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《すべての人に対してすべてのものになりました》とは
- 「すべての人に対してすべてのものになりました」とは、相手の状態や立場に合わせて自身も同じように振る舞うということです。
- この言葉は、パウロが自由な者でありつつ、他の人々を得るためにその人々のようになったことを指しています。
- パウロは福音のためならどんなことでもする覚悟があり、自身が福音に共にあずかる者となるために行動しました。
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- NemurinekoNya
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福音を知らせるという目的のため、というのは、ひとまず引っ込めることしまして、 違う観点から考察してみることにします。 行動の前提、端緒はユダヤの律法に基づいてはいない。それとは異なるものから端を発しているけれど、 行動、行いはユダヤの律法にかなったものになる、 ということはありえるのでしょう。 形式的にはユダヤの律法に従っていない、支配されていないけれど、その行いは律法にかなったものとなる。 これを ~~~~~~ 律法に支配されている人に対しては、 わたし自身はそうではないのですが、 律法に支配されている人のようになりました。 ~~~~~~ とするのは、如何でしょう。 ユダヤの律法の根底に流れるもの、精神が《キリストの律法》である。 そして、 これはユダヤの律法に限らず、人間の定める《オキテ》についても当てはまる。 では、《キリストの律法》とは何か? 人が自由であること・・・、 キリスト教の説く《愛(の律法)》でもいいのかもしれませんが。
お礼
これは ねむねこさんに似合わず――だと思ったのですが―― 精神論と言いますかあるいは観念哲学と言いますか 要するに片方の足を神学に突っ込んだかたちのご議論ですね。 ご回答をありがとうございます。 ううーん。いま現在のわたしの結論は 分からない です。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~ ユダヤの律法の根底に流れるもの、精神が《キリストの律法》である。 そして、 これはユダヤの律法に限らず、人間の定める《オキテ》についても当てはまる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここは ひとつの基本を成す見方だと思います。 律法は――倫理規範であることによって―― 罪の意識をもたらすだけのものだ。とも言われますし そうは言っても 心の背骨を成すような《根底の精神》はやはり通っているのであって それを《オキテ》や《オシエ》としてそのあと この規定・規則をそのまま守れと言っているところにマチガイがある。というような捉え方になるかと思います。 そういうことですよね? そしておそらくそれは 基本を成す見方であると思うのですが さてそこから どうするか。どう扱って どのように行動するのか? これは さっぱりこの規範からは出て来ない。のではないかと思うのです。 《根底》をどう取り出し どうこなして行けばよいか。やはり神学と言うか すでに信仰の問題に成って行く。・・・ ひとつの教訓は 《律法を守ることは あくまで聖霊による助けがあってこそである。守る人は誰もいない》といった捉え方なのだと思います。つまりこれは 《義人は 信仰によってあるく》というような一つの結論めいた見方でもあるのですが だからと言って それでは信仰とは何ぞやから始めなくてはならなくなります。 あるいは: ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~ では、《キリストの律法》とは何か? 人が自由であること・・・、 キリスト教の説く《愛(の律法)》でもいいのかもしれませんが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まさにこのとおりですね。 《わたしは 道であり 真理であり 生命である》(ヨハネ福音14・6、7)。そして《真理は きみたちを自由にする》(同書 8:32)。その《自由》ですね。 ということは 具体的なおのおのの実存の過程でもある《非思考の庭》の具合いはどうなのか? に帰着するかに見えます。 まぁ いちばんのぞましいのは この非思考の庭が ほんとうに臨機応変で 自由自在であって あたかもどんな役をもこなして行ける役者であるといった夢ですね。 それなら まさに《すべてに人に対して すべてのものとなりました》です。 いやぁ ですから 分かりません。具体策になると よくは分かりません。自信をなくしたからではなく これに帰着するというような答えは なかなか見つかりません。 取りあえずこんなところでしょうか。
- NemurinekoNya
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☆☆ いささかふるい言い回しですが まづ《自由な身でいて すべての人の奴隷になる》(19)ということは 《その人のようになる》(20ほか)ことだと考えられます。 ◇《その人のように振舞う》じゃないですか。 そして、これはあくまで目的達成のためにfakeであり、擬態にすぎないんじゃないですか。 ☆そしてあるいは《福音のためなら、わたしはどんなことでもします》(23)という言い方も見られます。たしか同胞のためならキリストに見捨てられてもかまわないとも言っていたようです。 ◇《福音》、「よき知らせ」が何を意味するのかじゃないですか。 これは《福音書》でもなければ、《福音書》などに記されているような《オシエ》でもないのでしょう。 「たしか同胞のためならキリストに見捨てられてもかまわない」は成立しないと思いますよ。 ヨハネには「キリストに従っている」という確信があるのでしょうから。 そして、これは 「キリストの律法に従っているのですが」 という言葉で表現されている、と思いますよ。 ~~~~~~ あたかも相手の真似をして振る舞うのか? それとも こちらの人間性をそのままにどこまでも保って 行動するのか? もしくは 冷却期間を置くというのか? ~~~~~~ パウロは、 《ユダヤ人》、《律法(にしたがう者)》、《弱い人》の意味を、前と後で、すり替えて使っていますよね。 世俗的な意味を宗教的な意味にすり替えている。 キリスト教的に言うならば、 地上と天上の。 これは非常にずるい議論の論法ですよ(^^ゞ
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ◇ 《その人のように振舞う》じゃないですか。 ☆ そうですね。《のように》が どこまで・どのような類似なのか。正直に言えば この問いがまたまた出て来るようにも感じます。 その問いにつけて: ◇ そして、これはあくまで目的達成のためにfakeであり、擬態にすぎないんじゃないですか。 ☆ ううーん。何とも言えないみたいですね。 つまり 《フェイク》でなく決して《擬態》ではなく 言ってみれば心を込めて《その人のように》振る舞うのだと言う人がいたとしても その《ように》としての類似または真似が どこまで《にせもの》ではないと言い切れるのか? 何とも分からないと思います。 それにしても 《目的達成のために fake であ》ると言い切るというのも いささかポレミックであるように思われます。相手を 多少とも下に見ていると――もしそうでなくても――見られてしまうおそれがあります。 やっかいですね。やっかいですよね。だから 質問として立ててみました。 あるいはもっとなまなましい実例をまじえて話をすすめるのなら ねむねこさんにしても相手の回答者によっては そのひとの状態と同じようになって表現をえらんでいますよね。これも ときには 話を早くするために言ってしまいますが ややもするとバカにしていると見られかねません。その気もこころつもりもまったくなくても・善意で表現を相手に合わせて語っているとき やぶにらみされてしまえば そうなる恐れがあるかと思います。 ちょっとこういった《臨機応変》なる姿勢について 自信がなくなったので 質問してみました。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 「たしか同胞のためならキリストに見捨てられてもかまわない」は成立しないと思いますよ。 ヨハネには「キリストに従っている」という確信があるのでしょうから。 そして、これは 「キリストの律法に従っているのですが」 という言葉で表現されている、と思いますよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええっと これはパウロなのですが このように捉えた論理は整合性があると思いました。 ただしです ただし パウロはもっとデカイ声ではっきりと言っています。: ▼ (パウロ:ローマの信徒への手紙/ 09章 03節) わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。 ☆ 《内面で・心の奥で それでも自分はキリストに従っているという確信がある》からこそだ。と論理的に言って言えなくはないようですが ここは 文字通りそのままを語っていると見たほうが 意義が大きく広がるようにも見られます。どうでしょう。 ◇ 《福音》、「よき知らせ」が何を意味するのかじゃないですか。 / これは《福音書》でもなければ、《福音書》などに記されているような《オシエ》でもないのでしょう。 ☆ 話が前後しますが ここも 整合的なご議論だと思います。 おそらくわたしが 自分の史観にこだわるとすれば イエス・キリスト以後の世界について パウロのこの《宣教という愚かな手段》を用いて活動する時代とそしてそのキリストの名が広まったあとの時代とに分けたい。となると思います。 したがって 《福音・よき知らせ》は 宣教としてのそれではなく それではなくなって 経験思想や経験科学とあい携えてすすむような生活思想なのではないか。とは思います。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ パウロは、 《ユダヤ人》、《律法(にしたがう者)》、《弱い人》の意味を、前と後で、すり替えて使っていますよね。 世俗的な意味を宗教的な意味にすり替えている。 キリスト教的に言うならば、 地上と天上の。 これは非常にずるい議論の論法ですよ(^^ゞ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ううーん。ですから けっきょく《のように》の中身がどうなのか? ここに帰着するように思います。 いちばん安易な考え方は それ相応のヒラメキが与えられると言ったりあるいはどうしても重要な事態に処すると言うような場合には天使に導かれたりするから大丈夫だと言って 安心させつつ答えを出しておけばよい。という態度です。 ふつうの・むつかしい姿勢は いわゆる実存としての身の処し方になるでしょうか。その場その時が 勝負なのだと。 信仰は 動態だと言いますが これは生きた動態であるようです。《ずるい論法》も必要でしょうか?
- asisai888
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>せっかくですが このように考えが違うようです bragelonneさんが期待するような解釈でなければ認めないというのであれば 質問する意味がないんじゃないですか? ご自身で既に回答を出しているみたいですから、それをベストアンサーにしたらどうでしょうか
お礼
ご回答をありがとうございます。 見解の違いについて しっかりと明らかにしています。つまりは どうして飲めないかの理由をしっかりと述べています。 もし あしさい888さんが その《説教》の内容について賛成されているのであれば わたしからの批判について 反批判を書き込んでくださればよい。こう考えます。 ★ ご自身で既に回答を出しているみたいですから、それをベストアンサーにしたらどうでしょうか ☆ これは どこですか? No.5の回答をもらって それに従い《無法者は なぜ話し合いにおいて道理を無視するような行動を取るのか?》について考えるようにしようと いま しています。
- ノーバン(@nobound)
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「無法者と同じようになってどうするのか?」 無法者がどうしてそういう行動をとるのか、その人の内面を理解することだと思いますが。 例えば知人は、自分に嫌な行為をする相手に「なめんなよ」と平気で言えるそうですが、私はなかなか言えません。 平気で言える人は、言えない人の心境が理解できない。こっちは平気で言える人の気が知れない。その溝は深いです。自分とは違う生き方の人をどう理解、共感できるかが、「そのひとになる」ということでしょうか。知人との会話でそう感じました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 平気で言える人は、言えない人の心境が理解できない。こっちは平気で言える人の気が知れない。その溝は深いです。 ☆ わたしの考えではこの種の問題は その溝の深さ・つまりは 互いに育った環境やあるいはみづからの思想の違いによって 互いに理解し合えないところがあるというその違いの大きさをそのまま互いに認識しあえば それでよいと考えるのですが どうでしょう? つまりは 差についての相互理解を得たからといって 大したことにはならない。よい結果が目に見えて現われるわけではない。けれども しっかりと知っていることは 重要だと考えます。また そこまでのことしか人間には出来ないように思います。 ですから ご回答としての: ★ 無法者がどうしてそういう行動をとるのか、その人の内面を理解することだと思いますが。 ☆ については まづ基本的に それはとうといことであると受け取ります。また そのように努めることもおこないます。 そうですね。つまり それでも 最初の話ですと そのような理解は 互いに自分たちの差を理解するのであって その溝を埋めようということでもない。はずです。 しかもその理解が得られるのは ★ 「無法者と同じようになってどうするのか?」 ☆ と突っ込まれたそのことを じつは おこなうことによってではないでしょうか? つまりは 《あたかも》無法者と同じようになって その思想を何とか分かるようになる。のではないでしょうか? ただですね ただ 要するに話し合いにおいて すでに道理を無視する行動に出られたら 上のような相互理解どころの話ではないようになる。のではないか。とも思うのです。 ぢゃ どうして道理を無視するような行動に出るのか? について理解するようにせよ。ですか? それは そうですね。おっしゃるとおりかも知れません。 考えてみます。
- kurinal
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こんにちは。 >「《すべての人に対してすべてのものになりました》とは」 あ、だから、「それでいいのか?」というのを、どうされますか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そう返されたら それは《どうしてですか? どの点でそういうふうに考えるのですか?》と尋ね返します。
- 09000000000
- ベストアンサー率10% (8/74)
あなたの思う母親像と 聖書の中の母親像 そして 俺の思う母親像の違いだけです・・ なので 「母親」で合ってますよ・・あしからず・・・
お礼
ご回答をありがとうございます。 ということは 説明なさらない・なされない。ということでしょうか?
- 09000000000
- ベストアンサー率10% (8/74)
ああ・・聖書の事ですか・・ それなら 「すべての人に対してすべてのものになりました」 この意味は母親の気持ちになったと言う事と同じ意味です・・ これでも判らないのなら 聖書を読破すれば解かる様になりますよ・・ 但し・・聖書は3つあって 成約聖書ってのを見つける事が出来れば 何なく解決するんだけどね
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ この意味は母親の気持ちになったと言う事と同じ意味です・・ ☆ おそらく それは気持ちの問題だけではないかと考えるのですが? つまりは 母親も 国や民族によってその振る舞い方が違うかも知れません。ですが もしわが子に対する限りないイツクシミなどを言っているのだとしたら おそらく このご回答は 言葉だけのことでしょうね。 なぜなら すべての人に対して その母親と同じ関係になるというのですから なれっこないでしょうね。というのも 母親は わが子だと思うからこそ 行動にもその思いが出せるわけで 他人(ひと)の子だと思ったら およそそうではない。はずだと考えられるからです。 しかも ふつうの人が・つまり大人が 相手から・つまり男からも母親が子を見るように見られたとしたら いったいどうなりましょうか。 ご回答はたいへんありがたく頂戴しましたが その内容につきましては 以上のように受け取りましたので そのようにお伝えしました。どうでしょうか。あしからずご了承ください。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ▲ (タイトル:「何とかして救うためです」)~~~~~~~ しかしこの世のどんな権力、どんなしがらみにも縛られない 自由さで、彼は「すべての人の奴隷となる」ことを、選びました。 信仰者の自由を、「すべての人の奴隷になる」ために、 彼は献げました。 なぜなら、「できるだけ多くの人を得るためです」。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここまでは まづ一般に確認されるものと思います。 つぎのように解説がつづきます。: ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ これは、パウロが「人を自分のものにする」と言うことでは ありません。 「できるだけ多くの人が、主イエス・キリストを信じて、 神様の救いに導かれるようにする」ということです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここも おそらくいわゆるオシエとしては 無難な内容を示していましょう。 この質問は そのことをどのように行動するか? にあります。 このあと わたくしの考えでこの《説教》を読んで行きます。批判をまじえます、: ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それゆえ小さな者が1人も、神様から離れて滅びることがないよう、 キリストは 神様と私達を一つに結び合わせる命綱となって、 天から降り、世に来られました。 キリストは、神様からすべての人に差し出されている「天からの命綱」です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いちおう そういうことなのですが そういうことをストレートに話してもあまり意義はないのではないか。 1. そもそもキリストは 人びとに受け容れて欲しかったからイエスなる人間の中にやどったわけではない。 2. あるいは 十字架じょうに去って行ったのは じんるいの原罪をあがなうためであると言われていますが それはしかしながら わざわざ人びとに対して恩に着せるためにそうしたのではない。 3. だから おまえたちよ ありがたがれ! と説教するのは キリストなる神の心ではないだろう。 4. あるいは 神の子でありみづからも神であるキリストが人間イエスになったからには すでに神はこの世に勝利している。その上にわざわざ《天からの命綱》を ありがたく拝め! ということにはならない。 5. 《神様から離れて滅びることがないよう》などというセリフは あたかも新興宗教が 捨て台詞として入会を促す或る種のおどしである。つつしむべし。 ▲ 天からの命綱で、神様の愛と命に自分自身が結ばれたことを知ったから、パウロは「キリストと言う天からの命綱」を出来るだけ多くの人に宣べ伝えずにはいられません。 ☆ だからパウロは はっきりとみづから《宣教という愚かな手段》だとことわっています。いつまでもこの宣教をつづけていてよいとは限りません。 つまりは 世界の果てにまですでに《イエス・キリスト》という名前は 知れ渡っています。つまり宣教の時代は 終わりました。 ▲ この福音を伝えるために、パウロは、ユダヤ人、異邦人、弱い人、すべての人に自由に対応しながら、どんなことでも耐え忍んで働く奴隷となりました。 ☆ ですから 宣教という手段を用いる時代は過ぎたとわたしは考えています。ですから 具体的にどのように行動するのか? を尋ねています。 その具体的な行動についてですが: ▲ またパウロは、律法も聖書も知らない異邦人とも、同じ立場に立ちます。彼らを救うために、彼らと同じ状況の中でゼロからスタートして、福音を伝えて行きます。 ☆ ここで《福音を伝える》という宣教行為を別とすれば 《律法も聖書も知らない異邦人〔に相い対して〕同じ立場に立ち・・・彼らと同じ状況の中でゼロからスタート》するのだと言っています。そういう解釈ですね。 でもこれは 相手が分からなければ 自分もその知らない状態からいっしょにスタートすると言うことであって ほとんど誰でもこのようにしているはずです。(あまりにもギャップがあるときには 時間をかけてゆっくりと伝えるはずですから)。――これも 飲めません。 ▲ そして彼らの弱さ、迷い、頑なさに寄り添いながら、彼らの中で、「彼らに伝わる言葉で、福音を語ります」。彼らの弱さ、迷い、頑なさを自由に担いながら、すべてをキリストに委ねる新たな信仰の一歩を、彼らと一緒になって踏み出します。 ☆ これも ふつうのことでしょう。質問者の問いたいことは ここで《頑なさ》についてさらに そこで道理を無視して話をそらすクセ たとえばこれなのです。 ▲ 「何とかして何人かでも救うために、相手と同じになる」ことが、難しいのは、自分の苦手な人を思い浮かべれば分かります。人には、傷つきたくない防衛本能があります。でもパウロは、無防備に相手の中に入って、相手と同じ者になります。 ☆ ここも まだ腑に落ちません。残念ながら。話が通じないという問題がまだ取り上げられていないと考えます。 ▲ このキリストの自由な低さ、貧しさ、自由な奉仕の前に、パウロの働きなど問題になりません。キリストこそが、何とかして私達を救うために、どんなことでもしてくださいました。これが神様の愛の自由さです。 ☆ いえ。そうぢゃありません。十字架じょうに去って行くことによって やっと神とは何かを伝え得たのだとわたしは考えます。《不自由さや貧困》を克服するようにとチカラを与えたのではありません。それが キリストのやって来た目的ではありません。神は みなにとって普遍の神であることを指し示した。そのためだと考えます。 見解の相違だと思います。 ▲ 「自分の利益を求めない」愛の自由さ。自分を忘れて無防備に私達を愛してくださる自由さ、これがキリストです。 ☆ これは ただわざわざイエス・キリストにおべんちゃらを言っているに過ぎません。そんなことを言って欲しくて はりつけに成ったわけはないでしょう。《自分を忘れる》などということは 単なる日本人の口癖です。ブディズムのわるい影響です。忘れないその自分が もっと大きいのです。 ▲ 無防備にすべての人を愛して、傷だらけで息絶えた姿が、十字架のキリストです。 ☆ 阿呆か。キリストは 命を棄てることもふたたび得ることも出来ると言って 自分から去って行くという手段を取ったのです。決して 恩着せがましいことをしたわけではありません。 言葉のあやで うつくしく言い表わせばよいというものではありません。 せっかくですが このように考えが違うようです。でも ありがとうございました。
補足
聖書の文章をめぐる解釈で 教会系の《伝統》と質問者の考えとが基本的に違うということを 述べることが出来ました。その問題をみちびいてくれました。