• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:Bedeutung と Sinn との違いは?)

BedeutungとSinnの違いとは?

Tastenkastenの回答

回答No.3

(続き) Bedeutungは、使われ方に関係なく、単純に「その語が初めから持っている意味」です。ですから、a prioriと説明されます。フレーゲが言うBedeutungは、言語学でいう「引照(reference,Referenz)に当たるそうです。Sinnはもう少し広い範囲で、語の使われ方や、最終的に意味する内容、理解のされ方にかかわってくると思います。ですから、「狭義」、「広義」は、「im engeren Sinne」、「im wieteren Sinne」とは言いますが、このSinneをBedeutungに置き換えることはできません。 それから、Die Bedeutung des Wortesという言い方ですが、これは単純に「言葉の意味」ということになります。では、Der Sinn des Wortesといえるでしょうか。googleの検索にかけてみると、まず出てくる表現は、 im wahrsten Sinne des Wortes その語の真の意味で im eigentlichen Sinne des Wortes その語の本来の意味で im doppelten Sinne des Wortes その語の二重の意味で などで、Der Sinn des Wortesだけは出ません。ほかには、例えば Der Sinn des Wortes Gottes 神の言葉の意味するところ が出ますが、Bedeutungでは置き換えられません。また、 Der Sinn des Wortes Deutsch なども出ますが、これも、「Deutsch」という語の意味は「ドイツという国、ドイツ語」だといっているのではなく、もっと深いところまで、その語の意味内容を言っているので、Bedeutungでは置き換えられません。ちなみに、これは書籍のタイトルです。「Deutschという言葉は何を意味するのか」 ほかに、Bedeutungには置き換えられない、Sinnの意味がよくわかる用例を挙げます。 Er ist ein Künstler im wahrsten Sinne.(彼は真の意味での芸術家だ) im Sinne des Gesetzes(法律の精神にのっとって) Es hat keinen Sinn, länger zu warten.(これ以上待つことは無意味だ) また、言葉の原義から離れて別の意味で使用されることをいう「転義」は、「der übertragene Sinn」といいます。 ドイツ語と英語の対照としては、大体、 Bedeutung = meaning, importance Sinn = sense となる場合が多いようですが、Sinnをmeaningで訳す場合もあります。 http://www.dict.cc/?s=Bedeutung http://www.dict.cc/?s=Sinn&pagenum=2 フレーゲの方ですが、「金星」は、単に一つの惑星を意味するだけです。それが明け方に現れるか、宵に現れるかで「明けの明星」、「宵の明星」と呼ばれるのが、二つの異なる「Sinn」だというのですが、この場合、訳語として「意義」は不適切な気がします。翻訳が出ているようですが、何と訳しているのでしょうか。フレーゲの言うSinnがまだよくわからないのですが、これは著作を読まないとだめですね。今手元に、Deutscher Taschenbuch Verlagから出ている「dtv-Atlas zur Philosophie(哲学図解)」を見ると、次のようなことが書かれています。 (1) gleiche Bedeutung Morgenstern ⇔ Abendstern verschiedener Sinn (2) 「スコット」と「ウェイヴァリーの著者」は同じ意味(gleiche Bedeutung)を持つ、すなわち、「ウォルター・スコットという人物」。しかし、異なる意味内容(verschieden Sinn)を持つ。 「フランスの現在の国王」は、表現としては意味内容(Sinn)を持つが、意味(Bedeutung)は持たない。 (3) フレーゲは、ライプニッツの置換の原理を引き継いでいる。 相互に置き換えられるものは同一であり、置き換えに際して真実が変えられることはない(salva veritate)。 つまり、表現の本質的な構成要素の一つは、同じ意味(Bedeutung)を持つほかの構成要素と置き換えることができ、その際、意味内容(Sinn)は変えられるが、意味(Bedeutung)は変わらない。 Sinnを「意義」と訳すとわかりにくいので、とりあえず「意味内容」としておきました。「含意」ではどうなのでしょう。まずいでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ううーん。ううーん。と今も うなっていますが少し――例によって強引になると思いますが―― 整理されて来たような感じもあります。大胆に述べて検証いただければ幸いです。  その前に フレーゲ問題ですが どうも――読んでいないのですから当然ですが―― 一筋縄では行かないようです。  Sinn と入れて何気なく検索していたら 次のサイトに出くわしました。それも 我がはてなのブログなのでやはり何気なしに読んでると ややわたしの言おうとしていたことに近い内容が論じられていました。reference が引照の代わりに 指示として訳されています。  ● (nuhsnuhの日記)Why Is It Incorrect to Translate ’Bedeutung’ as ’Reference’?   http://d.hatena.ne.jp/nuhsnuh/20110212#20110212fn9  ● (Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すべきではない Dummettian な理由)~~~~~~~~~~  (《最後に》の段落の手前の結論)  (☆ Dummettian というのは Dummett という人の議論のようです)。  ところで「指示 (reference)」とは、言語表現と、この言語表現外の、何か自身のことである。したがって「指示 (reference)」という言葉では、言語外への側面に強調点が置かれていることになる。「指示 (reference)」という言葉からは言語内で働いているメカニズムがあり得るということに気が付かない。  もしも Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すならば、Frege の Bedeutung に備わっている言語外を目指す特徴と言語内で働く特徴の二つの側面を同時に表すことができない。言語外を目指す特徴は表すことができても、言語内で作用している特徴を表すことができない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 語句または一文の 内部と外部とがあるということではないか。  《現在 フランスには国王はいないし 制度として王制でもない》という一文について まづ《現在 / フランス / 国王 /・・・》といった語句の内部としての意味もそして外部にそれが指示し引き合わせるような対象も 一般的に見て あり得ます。ベドイトゥングが / として機能している。  ところが この一文全体についてはその内部にしても外部にしても それが指示する対象は 何か? 何と引き合わせようとしているか? つまりベドイトゥングのハタラキとしてどうか? なのだと思います。(ダメットの議論はそうではないかも知れませんが わたしはそう読みました)。  《意味》は ハタラキとしてあり得ていますが 《指示 / 引照》はハタラキを 一文にかかわるものとしては失う。  間違っているであろうと思いますが 取りあえずそういう感触を得ました。  つまり 言語学の本では フレーゲなる名もよく見かけます。ので フレーゲではなかったのですが いちどクリプキなる名に引かれて図書館から借りて来ました。読み始めたところ 歯が立ちません。(むろん翻訳です)。本心では こういう論理の駆使をする趣味はわたしにはないでした。  というわけで――と言っても 煮え切っていませんが―― フレーゲ問題は一たんエポケーとしようかと考えます。(必要ならば またあちらからやって来るというような態度です ぶっちゃければ)。       *  さて ジンとベドイトゥングです。  先ほどの語句の内外という見方を用いて 次のように仮説してみました。  ジンとは   語句の内部においては その奥行き・深さ・幅・それにその中身の味わいにまで及んで持ち合わせている概念内容であり   語句の外部においては 社会的自然(ナラハシのごとき)として帯びるようになる色合い・風合い・また飾りや あるいは話し手当人のさまざまな思わくとしてつけ添えられた心づもりや気持ち(さらには それらが醸し出すユーモアなどの雰囲気)である。  どうですかねぇ。言い過ぎていましょうか。  ベドイトゥングは   語句の内外にわたって 言葉が概念として持つ内容を軸として捉えた重みのようなもの   この場合の外部とは 語句の重み(=意味)が持つ影響のようなもの  ジンが持ち合わせる《影響》は 人間のおこなう自己表現としての重みが 内部にも外部にも及ぶ場合を言うのだろうか。  ★ Sinnを「意義」と訳すとわかりにくいので、とりあえず「意味内容」としておきました。「含意」ではどうなのでしょう。  わたしのほうの議論は 問い求めというのは 極論を交えてすすめると 進展・発展がのぞめる場合がありますので いまはこのように。

関連するQ&A

  • 「くみかえる」と「変える」の違いについて

     日本語を勉強中の中国人です。「くみかえる」という言葉についてお伺いします。この語彙のなかの「くみ」という部分はどういうような意味でしょうか。「変える」との違いがよくわかりません。辞書に「予算をくみかえる」と「日程をくみかえる」という用例が出ているのですが、「予算を変える」と「日程を変える」との違いがいまひとつよくわかりません。どなたか教えていただけませんか。  また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 「憎み」と「憎しみ」の違い

     日本語を勉強中の中国人です。「憎み」と「憎しみ」の違いは何でしょうか。辞書で「愛と憎しみ」という用例を見つけました。「愛」と「憎しみ」は対義語概念でしょうか。「愛と憎み」という組み合わせならおかしいのでしょうか。  また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • ニーチェの「永遠回帰」とは?

    ニーチェはスイスの保養地、シルスマーリアの近郊の山々を散策している時、突然、人類と地上を遥か超える3000フィート!と叫んで「永遠回帰の思想」を懐胎した、と、「悦ばしき知識」の中で言っています。 「永遠回帰の思想」はニーチェにとって、キリスト教の「福音」に代わる、新しい「福音」でした。 どういう意味で、それが「福音」なのかといえば、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学に代わって、自分の「力への意志」が、これからの哲学でなければならない、と言ったものでした。 ニーチェは言っています、存在に対して生成の優位を唱えること、それが「力への意志」であると。 存在に対して生成の優位を唱えることは、アリストテレスの目的論と、キリスト教の終末論に対して、古代ギリシャの円環的な時間の考えを対抗させること。 直線的な時間の考えに対して、円環的な時間の考えを対抗させること。 時間が直線的と言ったのは、キリスト教とその終末論です。 最後の審判に向かって、時間は直線的に進行する、という。 アリストテレスの目的論も、有機体をモデルに、歴史には、その目的がある、という。 ニーチェは、このアリストテレスとキリスト教の「目的論」を否定するために「永遠回帰」の思想を唱えました。 すでに、ニーチェの前のショーペンハウワーは、世界の根源は「生きんとする意志」で、「生きんとする意志」は目的を持たない、盲目である、と言っていました。 だから人間が救われるためには、この「生きんとする意志」を否定しなければならない、と言っていました。 ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。 それはこれまでの、最高価値であったキリスト教の価値観、人類は終末に向かって、最後の審判で人々が天国に迎えられるために、人生は意味のあるものでなければならないと言ったことへの否定でもありました。 ニーチェはそのようなキリスト教の価値観を「ニヒリズム」と言って、断罪します。 それは存在を優位に考える思想であり、それは「ニヒリズム」である、と。 (この場合「ニヒリズム」とは日本で「虚無主義」と訳しているのとは逆の「存在主義」という意味で) ニーチェはキリスト教のみならず、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学は「ニヒリズム」であり、西洋の哲学の歴史は「ニヒリズムの歴史」であり、キリスト教は「ニヒリズムの宗教」と言って断罪します。 彼らは、存在だけを論じ、無を無視してきた、それが西洋の哲学の歴史であり、キリスト教なのだ、と。 この「存在を無視する」というのが「ニヒリズム」です。 事実、西欧世界に仏教の「無の思想」が知られたのは、19世紀の半ばでした。 それを知って西欧の人々はびっくりし、そして畏怖しました。 「なんと、東洋には無を唱える宗教がある!」というわけです。 ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。 天に超越的な存在としての神があり、地上に私たちの世界がある、そして天の世界こそ、ホンモノの世界であり、地上の世界はニセモノの世界とキリスト教は言ってきましたが、その「二元論」、有と無の対立を否定し、生成の世界を対抗させなければならない、とニーチェは言います。 ニーチェの「同一物の永遠回帰」を、無が回帰する、無意味が繰り返す、と解釈する人がいますが、それは誤解です。 「存在に対して生成へ!」を唱えるものです。 直線的な時間に、円環的な時間を対置することです。 直線的な時間はキリスト教の終末論と、アリストテレスの目的論につながり、歴史の「進歩発展」につながりますが、ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。 目的よりも「力へ!」です。 それこそが、ニーチェにとって、「永遠回帰」の思想が、新しい「福音」であるゆえんです。 どうですか?

  • ニーチェ権力への意思361に関して教えて下さい。

    ニーチェと言えば、反キリスト教思想ですが、権力への意思 361 に限っては、 「キリスト教的理想の永続は、ありうるうちの最ものぞましいことの1つであり...」 とちくま文庫版を読むとあるので驚いているのですが、権力への意思は妹の エリーザベトが関わっているみたいなので、この文の信頼性ってどの程度なのでしょうか。 妹が書き加えたとかって可能性はありますか? 白水社版でもこの361の断片?は存在するのでしょうか? もしご存知でしたら、白水社版の何巻を買えば読めるのかも教えて下さい。 よろしくお願いします。

  • キリスト教的世界観を壊した人物

    「キリスト教徒として生まれながら、キリスト教的世界観を(いろんな意味で)破壊しようとした人物」として誰が挙げられるでしょうか? 例えばガリレイやダーウィンは、科学的真実を追い求めた結果、期せずして聖書の記述と異なる主張をすることになり、教会側と対立しましたよね。 ニーチェは、キリスト教の道徳を「ルサンチマン=有用なる誤解」と称して否定したとか。 理系の科学者でも構いませんし、文系の思想家でも構いません。 キリスト教による既成の世界観を、何らかの意味で破壊したり否定しようとした人物を教えてください。

  • どんな《神は死んだ》のか?

     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの〔ニーチェの〕文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてそんなに熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • どんな《神は死んだ》のか?

     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • 何と言う《神は死んだ》のか?

     主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをした我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思いますが 割愛します。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • 「切り替える」と「変える」の違いについて

     日本語を勉強中の中国人です。先日は「くみかえる」と「変える」の違いについて教えていただきありがとうございました。今日、「切り替える」という言葉についてお伺いします。「切り替える」の「切り」という部分はどういう意味でしょうか。「変える」との違いがよくわかりません。どなたか教えていただけませんか。  また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 意味の違いを教えてください。

    1.技能を生かせる仕事。 2.技能が生かせる仕事。 1と2の意味の違いは何でしょうか? 2の文が正しくない日本語ですか?