化したものではなく、一般的なものですし、辞典そのものがだいぶ前のものですので、最新の議論には耐えないとは思いますが、これを読む限り、「指示」はdesignationで、それを避けるためにreferenceにしたということになっています。したがって、リンク先の議論については、なぜそうなっているのか把握できません。また、内部、外部という話も、ネット上でいくつか見たフレーゲに関するドイツ語の文献をざっと見た限り見当たらないので、何とも言えません。何せ、私の専門外の話ですし、時間もあまりかけられないので、フレーゲの著作をお読みいただくより仕方がありません。フレーゲは、言語哲学の父とよばれているそうですし、ウィトゲンシュタインとも交流があったようで、往復書簡がネットに出ていました。価値が認められたのは戦後だそうです。 一つ、私の読み落としがありました。「現在のフランスの国王」という文は、時代によって違う、という理由ではなく、現代について言った場合の例でした。ただし、この文について、 >ナンセンスという意味で ジンは無いと思ってしまいました。 とコメントをいただいておりますが、結果としてはナンセンスであるにせよ、文自体はナンセンスではないので(国王がいる時代にはそのまま使える文なので)、文としてはSinnがあるが、国王が存在しない現代に使うとBedeutungはない、ということでした。これは、ドイツ語版のWikipediaの記述でしたので、フレーゲ自身の文例ではないと思われます。 それから、Sinnについて、 >語句の外部においては 社会的自然(ナラハシのごとき)として帯びるようになる色合い・風合い・また飾りや あるいは話し手当人のさまざまな思わくとしてつけ添えられた心づもりや気持ち(さらには それらが醸し出すユーモアなどの雰囲気)である。 という解釈は、フレーゲに関しては誤りとなります。まず、BedeutungとSinnをはっきり区別する説明として、Sinn=Gedankeということがあります。これは、「単語だけでなく、文にもSinnとBedeutungが存在するか」、という設問に対する答えとして論証していく部分なのですが、長いので、結論だけ書きます。 文が表現する思考(Gedanke)が、Sinnにあたります。フレーゲは、思考を、「科学的論考の対象となりえる、複数の主体にとって到達可能な実在」と解しており、それは「主観的思考行為ではなく、多くの者が共有できるような客観的内容を有するもの」とされています。そして、文にBedeutungがあるかどうかは、その文の言っていることが真であるか偽であるかによって決まる、とあります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ In Anlehnung an seine Lehre von Sinn und Bedeutung von Eigennamen fasst Frege den Gedanken als eine mehreren Subjekten zugängliche Entität auf, die somit Gegenstand wissenschaftlicher Diskussion sein kann. Entsprechend erläutert er in einer Fußnote: „Ich verstehe unter Gedanken nicht das subjektive Tun des Denkens, sondern dessen objektiven Inhalt, der fähig ist, gemeinsames Eigentum von vielen zu sein.“ Ob also in einem Satz nicht nur ein Sinn, ein ihm zugrund liegender Gedanke ausgedrückt wird, sondern darüber hinaus diesem Satz auch noch eine Bedeutung zukommt, sich von ihm also sinnvoll aussagen lässt, dass er wahr oder falsch sei, hängt davon ab, ob den in ihm vorkommenden Worten als Eigennamen ebenfalls eine Bedeutung zukommt. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ですから、21世紀の今、「フランスの現在の国王」という文はナンセンスなので、sinnlosとつい考えてしまうのですが、真ではないので、Bedeutungがないということです。この辺は、Bedeutungのもう一つのニュアンス、「価値、重要性」と関係があるのかもしれません。 したがって、「丸い三角形」というのは、真ではないのでbedeutungslossとなり、また、 >引照物がなくて意味がないという場合も その無い意味があると見るなら やはりベドイトゥングもあると見たほうが 一般性を持つのではないでしょうか。 というのも、フレーゲの論理では全く無理となるでしょう。 とりあえず、以下のようにまとめます。 Bedeutung 具体的にある「もの」や「概念」を指し示す、真であり、価値がある Sinn 多くの人間が共有できる、客観的内容を有する思考内容 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 今回は、これで十分と思いますが、簡単な数式の例を一つ補足しておきます。 2×2^3+ 2 3×6 22 – 4 これらは、三つの異なるSinnですが、すべてが「18」という、同じBedeutungを持ちます。     ― 完 ―

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。たいへんありがとうございます。ボケつつ入れたツッコミにも対処していただきました。  フレーゲの入り口にたどり着いているように思います。(前回までの議論を ご指摘にしたがって修正しつつですが)。  ☆☆(No.3お礼欄) ジンが持ち合わせる《影響》は 人間のおこなう自己表現としての重みが 内部にも外部にも及ぶ場合を言うのだろうか。  ☆ という認識を得ていたことに ささやかな自己満足のような安堵感を持ちました。  すなわち  ★ Sinn: 多くの人間が共有できる、客観的内容を有する思考内容    ☆ 《客観性・一般性 あるいはむしろ真偽の問題》が ベドイトゥングのほうにも要請されているのですね。  ★ Bedeutung: 具体的にある「もの」や「概念」を指し示す、真であり、価値がある  ☆ つまり 特にフレーゲにおいてはなのだと思います。  それなら――つまり一般性があるのなら―― 《引照》は〔たぶん 《抽象的な〈指示〉》というかたちで同じようなハタラキとして〕はたらいているし つねにはたらくと考えられます。内容に《一般性》としての保証があるのだと。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  簡単な数式の例を一つ補足しておきます。   2×2^3+ 2   3×6   22 – 4  これらは、三つの異なる Sinn ですが、すべてが「18」という、同じ Bedeutung を持ちます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ だとしましたら 納得します。 すなわち 《明けの明星》と《宵の明星》とが それぞれ人間の思考・認識を経たそのあとの表現形態となっている。異なる表現物であって ジンである。いづれも《金星》であることは ベドイトゥングである。と。  こういう仕掛けでしたか。こういう仕組みだったんですね。          *  イタチの最後っ屁のようになってしまってはなはだ芳しくありませんが やはりひと言です。:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  文が表現する思考(Gedanke)が、Sinnにあたります。フレーゲは、思考を、「科学的論考の対象となりえる、複数の主体にとって到達可能な実在」と解しており、それは「主観的思考行為ではなく、多くの者が共有できるような客観的内容を有するもの」とされています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このフレーゲの言語哲学にとっての前提についてですが このように言ってみれば狭く《文》なら文というものを設定しているとは思いませんでした。  言語をあつかう場合なら けっきょくデタラメの文表現をもふつうの文と同等に取り上げて出発するものと思っていたのです。(だから 紹介記事を読んでも触手が動かなかったのかなとも思いました。そういう問題ってないんでしょうかねぇ)。  文字通り苦し紛れの最後っ屁です。わたしがわたしとして今あることの弁明ですので 取り上げました。        *    ふつうにみなさんが この二つのドイツ語をめぐってどう扱っていくのかと思いめぐらすときに 参照するによい里程標を立ててくださったものと思います。  フレーゲへとすすむ人たちにとっても よい準備体操になるのではないでしょうか。

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