BedeutungとSinnの違いとは?

このQ&Aのポイント
  • BedeutungとSinnとは、フレーゲの真理説の議論で問題になりました。日本語の意味と意義との違いについて知りたいです。
  • Bedeutungは意味、Sinnは意義を表します。しかし、日本語ではほとんど違いはありません。ただし、意義には価値判断が含まれることがあります。
  • 例えば、「ニーチェの思想には意義が無い」と「ニーチェの思想には意味が無い」という文に違いがあります。意義は価値判断を含んでおり、意味は単純な意味合いを表します。
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Bedeutung と Sinn との違いは?

 フレーゲという人の議論(真理説)で問題になったのですが 生活に根づいた用法における意味合いを知りたいと思い このカテをえらびました。  Bedeutung = 意味 そして Sinn = 意義であるということらしいですが 当方は外国語の生活感覚がまったくありませんのでおしえてください。  けっきょく問い方も考えあぐねています。むしろ日本語における問題から入ると分かりやすいかと思いました。  すなわち 日本語の《意味》と《意義》とではほとんど違いはないと思っていたのですが ふと確かに違いがあると気づきました。(文例の中の判断内容については お見逃しください)。  (あ‐1) ニーチェの思想には意義が無い。  (あ‐2) ニーチェの思想には意味が無い。  違いがあるようです。つまり 《意義》はすでに価値判断を交えていると思われます。よいかわるいかです。  (あ‐2)の文はあいまいであることになります。  (あ‐3) 『アンチ・クリスト』には 意義もないが 意味もない。あたかもあの『マイン・カンプフ』と同じように文章が支離滅裂であって まとまった意味すら取れない。  つまり (あ‐2)の言おうとするところは ただしくはこうである。:  (あ‐2a ) ニーチェの思想には 『アンチ・クリスト』を除いて言っていることの意味はあるが 摂って滋養とするべき意義はない。  おそらく・ただし この《摂って滋養とするべき意義はない》の《意義》を《意味》に代えてもだいたい同じ意味で通用すると思われる。  たぶん 《意味》にかんする否定文では 《意味はない》はそのまま《意義はない》と同じことになるのだと考えられます。よいわるいを判定する以前の判断においてその意味がないとなれば 意義もないことになる。  ドイツ語やさらに欲張るならほかの言語ではどうなのか? といった切り口を考えましたが これをおしえてください。  《意味は無い・意義は無い》は次のような用例においてじつはおそわっています。   bedeutungsloss :意味がない、重要でない   sinnloss :意義がない、馬鹿げている  というような出で立ちですが よろしくどうぞ。

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回答No.2

回答が長くなりました。二回に分けるようになりそうです。 BedeutungとSinnは、当然重なる部分もあり、類義語です。すでに、No.1の回答へのコメントでお気づきになっているように、「Sinn の意味として Bedeutung が出て来て Bedeutung の意味には Sinn が出て来る」ことになります。日常会話の中で使っていると、だんだんニュアンスの違いはわかってきますが、Bedeutung = 意味、Sinn = 意義という図式は簡単には引けません。日本語の訳語を当てはめて考えていると、さらにわかりにくくなります。日本語の「意味」という語は、Bedeutung、Sinn、両方の訳語として使えますし、場合によっては、Bedeutungを「意義」と訳した方がしっくりくることもあります。日本語の問題から入ると、かえって混乱するのではないでしょうか。 まず、BedeutungをDudenで引いて出てくる意味のうち、ここで一番問題になるのは、次の二つですね。 1b) das Bedeuten; begrifflicher Inhalt eines Zeichens; Beziehung zwischen Wortkörper und begrifflichem Inhalt(意味すること、記号の概念的内容、語の発音と概念的内容との関係) 2b) Geltung, Ansehen, Wert(通用すること、名声、価値) http://www.duden.de/rechtschreibung/Bedeutung 一方、大辞林に出ている、日本語の「意味」の解説でこれに当たるのは、 (1)言葉・記号などで表現され,また理解される一定の内容。 「単語の-」 「この文は-が通らない」 (3)物事がある脈絡の中でもつ価値。重要性。意義。 「ここであきらめては努力してきた-がない」 「歴史的-」 https://kotobank.jp/word/%E6%84%8F%E5%91%B3-32260#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 一方、SinnをDudenで調べると、五つの意味が出ていますが、そのうち、ここで問題になるのは、下の二つです。 (4)gedanklicher Gehalt, Bedeutung; Sinngehalt(思考的内容、意味、意味内容) (5)Ziel und Zweck, Wert, der einer Sache innewohnt(あることに内包される目標、目的、価値) http://www.duden.de/rechtschreibung/Sinn そして、日本語の「意義」のほうは、 (1)ある言葉によって表される内容。特に,その言葉に固有の内容・概念。 「言葉の形態と-」 (2)物事が他との関連において固有にもつ価値や重要性。 「 -のある仕事」 〔類義の語に「意味」があるが,「意味」は言語や行為によって示される内容,また物事が持つ価値をいう。それに対し,「意義」はある言葉が表す内容,また,物事が他の物との関係において持つ固有の重要な価値をいう〕 https://kotobank.jp/word/%E6%84%8F%E7%BE%A9-201838#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 これだけ見ても、ややこしいですね。Bedeutung、Sinnと「意味」、「意義」は、かなり交錯します。フレーゲが論じるBedeutungは、最初の意味でだけだと思いますが、bragelonneさんがお作りになった日本語の文章を読むと、どうも二番目の意味、「価値、重要性」を感じてしまいます。  (あ‐1) ニーチェの思想には意義が無い。  (あ‐2) ニーチェの思想には意味が無い。 この場合、図式通りに当てはめれば、(あ‐1)がSinn、(あ‐2)がBedeutungということになるのでしょうが、日本文としては、ほとんど区別が付きませんね。「意義」、「意味」の部分だけでなく、「には」にも原因がありそうです。(あ‐2)の文を、「Die Philosophie (Der Gedamke) Nietsches hat keine Bedeutung.」の訳とするなら、「ニーチェの思想は意味が無い」とした方がいいでしょうね。「には」にすると、(あ‐1)の文とほとんど区別がつかなくなります。(あ‐2)のもとの文のあいまいさは、はそこからきているのではないかと思います。 そして、「意味」と「意義」の違いがはっきりしないため、(あ‐3)と(あ‐2a)は、少し混乱しているようです。  (あ‐3) 『アンチ・クリスト』には 意義もないが 意味もない。あたかもあの『マイン・カンプフ』と同じように文章が支離滅裂であって まとまった意味すら取れない。 「意義もないが 意味もない」という部分を、この順番のまま、Sinn、Bedeutungの厳密な意味でとらえるなら、「意義がない、ゆえに意味はない(重要ではない)」ということになるはずですが、そういう意味でお書きになっていないような気がします。そのあとに「まとまった意味すら取れない」とお書きになっていまずが、ここは、日本語の方は「意味」でよいのですが、これをドイツ語に訳すとしたらBedeutungではなくSinnを使うことになります。つまり「man kann den Sinn vom Ganzen nicht verstehen」とでもなるのでしょう。 bragelonneさんの文の混乱は、「意味」と「意義」の違いがはっきりしていないだけでなく、それぞれがBedeutungとSinnには対応していないことが原因のようです。(あ‐3)と(あ‐2a)を読んだとき、意味が今一つよくわからないので、これをもとにBedeutungとSinnの説明に移行することはできません。一度要点を整理したいのですが、 1 ニーチェの『アンチ・クリスト』支離滅裂で意義がない=理解できない(sinnlos) 2a それ以外のニーチェ思想には意味がある=意味を成している、理解できる(sinnvoll) それとも 2b それ以外のニーチェ思想は意味がある=思想史において意味がある、重要である(bedeutungsvoll) 3 しかし、摂って滋養としようとするのは有意義ではない=愚かである(sinnlos) つまり、2の部分が、aの方をおっしゃっているのか、bの方をおっしゃっているのか、よくわからないのです。(あ‐2a )の文は、ですから、一読すると矛盾しているように聞こえてしまいます。 「言っていることの意味はあるが 摂って滋養とするべき意義はない」というのはどういうことなのでしょう。 ですから、 > おそらく・ただし この《摂って滋養とするべき意義はない》の《意義》を《意味》に代えてもだいたい同じ意味で通用すると思われる。 これは、日本語の問題ですね。そもそも「意義」という語は使いにくいと思うのですよ。「意味」という言葉は、文脈やほかの語との組み合わせ次第で、BedeutungにもSinnにもなりえるので、この文章で「意義」を「意味」にかえても同じ意味のように思われるのは、日本語として自然だからでしょう。例えば、同じ「意味」という語が含まれている日本文でも、 (1)それは、大して「意味」のあることではない(Es hat keine besondere Bedeutung) (2)そんなの無「意味」だ!(Es hat keine Sinn) ということになります。 ここから、No.1へのコメントをお借りしますが、 >4-2. der Sinn seiner Worte blieb mir verborgen >《 seiner 》って何ですか? 《或る人の》ですか? これは(つまり ジンは) 一般に決まった語義にそれを用いた人が何らかのニュアンスを付け加えているという意味なんでしょうか? これは例文なので、seinerは単純に「彼の」です。「彼の言った言葉の意味は私には謎だ」ということです。Worteは、「語」ではなく、「言った言葉」ですので、何らかのニュアンスを付け加えているのではなく、「どういう意味で言ったのか真意がわからない」ということです。 >B1. Sinn, der in Handlungen, Gegebenheiten, Dingen, Erscheinungen liegt 最初に申しあげたように、BedeutungとSinnは重なる部分もあります。Bedeutungの説明文中に同じBedeutungを使っては、辞書の説明にならないので、言い換えているだけです。ですから、ここでのSinnは、「意義」ではなく「意味」ですね。 >4-4. etwas ergibt [k]einen Sinn 本当にややこしいのですが、この場合は「意義」ではなく「意味」と訳した方がよいでしょう。「意味を成す、成さない」=「理にかなったことを生じる」 >jemandes Äußerung dem Sinne nach wiedergeben 「ある人の言ったことの大意を伝える」ということです。つまり、Sinnは、直接の意味というより、意味する内容ということですね。                  (続く)

bragelonne
質問者

お礼

 これは クリスマス直前短期集中特別講義ですね。  たすてん先生 こんばんは。ご回答をたいへんありがとうございます。  次のご説明が スコーンと胸に落ち着きました。  ★  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1)それは、大して「意味」のあることではない(Es hat keine besondere Bedeutung) (2)そんなの無「意味」だ!(Es hat keine Sinn)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ベドイトゥングは 《意味》のほかに《重要性》をも表わしうるのだけれど それは 人間が自己表現して醸し出す《おかしみ・軽さ・あるいは 何とも言えない味・味わい》などからは逸れるということでしょうか。後者の重みは ジンが担当するのだと。  あるいは 相手や読み手との関係において 話し手=書き手の自己表現ないし文体がさまざまな意味を持って来るときには ジンで表わす。のでしょうか。(まだなお 微妙でしょうか)。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   >jemandes Äußerung dem Sinne nach wiedergeben 「ある人の言ったことの大意を伝える」ということです。つまり、Sinnは、直接の意味というより、意味する内容ということですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これなどは まいりました。独文を相手にして雲をつかもうとしていたということが分かります。《意訳》ではない。意訳であるように見えてそうではない。《直接の意味というより》 その話し手の話の持った――そして聞き手とのあいだの関係において生じてくるような――味わいをむしろ言うとすればです。  日本文における《には》の問題をも指摘されています。これなどを含めて ほかにも参りましたというご指摘・ご教示がいっぱいです。  分からないことは 尋ねてみるものですね。  個々の具体的なコトにかんしては No.3のお礼欄にていま一度考えてつづってまいりたいと思います。  そして取りあえずここでは いわゆる目からウロコの中で ただひとつ以前の疑問が あれっ ここでは残っているみたいだと思ったところを正直に述べて さらに明らかになればよいがと思います。  それは 次です。:  ★(回答No.3) 「フランスの現在の国王」は、表現としては意味内容(Sinn)を持つが、意味(Bedeutung)は持たない。  ☆ ここは ジンとベドイトゥングとがぎゃくではないかと思ってしまうのです。こういう疑問は ここの一点だけです。  ○ この語句が言葉として表わすところは・つまり語がそれ自身で表示する内容は ベドイトゥングではないかと思ってしまうのです。  ○ フランス・現在・国王・の なる語がつくる表示内容は ベドイトゥングであるのではないか?  ○ けれどもその実質的な意味は 無いので 意義をも持たない。これが ジンなのではないか? です。    すなわち:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   >4-4. etwas ergibt [k]einen Sinn  本当にややこしいのですが、この場合は「意義」ではなく「意味」と訳した方がよいでしょう。「意味を成す、成さない」=「理にかなったことを生じる」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 和訳のややこしさにはかかわらず ジンは 《理にかなったこと》というようにベドイトゥングなる意味のほかにプラスαがついて来る。のではないか?  すなわち:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >4-2. der Sinn seiner Worte blieb mir verborgen  ・・・「彼の言った言葉の意味は私には謎だ」ということです。Worteは、「語」ではなく、「言った言葉」ですので、何らかのニュアンスを付け加えているのではなく、「どういう意味で言ったのか真意がわからない」ということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここについても 《プラスα》のことではないにもかかわらず 《真意》は何であるかを問題にするということは 直接の語義としてのベドイトゥングではなく 話し手の人柄ですとかその気持ちですとかがまだ何も現われていない。ゆえに 分からない・謎である。と言っているとは採れませんか?  《には》問題は 次のことを言おうとしていました。例文が・特にその扱う事柄が あいまいだったようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  1 ニーチェの『アンチ・クリスト』支離滅裂で意義がない=理解できない(sinnlos)  2a それ以外のニーチェ思想には意味がある=意味を成している、理解できる(sinnvoll)  3 しかし、摂って滋養としようとするのは有意義ではない=愚かである(sinnlos)  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ★ 2b それ以外のニーチェ思想は意味がある=思想史において意味がある、重要である(bedeutungsvoll)  ☆ ではなかったのでした。  あと  ★ これは、日本語の問題ですね。  ☆ と言うべき問題が交じっていたようです。むつかしいです。  取りあえずここまでをお応えして 全体をあらためて見直し考えてまいります。

その他の回答 (4)

回答No.5

こんにちは。 まず、フレーゲについて御紹介いただいたサイトの内容については、意外に思いました。Sinnの方の訳語が問題かと思っていたら、Bedeutung の方ですか。No.4で引用した「引照」の解説は、タイプするのが面倒で、一部のみにしたのですが、やはり補完しておきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  引照[reference]《意味論》〈記号(コトバなど)と、それに対応する事柄、モノとの対応関係〉。《犬》《イヌ》《dog》は犬を引照する、という。もちろん《引照》とは「記号とそれに対応する事柄、モノとの対応関係」を引照する[refer]、ともいえる。この場合、《引照されるモノ》を「引照物」[referend]《引照する記号》[refent]という。(指示[designation]と同じ意味にとってもよい。ただ、designate、designationが、《具体的な有形的事物を指す》という意味合いが強いので、無形的・抽象的・概念的事物や、それらの間の関係をもふくめて《引きしめす》という意味でrefer、referenceが最近では主として用いられる) (思想の科学研究会編「哲学・倫理用語辞典」三一書房) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 上の説明は、フレーゲに特化したものではなく、一般的なものですし、辞典そのものがだいぶ前のものですので、最新の議論には耐えないとは思いますが、これを読む限り、「指示」はdesignationで、それを避けるためにreferenceにしたということになっています。したがって、リンク先の議論については、なぜそうなっているのか把握できません。また、内部、外部という話も、ネット上でいくつか見たフレーゲに関するドイツ語の文献をざっと見た限り見当たらないので、何とも言えません。何せ、私の専門外の話ですし、時間もあまりかけられないので、フレーゲの著作をお読みいただくより仕方がありません。フレーゲは、言語哲学の父とよばれているそうですし、ウィトゲンシュタインとも交流があったようで、往復書簡がネットに出ていました。価値が認められたのは戦後だそうです。 一つ、私の読み落としがありました。「現在のフランスの国王」という文は、時代によって違う、という理由ではなく、現代について言った場合の例でした。ただし、この文について、 >ナンセンスという意味で ジンは無いと思ってしまいました。 とコメントをいただいておりますが、結果としてはナンセンスであるにせよ、文自体はナンセンスではないので(国王がいる時代にはそのまま使える文なので)、文としてはSinnがあるが、国王が存在しない現代に使うとBedeutungはない、ということでした。これは、ドイツ語版のWikipediaの記述でしたので、フレーゲ自身の文例ではないと思われます。 それから、Sinnについて、 >語句の外部においては 社会的自然(ナラハシのごとき)として帯びるようになる色合い・風合い・また飾りや あるいは話し手当人のさまざまな思わくとしてつけ添えられた心づもりや気持ち(さらには それらが醸し出すユーモアなどの雰囲気)である。 という解釈は、フレーゲに関しては誤りとなります。まず、BedeutungとSinnをはっきり区別する説明として、Sinn=Gedankeということがあります。これは、「単語だけでなく、文にもSinnとBedeutungが存在するか」、という設問に対する答えとして論証していく部分なのですが、長いので、結論だけ書きます。 文が表現する思考(Gedanke)が、Sinnにあたります。フレーゲは、思考を、「科学的論考の対象となりえる、複数の主体にとって到達可能な実在」と解しており、それは「主観的思考行為ではなく、多くの者が共有できるような客観的内容を有するもの」とされています。そして、文にBedeutungがあるかどうかは、その文の言っていることが真であるか偽であるかによって決まる、とあります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ In Anlehnung an seine Lehre von Sinn und Bedeutung von Eigennamen fasst Frege den Gedanken als eine mehreren Subjekten zugängliche Entität auf, die somit Gegenstand wissenschaftlicher Diskussion sein kann. Entsprechend erläutert er in einer Fußnote: „Ich verstehe unter Gedanken nicht das subjektive Tun des Denkens, sondern dessen objektiven Inhalt, der fähig ist, gemeinsames Eigentum von vielen zu sein.“ Ob also in einem Satz nicht nur ein Sinn, ein ihm zugrund liegender Gedanke ausgedrückt wird, sondern darüber hinaus diesem Satz auch noch eine Bedeutung zukommt, sich von ihm also sinnvoll aussagen lässt, dass er wahr oder falsch sei, hängt davon ab, ob den in ihm vorkommenden Worten als Eigennamen ebenfalls eine Bedeutung zukommt. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ですから、21世紀の今、「フランスの現在の国王」という文はナンセンスなので、sinnlosとつい考えてしまうのですが、真ではないので、Bedeutungがないということです。この辺は、Bedeutungのもう一つのニュアンス、「価値、重要性」と関係があるのかもしれません。 したがって、「丸い三角形」というのは、真ではないのでbedeutungslossとなり、また、 >引照物がなくて意味がないという場合も その無い意味があると見るなら やはりベドイトゥングもあると見たほうが 一般性を持つのではないでしょうか。 というのも、フレーゲの論理では全く無理となるでしょう。 とりあえず、以下のようにまとめます。 Bedeutung 具体的にある「もの」や「概念」を指し示す、真であり、価値がある Sinn 多くの人間が共有できる、客観的内容を有する思考内容 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 今回は、これで十分と思いますが、簡単な数式の例を一つ補足しておきます。 2×2^3+ 2 3×6 22 – 4 これらは、三つの異なるSinnですが、すべてが「18」という、同じBedeutungを持ちます。     ― 完 ―

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。たいへんありがとうございます。ボケつつ入れたツッコミにも対処していただきました。  フレーゲの入り口にたどり着いているように思います。(前回までの議論を ご指摘にしたがって修正しつつですが)。  ☆☆(No.3お礼欄) ジンが持ち合わせる《影響》は 人間のおこなう自己表現としての重みが 内部にも外部にも及ぶ場合を言うのだろうか。  ☆ という認識を得ていたことに ささやかな自己満足のような安堵感を持ちました。  すなわち  ★ Sinn: 多くの人間が共有できる、客観的内容を有する思考内容    ☆ 《客観性・一般性 あるいはむしろ真偽の問題》が ベドイトゥングのほうにも要請されているのですね。  ★ Bedeutung: 具体的にある「もの」や「概念」を指し示す、真であり、価値がある  ☆ つまり 特にフレーゲにおいてはなのだと思います。  それなら――つまり一般性があるのなら―― 《引照》は〔たぶん 《抽象的な〈指示〉》というかたちで同じようなハタラキとして〕はたらいているし つねにはたらくと考えられます。内容に《一般性》としての保証があるのだと。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  簡単な数式の例を一つ補足しておきます。   2×2^3+ 2   3×6   22 – 4  これらは、三つの異なる Sinn ですが、すべてが「18」という、同じ Bedeutung を持ちます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ だとしましたら 納得します。 すなわち 《明けの明星》と《宵の明星》とが それぞれ人間の思考・認識を経たそのあとの表現形態となっている。異なる表現物であって ジンである。いづれも《金星》であることは ベドイトゥングである。と。  こういう仕掛けでしたか。こういう仕組みだったんですね。          *  イタチの最後っ屁のようになってしまってはなはだ芳しくありませんが やはりひと言です。:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  文が表現する思考(Gedanke)が、Sinnにあたります。フレーゲは、思考を、「科学的論考の対象となりえる、複数の主体にとって到達可能な実在」と解しており、それは「主観的思考行為ではなく、多くの者が共有できるような客観的内容を有するもの」とされています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このフレーゲの言語哲学にとっての前提についてですが このように言ってみれば狭く《文》なら文というものを設定しているとは思いませんでした。  言語をあつかう場合なら けっきょくデタラメの文表現をもふつうの文と同等に取り上げて出発するものと思っていたのです。(だから 紹介記事を読んでも触手が動かなかったのかなとも思いました。そういう問題ってないんでしょうかねぇ)。  文字通り苦し紛れの最後っ屁です。わたしがわたしとして今あることの弁明ですので 取り上げました。        *    ふつうにみなさんが この二つのドイツ語をめぐってどう扱っていくのかと思いめぐらすときに 参照するによい里程標を立ててくださったものと思います。  フレーゲへとすすむ人たちにとっても よい準備体操になるのではないでしょうか。

回答No.4

No.2へのお礼を拝見して書いています。 まず、スペルミスがありました。 (2)そんなの無「意味」だ!(Es hat keine Sinn) keineではなく、keinenです。 大体ご理解いただいたように思います。「フランス国王」の個所は、回答をお送りしたあと、食事をしながら、補足が必要かもしれないと思っていた個所です。 >★(回答No.3) 「フランスの現在の国王」は、表現としては意味内容(Sinn)を持つが、意味(Bedeutung)は持たない。  >☆ ここは ジンとベドイトゥングとがぎゃくではないかと思ってしまうのです。こういう疑問は ここの一点だけです。 ここはすでに、フレーゲの言語哲学にはいっている部分ですので、日常会話の用法だけから推測すると間違います。No.3の冒頭に書きましたが、この場合のBedeutungは「引照」に当たります。  引照[reference]《意味論》〈記号(コトバなど)と、それに対応する事柄、モノとの対応関係〉。《犬》《イヌ》《dog》は犬を引照する、という。もちろん《引照》とは「記号とそれに対応する事柄、モノとの対応関係」を引照する[refer]、ともいえる。(中略)《引きしめす》という意味。 (思想の科学研究会編「哲学・倫理用語辞典」三一書房) 例えば、この「フランスの現在の国王」という表現に含まれる「フランス」という語は、「フランスという特定の国」を引照します。これがBedeutung=referenceですから、「フランス」という語にはBedeutungがあります。ところが、「フランスの現在の国王」というのは、時代によって違う人物ですので、ルイ14世か、ナポレオン1世かわかりません。つまり、「フランスの現在の国王」は、表現としては意味(Sinn)をなしますが、引照物がないので、Bedeutungが存在しない、ということになります。この、フレーゲの理論でいくと、「1643年から1715年まで在位したフランス国王」と「太陽王」は、二つの異なるSinnですが、両方の語のBedeutungは、ともに「ルイ14世」ということになります。 それから、次の2例におけるSinnは、日常的にドイツ語を話している感覚からいうと、Bedeutung+αではなく、別物といいたいところです。 etwas ergibt einen Sinn 生じるのは、役にたつもの、道理にかなったもの、合理的なもの、有意義なこと(言葉とは関係がない) der Sinn seiner Worte blieb mir verborgen 「真意」といったので誤解につながったかもしれませんが、人柄とか気持ちというより、単純に、内容が理解できない、ということですね。難しい哲学書を読んでいるとき、何度読み返してもなんだかわからないときのことを考えてもよいでしょう。「含蓄」に近いかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  こちらから先にまなんでまいります。  ○ der Sinn seiner Worte blieb mir verborgen  ☆ でしたら チンプンカンプンという意味でいいのでしょうか。  ○ etwas ergibt einen Sinn   = 生じるのは、役にたつもの、道理にかなったもの、合理的なもの、有意義なこと(言葉とは関係がない)   ★ 日常的にドイツ語を話している感覚からいうと、Bedeutung+αではなく、別物といいたいところです。  ☆ はあぁと驚きます。何かいいアイディアとか仕組みを考え出したとか そういった感じでしょうか。  さて フレーゲ問題にすでに入っていたという問題です。  ★ 「フランスの現在の国王」は、表現としては意味(Sinn)をなしますが、引照物がないので、Bedeutungが存在しない、ということになります。  ☆ わたしは この《現在》を文字通り いまの共和国である現在時のことかと受け取っていました。ですから 実質的な中身はないと解釈しました。ナンセンスという意味で ジンは無いと思ってしまいました。  ここで屁理屈をひとつ。  《フランス / の / 現在 / 国王》なる語で形成した語句としての《フランスの現在の国王》は 引照物が無いというかたちで 表現をおこなっている。そういう形のベドイトゥングを持たせようとしている。つまり ひとつのアソビとしての表現であると。  《丸い三角形》という想像が 現実にあり得るかも分かりません。といったように。  すなわち 引照物がなくて意味がないという場合も その無い意味があると見るなら やはりベドイトゥングもあると見たほうが 一般性を持つのではないでしょうか。  つまり 野次馬もびっくりの発言ですが やはり語には シルシ(声・文字)と意味とがあると見るのが 分かりやすいのではないか。指示とか引照とか言うのも 大きく《意味》の問題であると言って言えなくはない。と見るのですがねぇ。  ひと言多いぶらげろでした。

回答No.3

(続き) Bedeutungは、使われ方に関係なく、単純に「その語が初めから持っている意味」です。ですから、a prioriと説明されます。フレーゲが言うBedeutungは、言語学でいう「引照(reference,Referenz)に当たるそうです。Sinnはもう少し広い範囲で、語の使われ方や、最終的に意味する内容、理解のされ方にかかわってくると思います。ですから、「狭義」、「広義」は、「im engeren Sinne」、「im wieteren Sinne」とは言いますが、このSinneをBedeutungに置き換えることはできません。 それから、Die Bedeutung des Wortesという言い方ですが、これは単純に「言葉の意味」ということになります。では、Der Sinn des Wortesといえるでしょうか。googleの検索にかけてみると、まず出てくる表現は、 im wahrsten Sinne des Wortes その語の真の意味で im eigentlichen Sinne des Wortes その語の本来の意味で im doppelten Sinne des Wortes その語の二重の意味で などで、Der Sinn des Wortesだけは出ません。ほかには、例えば Der Sinn des Wortes Gottes 神の言葉の意味するところ が出ますが、Bedeutungでは置き換えられません。また、 Der Sinn des Wortes Deutsch なども出ますが、これも、「Deutsch」という語の意味は「ドイツという国、ドイツ語」だといっているのではなく、もっと深いところまで、その語の意味内容を言っているので、Bedeutungでは置き換えられません。ちなみに、これは書籍のタイトルです。「Deutschという言葉は何を意味するのか」 ほかに、Bedeutungには置き換えられない、Sinnの意味がよくわかる用例を挙げます。 Er ist ein Künstler im wahrsten Sinne.(彼は真の意味での芸術家だ) im Sinne des Gesetzes(法律の精神にのっとって) Es hat keinen Sinn, länger zu warten.(これ以上待つことは無意味だ) また、言葉の原義から離れて別の意味で使用されることをいう「転義」は、「der übertragene Sinn」といいます。 ドイツ語と英語の対照としては、大体、 Bedeutung = meaning, importance Sinn = sense となる場合が多いようですが、Sinnをmeaningで訳す場合もあります。 http://www.dict.cc/?s=Bedeutung http://www.dict.cc/?s=Sinn&pagenum=2 フレーゲの方ですが、「金星」は、単に一つの惑星を意味するだけです。それが明け方に現れるか、宵に現れるかで「明けの明星」、「宵の明星」と呼ばれるのが、二つの異なる「Sinn」だというのですが、この場合、訳語として「意義」は不適切な気がします。翻訳が出ているようですが、何と訳しているのでしょうか。フレーゲの言うSinnがまだよくわからないのですが、これは著作を読まないとだめですね。今手元に、Deutscher Taschenbuch Verlagから出ている「dtv-Atlas zur Philosophie(哲学図解)」を見ると、次のようなことが書かれています。 (1) gleiche Bedeutung Morgenstern ⇔ Abendstern verschiedener Sinn (2) 「スコット」と「ウェイヴァリーの著者」は同じ意味(gleiche Bedeutung)を持つ、すなわち、「ウォルター・スコットという人物」。しかし、異なる意味内容(verschieden Sinn)を持つ。 「フランスの現在の国王」は、表現としては意味内容(Sinn)を持つが、意味(Bedeutung)は持たない。 (3) フレーゲは、ライプニッツの置換の原理を引き継いでいる。 相互に置き換えられるものは同一であり、置き換えに際して真実が変えられることはない(salva veritate)。 つまり、表現の本質的な構成要素の一つは、同じ意味(Bedeutung)を持つほかの構成要素と置き換えることができ、その際、意味内容(Sinn)は変えられるが、意味(Bedeutung)は変わらない。 Sinnを「意義」と訳すとわかりにくいので、とりあえず「意味内容」としておきました。「含意」ではどうなのでしょう。まずいでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ううーん。ううーん。と今も うなっていますが少し――例によって強引になると思いますが―― 整理されて来たような感じもあります。大胆に述べて検証いただければ幸いです。  その前に フレーゲ問題ですが どうも――読んでいないのですから当然ですが―― 一筋縄では行かないようです。  Sinn と入れて何気なく検索していたら 次のサイトに出くわしました。それも 我がはてなのブログなのでやはり何気なしに読んでると ややわたしの言おうとしていたことに近い内容が論じられていました。reference が引照の代わりに 指示として訳されています。  ● (nuhsnuhの日記)Why Is It Incorrect to Translate ’Bedeutung’ as ’Reference’?   http://d.hatena.ne.jp/nuhsnuh/20110212#20110212fn9  ● (Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すべきではない Dummettian な理由)~~~~~~~~~~  (《最後に》の段落の手前の結論)  (☆ Dummettian というのは Dummett という人の議論のようです)。  ところで「指示 (reference)」とは、言語表現と、この言語表現外の、何か自身のことである。したがって「指示 (reference)」という言葉では、言語外への側面に強調点が置かれていることになる。「指示 (reference)」という言葉からは言語内で働いているメカニズムがあり得るということに気が付かない。  もしも Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すならば、Frege の Bedeutung に備わっている言語外を目指す特徴と言語内で働く特徴の二つの側面を同時に表すことができない。言語外を目指す特徴は表すことができても、言語内で作用している特徴を表すことができない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 語句または一文の 内部と外部とがあるということではないか。  《現在 フランスには国王はいないし 制度として王制でもない》という一文について まづ《現在 / フランス / 国王 /・・・》といった語句の内部としての意味もそして外部にそれが指示し引き合わせるような対象も 一般的に見て あり得ます。ベドイトゥングが / として機能している。  ところが この一文全体についてはその内部にしても外部にしても それが指示する対象は 何か? 何と引き合わせようとしているか? つまりベドイトゥングのハタラキとしてどうか? なのだと思います。(ダメットの議論はそうではないかも知れませんが わたしはそう読みました)。  《意味》は ハタラキとしてあり得ていますが 《指示 / 引照》はハタラキを 一文にかかわるものとしては失う。  間違っているであろうと思いますが 取りあえずそういう感触を得ました。  つまり 言語学の本では フレーゲなる名もよく見かけます。ので フレーゲではなかったのですが いちどクリプキなる名に引かれて図書館から借りて来ました。読み始めたところ 歯が立ちません。(むろん翻訳です)。本心では こういう論理の駆使をする趣味はわたしにはないでした。  というわけで――と言っても 煮え切っていませんが―― フレーゲ問題は一たんエポケーとしようかと考えます。(必要ならば またあちらからやって来るというような態度です ぶっちゃければ)。       *  さて ジンとベドイトゥングです。  先ほどの語句の内外という見方を用いて 次のように仮説してみました。  ジンとは   語句の内部においては その奥行き・深さ・幅・それにその中身の味わいにまで及んで持ち合わせている概念内容であり   語句の外部においては 社会的自然(ナラハシのごとき)として帯びるようになる色合い・風合い・また飾りや あるいは話し手当人のさまざまな思わくとしてつけ添えられた心づもりや気持ち(さらには それらが醸し出すユーモアなどの雰囲気)である。  どうですかねぇ。言い過ぎていましょうか。  ベドイトゥングは   語句の内外にわたって 言葉が概念として持つ内容を軸として捉えた重みのようなもの   この場合の外部とは 語句の重み(=意味)が持つ影響のようなもの  ジンが持ち合わせる《影響》は 人間のおこなう自己表現としての重みが 内部にも外部にも及ぶ場合を言うのだろうか。  ★ Sinnを「意義」と訳すとわかりにくいので、とりあえず「意味内容」としておきました。「含意」ではどうなのでしょう。  わたしのほうの議論は 問い求めというのは 極論を交えてすすめると 進展・発展がのぞめる場合がありますので いまはこのように。

  • BASKETMM
  • ベストアンサー率29% (240/806)
回答No.1

Duden の辞書を online で参照しましょう。 http://www.duden.de/rechtschreibung 窓に、Sinn あるいは Beduetung と入れてご覧なさい。 Sinn Substantiv, maskulin - 1. Fähigkeit der Wahrnehmung und Empfindung …2. Gefühl, Verständnis für etwas; innere …3a. jemandes Gedanken, Denken Zum vollständigen Artikel klicken Sie hier. と出てきたら、vollständigen Artikel をクリックしてください。

bragelonne
質問者

お礼

 ばすけっとえむえむさん こんにちは。ご説明をたいへんありがとうございます。  今回 質問を挙げるにあたってはいっさい自分で憶測をしないと決めました。資料を―― sense と meaning との語源を英語のヱブサイトで確認しましたが――さがすこともしませんでした。すみませんと言いますか。  次の辞典の資料から ベドイトゥングとジンとの違いを考え出せということになりましょうか。  ▲ Sinn, der ~~~~~~~~~~~~~~~~  http://www.duden.de/rechtschreibung/Sinn  ○ Bedeutungen  1. Fähigkeit der Wahrnehmung und Empfindung (die in den Sinnesorganen ihren Sitz hat)  2. Gefühl, Verständnis für etwas; innere Beziehung zu etwas  3a.  (gehoben) jemandes Gedanken, Denken  3b.  (gehoben) Sinnesart, Denkungsart  4. gedanklicher Gehalt, Bedeutung; Sinngehalt  5. Ziel und Zweck, Wert, der einer Sache innewohnt  ▲ 4. gedanklicher Gehalt, Bedeutung; Sinngehalt ~~~~~  ○ Beispiele  4-1. der verborgene, geheime, tiefere Sinn einer Sache  4-2. der Sinn seiner Worte blieb mir verborgen  4-3. den Sinn von etwas begreifen  4-4. etwas ergibt [k]einen Sinn  4-5. etwas macht [k]einen Sinn (umgangssprachlich; etwas ergibt [k]einen Sinn, ist [nicht] verständlich, sinnvoll; nach englisch something makes sense)  4-6. jemandes Äußerung dem Sinne nach wiedergeben  4-7. im engeren, weiteren Sinn  4-8. im Sinne des Gesetzes (so, wie es das entsprechende Gesetz vorsieht)  ○ Wendungen, Redensarten, Sprichwörter  4-9. [nicht] im Sinne des Erfinders sein (umgangssprachlich: [nicht] in jemandes ursprünglicher Absicht liegen)  ▼ Bedeutung, die  ~~~~~~~~~~~~~~   http://www.duden.de/rechtschreibung/Bedeutung  ○ Bedeutungen    B1. Sinn, der in Handlungen, Gegebenheiten, Dingen, Erscheinungen liegt  B2. das Bedeuten; begrifflicher Inhalt eines Zeichens; Beziehung zwischen Wortkörper und begrifflichem Inhalt  B3. Gewicht, Tragweite, Belang  B4. Geltung, Ansehen, Wert   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(あ) 辞書で語の意味というときには 《 Bedeutungen 〔des Wortes 〕》のほうを用いるのですね。これは次の一項目に当てはまりましょうか。   ▼  B2. das Bedeuten; begrifflicher Inhalt eines Zeichens; Beziehung zwischen Wortkörper und begrifflichem Inhalt  (い) ただし   ▲ 4-2. der Sinn seiner Worte blieb mir verborgen    というようにも言うのですね。違いがあるのか無いのか。《 seiner 》って何ですか? 《或る人の》ですか? これは(つまり ジンは) 一般に決まった語義にそれを用いた人が何らかのニュアンスを付け加えているという意味なんでしょうか?  (う) しかしながらか・またはやはりか Sinn の意味として Bedeutung が出て来て Bedeutung の意味には Sinn が出て来ます。つまり 互いに通用する部分を持つとは思われる。    (え) 特に Bedeutung について   ▼  B1. Sinn, der in Handlungen, Gegebenheiten, Dingen, Erscheinungen liegt  というふうに言われてしまっては まったく Sinn と同じであるとさえ思われて来ます。  (お) Sinn については 《感覚・思想・目的》などの語義は措いておいて 《4.gedanklicher Gehalt, Bedeutung; Sinngehalt》を取り出しさらにその用例について Bedeutung との違いを見てみることにしています。  (か) 先ほどの(い)における《ニュアンス》の問題にかかわるのでしょうか 一方で:   ▲ 4-3. den Sinn von etwas begreifen  というのはおそらく 辞書の意味(= Bedeutung )と同じような用例であると思われる反面で 次はニュアンスの問題として Bedeutung とは違って来ているというように感じられます。   ▲ 4-4. etwas ergibt [k]einen Sinn  つまり語やおこないに意味(= Bedeutung )はあるけれど 〔ニュアンスからさらに延長された〕見るべき意義が生じる・生じないと言っているのでしょうか?  (き) 次のように 英語のセンスに対応する用例は分かり易いですね。そこでは ベドイトゥングは使わないのでしょう。   ▲ 4-5. etwas macht [k]einen Sinn (umgangssprachlich; etwas ergibt [k]einen Sinn, ist [nicht] verständlich, sinnvoll; nach englisch something makes sense)  (く) 次は 《誰かの発表を 意義にしたがって 翻訳する》と言っているのでしょうか?    ▲ 4-6. jemandes Äußerung dem Sinne nach wiedergeben  つまりどういうことでしょう。直訳ではなく意訳するという意味ですか? だとすると ジンは ベドイトゥング+α(表現者の思わくなど)だということなのでしょうか?  (け) けれども ベドイトゥングのほうには   Tragweite 射程 2.影響〔力〕、結果、効果、意義   Belang 重要   Geltung 価値〔あること〕;重要さ;効力 2.Geltung eines Wortes 語の意味(通意)、語義 3. 妥当性    (木村・相良独和辞典 1963)  といった意味もがあるということですね。日本語の《意味》と同じようだと言えば そうなのですが 《価値》や《意義》という意味をも持つことは だとしたら ジンとあまり変わらないということにもなる。のでしょうか? いえ 分かりません。ややこしい。  (こ) こうなると――つまり 以上の解釈が当たっているとすれば そうすると――けっきょくそれぞれの語の問題では必ずしもなく むしろフレーゲがその議論の中で仮説的に両者を区別して用いていることに問題はあるのかも知れない。と思われて来ます。  (さ) たぶんわたしの《射程》は このへんまでです。  みなさんのご回答に俟ちたいと思います。

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  • 何と言う《神は死んだ》のか?

     主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをした我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思いますが 割愛します。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

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