《すべての人に対してすべてのものになりました》とは

このQ&Aのポイント
  • 自由な身でいてすべての人の奴隷になるとは、その人のようになることであり、またすべての人に対してすべてのものになることを意味します。
  • この文章は、パウロが宣教の活動において言っていることであり、自身の信仰に基づいて行動する姿勢を示しています。
  • パウロは自らが福音に共にあずかるために、どんな困難なことでも乗り越える覚悟を持っています。
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《すべての人に対してすべてのものになりました》とは

《すべての人に対してすべてのものになりました》とは  たとえば無法者に対しても無法者と同じようになるということでしょうか?  ▲ (パウロ:コリント前書 9章) ~~~~~~~~~~~  19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、     すべての人の奴隷になりました。     できるだけ多くの人を得るためです。  20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。     ユダヤ人を得るためです。     律法に支配されている人に対しては、     わたし自身はそうではないのですが、     律法に支配されている人のようになりました。     律法に支配されている人を得るためです。  21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、        キリストの律法に従っているのですが、     律法を持たない人に対しては、     律法を持たない人のようになりました。     律法を持たない人を得るためです。  22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。     弱い人を得るためです。     すべての人に対してすべてのものになりました。     何とかして何人かでも救うためです。  23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。     それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《自由な身でいて すべての人の奴隷になる》(19)ということは 《その人のようになる》(20ほか)ことだと考えられます。  ただし 《すべての人に対してすべてのものにな》る(22)とも表現しています。  そしてあるいは《福音のためなら、わたしはどんなことでもします》(23)という言い方も見られます。  たしか同胞のためならキリストに見捨てられてもかまわないとも言っていましたか?    さて問います。  (α) 無法者にはその人の状態と同じようになるということでしょうか?  (β) ひょっとしてこの文章は パウロが宣教の活動にかぎって言っているのでしょうか?  おしえてください。  * なお 《人を得る / 人をすくう》というのは むろんパウロ自身にとっては間接的な活動として言っているのだと思います。人間としてのパウロがひとをすくうということではないと思われます。  高飛車で高慢ちきな言い草ですが 考えてみれば 相手から逃げないところのやはり一般的に言っても 愛の務めを言っているとは思います。よろしくどうぞ。

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回答No.4

NO3です。ご質問の趣旨が一層理解できましたので、そのことをふまえて回答いたします。まず、先の回答は、いわゆる無法者に対していかにパウロのように効果的に聖書の福音を伝えていくのかという観点からのものでした。事実、以下の聖句が示していますように、全ての者に救いが開かれているという考え方がキリスト教的価値観です。 (マタイ 5:45) [父]は邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださるのです。 (ヨハネ 3:16) 「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。 しかし、だからといって無法行為を受けるままにしてよいというわけではありません。事実、パウロ自身不当な扱いを受けた時、合法的な仕方で毅然と対処しました(使徒25:11,12)。私たちも無法行為に直面したときには正当防衛(自衛権の行使)を含め、それ相応の対応が必要なこともあるでしょう。よく誤解される部分ですが、以下の聖句は決して無抵抗主義を奨励するものではありません。 (マタイ 5:39)だれでもあなたの右のほほを平手打ちする者には,他[のほほ]をも向けなさい。 ほほを打つという行為はどちらかというと相手を身体的に傷つけるというよりも相手を侮辱したり挑発したりする行為だったようです。イエス・キリストはこうした挑発にむやみに乗ってしまってはいけないことを教えているにすぎないのです。むしろ挑発行為を基本的に無視するように教えているです。自分を守るために、場合によってはしかるべき対応(復讐ではない)も必要になることを否定するものではありません。 しかし、無法者にも悔い改め(救い)の機会が開かれていることも見失わないようにしたいものです。このように、キリスト教的価値観を追求することと、リアルな問題に対処することは二律背反の関係ではないと考えます。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。たいへん むつかしい・しかも微妙なあるいは複雑でもある問題にぶつかったかたちではないかと考えます。  ご回答をありがとうございます。  まづ今回の結論として:  ★ キリスト教的価値観を追求することと、リアルな問題に対処することは二律背反の関係ではないと考えます。  ☆ そしてここでは――つまりわたくしの直面する情況としては―― 告訴されたわけではないので(つまり ただただ気に入らぬ 出て行けという叫びを受けているだけなので・と言っても そこに脅しの言葉がないではないのですが) 裁判でもなければ 仲裁に入ってもらって和解に持ち込むというたぐいの問題でもありません。  ひとえに もしわたくしに対して わたくしの書く文章が気に入らないのなら その中身をひたすら分かるように伝えつづけるということになります。強い口調の言葉をなだめつつです。  もっと煮詰めて言えば 特別に宣教なり信仰の話をするなりというのでなくとも けっきょくおっしゃるように  ★ しかし、無法者にも悔い改め(救い)の機会が開かれていることも見失わないようにしたいものです。  ☆ というねらいがあるにはあるということになります。故意にねらうのでなくても この情況に入ったなら 詰まるところ そういうかたちの発言や行動になるというものだと思います。  右の頬を打たれたならという話についてのお考えをうかがいました。  ★ イエス・キリストはこうした挑発にむやみに乗ってしまってはいけないことを教えているにすぎないのです。むしろ挑発行為を基本的に無視するように教えているです。自分を守るために、場合によってはしかるべき対応(復讐ではない)も必要になることを否定するものではありません。  ☆ わたくしも 抵抗を除くことではないと同じく考えます。  ★ 以下の聖句は決して無抵抗主義を奨励するものではありません。  ☆ そうではなく どうなのでしょう ひょっとすると《挑発行為を無視する》というよりはそれに乗るほうを取るかも知れません。次のほうですね。  ★ 自分を守るために、場合によってはしかるべき対応(復讐ではない)も必要になることを否定するものではありません。  ☆ すなわちこの聖句のあとの次の説明部分に注目します。  ▲ (マタイ福音 5:41) 誰かが 千歩行くように強要するなら いっしょにニ千歩行きなさい。  ☆ 《ニ千歩》を行く用意があることを答えとして来たわけですが そのとき大事なことは《いっしょに》であるとも考えます。そしてこれが ひとつの側面としてここでパウロが言うところの《その人と同じようになった》ということではないかとも思われます。《逃げない》ことと《相手と正面から相い対しつづけている》ということではないかと。    そうして 次のご指摘の中身をじっさいにどうするのがよいかという課題に入ると考えられます。  ★ 私たちも無法行為に直面したときには正当防衛(自衛権の行使)を含め、それ相応の対応が必要なこともあるでしょう。  ☆ ここでは 法律は二の次だと考えています。実際に対面しているのではなくヱブ上でのやり取りであること。そして 多少はその相手の表現について 《無法者》の行為であると断言するまでには 吟味と検討が必要であるということ。こういった理由からでしょうか。  あとは その心がやわらがしめられることを祈りつつ前へとすすみます。広い意味の和解ですね。展望があるわけではありません。  いま分かっているのは こういったところでしょうか。こういった地点にいまはいると考えます。  取り敢えず こうなりました。いっしょに考えてくださってありがとうございました。  さらに何かありましたら おしえてください。

その他の回答 (6)

回答No.7

10年ひとむかし… ―――――― あれから僕たちは 『夜空ノムコウ』 http://momo-mid.com/mu_title/yozorano_mukou.htm 2000.10 【中国の鉱業に見られるいくつかの問題と 日本の対中国技術協力の方向】 http://www.jica.go.jp/jica-ri/publication/archives/jica/kenkyu/00_32/32_07.pdf

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ 『夜空ノムコウ』  ▲ ~~~~~~~~~~~~   君が何か伝えようと 握り返したその手は   僕の心のやらかい場所を 今でもまだ締め付ける  ~~~~~~~~~~~~~  ▲ 僕の心のやらかい場所  ☆ ってどこ?  ★ 【中国の鉱業に見られるいくつかの問題と 日本の対中国技術協力の方向】  ☆ こういう資料を出して来るということは 中国人に対して 心をひらいていますねぇ。  ◆ 人を愛するということは 知らない人生を 知るということだ ― 灰谷 健次郎 ―  ☆ 《僕の心の や ら か い場所を 今でもまだ締め付ける》。かな。

bragelonne
質問者

補足

 あぁ この OKWave での十年ですか。長いですね。  初期は 知らないのですが。

回答No.6

こんばんは、bragelonneさん。 ● どうでしょう? そうかも知れないけれど その方針を採ることは  みづからが犠牲になることをえらぶことにひとしいと――この日本人の世の中にあっては―― 思われます。 それは ひとを愛することではないと考えます。 犠牲をいとわないことを愛することは出来ないでしょう? いかがでしょう?  どうなんでしょう?  おしえてください。 ↑ さいさんさいし??? 起きてますよ、きこえてますよ、ってば…ガミガミと あなたの知らないところに いろいろな人生がある あなたの人生が かけがえのないように     あなたの知らない人生も また かけがえがない 人を愛するということは 知らない人生を 知るということだ  ― 灰谷 健次郎 ― 突如レアアースの輸出が止まる → 日本経済に打撃と書き立てる → 中国悪と 中国のレアアース年間生産量12万トン以上 便宜上、中国の中国のレアアース年間生産量12万トンとして、そのうちの4分の1にあたる3万トンほどが 日本へ輸出されている。日本から見れば中国からレアアースを3万トン輸入している。 日本のレアアース総輸入量の90%以上を中国から買い付けていることになる。 中国で採掘された4分の1が日本へ。 中国の鉱山採掘現場ってどんなところだろう? 機械技術は昔に比べれば数段進歩していても機械導入となれば費用も掛かる… 職を求める人は溢れんばかり………いる。 となれば、機械導入せずに安価な人力で作業にあたらす そんな中で労働環境は整備されているはずもなく 中国のレアアース年間生産量12万トンとして、そのうちの4分の1にあたる3万トンを 買い付けている日本だからこそもの申せることあんじゃないの アホの一つ覚えみたいに「日本経済に打撃」と書き立てるまえに 未整備な労働環境を見て見ん振りはあかんやろ? 買い付ける先へ「労働環境整えて下さい」って。 改善がみられへんかったら「お宅からレアアースは買いません」ぐらいいわなあかんのんとちがう? 【露天掘り】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E5%A4%A9%E6%8E%98%E3%82%8A 【金属に関するQ&A】 http://www.jogmec.go.jp/recommend_library/qa_metal/index.html 【テロの定義】 http://www.daito.ac.jp/~uriu/thesis/2003/hiroi.html 【国際秩序と人命救助】 http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/bulletin/11/ueno.pdf 【地球の水収支】 http://eco.nikkeibp.co.jp/em/column/oki/04/04.shtml 【COP10】 http://www.cop10.jp/aichi-nagoya/biodiversity/index.html 聖書考察 http://blog.goo.ne.jp/watapi_1968/c/0d54d17108bb95a7d7056c2eb2ed009c

bragelonne
質問者

お礼

 一週間ぶりのリトルキスさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  中国ですかぁ。  あれっ ちなみに  ★ 聖書考察  ☆ をお始めになったのですか。世界が変わった。  ★ 未整備な労働環境を見て見ん振りはあかんやろ?  ☆ あかんよ。ただようやく 働いている人びともストライキを起こすようになって 給与の改善も始まっているようです。はたらく場の整備も具合いようたのみますとなるでしょうね。  ★ 買い付ける先へ「労働環境整えて下さい」って。  ☆ あなたのような明るいひとが談判にいくとええかも知れんけれど どうかなぁ。いまのところアメリカの言うことは聞くみたいなのだけど。  ★ 改善がみられへんかったら「お宅からレアアースは買いません」ぐらいいわなあかんのんとちがう?  ☆ よう言わんやろな。あとあとのいざこざのことも考えるのとちがう? だってフジタの社員が拘束されたのは 警察ではなく 軍部によるものだと言います。ただちに命の危険にさらされてしまう。だから へっぴり腰で漁船の船長を釈放した。  でも あれですよ。レアアースの輸入先をほかの国に求めているということを 同時におこなっていて 両面作戦ですよ。あるいはレアアースを使わなくても 同じ作用を得られる製法を見出そうともしているはずですよ。長い道のりでしょうけれど。  戦後何十年いまだに日本人に対しては そもそも けんか腰やからねぇ。  でも ヨーロッパは日本の味方についてくれたのではないですか。ノーベル賞のことも。  犠牲の問題は やっかいですねぇ。かんたんにこうだと決めつけられないとは思います。それぞれの場合に応じて考えることにもなるかと。  愛の伝道師におなりになったのですか。

回答No.5

こんばんは、bragelonneさん。 政治 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%B2%BB 安全保障 安全保障は自らの価値を何らかの手段により脅威から守ることである。安全保障でまず問題となるのは国家の存続と独立、国民の生命、財産、つまり国防である。これらは国家安全保障の上で最も基本的な国益として設定されるものであり、これを守るために軍隊が必要とされる。国防は軍事力を抑止力として準備し、また戦争や紛争事態において実際に運用することで行われる。仮想敵国に自国の単独防衛だけで対処できないと思われる場合には同盟を形成して勢力均衡を図ろうとする。その勢力均衡の結果、核戦略が国防において重要な領域となっており、核抑止理論を基礎とした仮想敵国の制圧が目指される。しかしこのような従来の安全保障では十分に平和を保持できず、また戦争が勃発した際に戦火が拡大する恐れがあったため、集団安全保障の体制が国際連盟、国際連合で追求された。集団安全保障は参加国が武力の不行使をお互いに約束し、もしそれを破る参加国がいれば他の参加国がそれに対して制裁を加えることで秩序を回復するものであった。近年は安全保障の概念は広がりを見せており、エネルギー、食糧、人権などが安全保障の対象となり、経済的手段や外交的手段が安全保障において重要視されるようになっている。 敵に塩を送るー上杉謙信~武田信玄 人間の安全保障 http://www.tokai.ac.jp/spirit/archives/human/pdf/hs08/03_03.pdfhttp://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00241/contents/513.htm Love your enemies, and pray for them that persecute you.

bragelonne
質問者

お礼

 ども。  ★ 人間の安全保障  ☆ 思想・言論の自由はいいと思います。欠乏からの自由は 哲学が乗り出すにはあまりにも実務的・専門的になると考えます。  ★ 鏡  ☆ 加地伸行の中国論は なかなか味わい深いようですね。儒教についての本を読んだことがあります。  ただし でも中国人はやはり世界における現代化――と言うそうですね 《近代化》のことを――のよいところは できるだけ早く採り入れてすすむべきです。否応なくそうすべきです。中央集権や下の層の役人の賄賂がなくならないと言っていないで・言っていてもいいでしょうが(そういう風土であり慣習だという認識はいいのでしょうが) あたらしい仕組みをも考えださなくてはいけないと思います。否応なくだと思うのですが まちがっているでしょうか。  ★ 敵に塩を送るー上杉謙信~武田信玄  ☆ これは 時代の違いと言わないまでも 情況が違うと考えます。ここで言う《人を得る》務めにとってはです。  対立関係にあるから この務めに自覚的に取り組むわけですが 特に《敵》だと思って・また戦争だと思っておこなっているわけではありません。何よりもの違いは こちらはあくまで全面的に受け身だということです。自由に言論をおこなっているときに 向こうから嵐がやって来る場合なのですから 敵でもなければライワ゛ルといった関係でもありません。  たぶんもっとくだけた意味あいとしては・この《敵に塩を送る》という日本人にとっての意味あいとしては ともかく理屈抜きにまづは やあやあやあと言って顔を合わせ 話に応じて時々は多少は相手を褒め 土俵の上で差しつ差されつ酒を汲みかわすかのごとく 半ば暗黙の内にヤオチョウをかたちづくり 今回はこちら 次はそちらにそれぞれ花を持たせるといったやり取りを言っているのでしょう。  そうでなければ 道理において学問において人間としての心において 互いにその心に思うところを素直に伝えあうこと これこそが 敵にも塩を送ることではないか。  もっと早い話としては あやまちをしたなら そのままみとめるということ これだけの話だと思います。  この場合 あやまちを侵されたほうが いやいいですよと言うのを俟つ そしてそれを催促する これが 敵への愛だと思っている向きが多いのでしょう。どこまでもあまえたいというわけです。  ぢゃあ 黙々と生きて行けばいいのです。哲学がどうのという話ではないとさとらねばいけません。  このような日本人の社会において  ★ Love your enemies, and pray for them that persecute you.  ☆ を文字どおりに実行したら どうなりますか? ますますつけあがって 手の施しようもなくなるという仕組みです。いじめに遭って自死をえらぶというよわい意志行為に追いやられるのは おとなしい日本人です。  しっかりとこの世の中の仕組みを知らなければいけません。耳によいことをつらねていれば そこそこの生活を送れるでしょうが それほどのっぺらぼうの退屈な《人間以前》の人生はないでしょう。  というのが わたくしの反応です。どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 My second thought:  ▲ (詩篇35) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  【ダヰ゛デの詩】  1.主よ、わたしと争う者と争い    わたしと戦う者と戦ってください。  2.大盾と盾を取り    立ち上がってわたしを助けてください。  3.わたしに追い迫る者の前に    槍を構えて立ちふさがってください。    どうか、わたしの魂に言ってください    「お前を救おう」と。  4.わたしの命を奪おうとする者は    恥に落とされ、嘲りを受けますように。     わたしに災いを謀る者は    辱めを受けて退きますように。  5.風に飛ぶもみ殻となった彼らが    主の使いに追い払われますように。  6.道を暗闇に閉ざされ、足を滑らせる彼らに    主の使いが追い迫りますように。  7.彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張り    わたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。  8.どうか、思わぬ時に破滅が臨み    彼らが自ら張った網に掛かり    破滅に落ちますように。  9.わたしの魂は主によって喜び躍り    御救いを喜び楽しみます。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このようなとき 敵を愛し 自分を迫害するかれらのために祈りなさいというのが あなたのこころなのですか?   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~  8.どうか、思わぬ時に破滅が臨み    彼らが自ら張った網に掛かり    破滅に落ちますように。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というようには思うなかれと。たとえ  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~  4.わたしの命を奪おうとする者は    恥に落とされ、嘲りを受けますように。     わたしに災いを謀る者は    辱めを受けて退きますように。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というところまでは思いを持ったとしてもと。そうなのですか?  どうでしょう? そうかも知れないけれど その方針を採ることは みづからが犠牲になることをえらぶことにひとしいと――この日本人の世の中にあっては―― 思われます。それは ひとを愛することではないと考えます。犠牲をいとわないことを愛することは出来ないでしょう?  いかがでしょう? どうなんでしょう? おしえてください。

回答No.3

NO2です。回答へのお礼ありがとうございます。 >それとも これらのアテネの人びとは 決して無法者ではないけれども 宣教においてであるかどうかを問わず このくだりに示されたパウロの人びととの接し方が 無法者に相対するときにも 当てはまるものなのだというお考えなのでしょうか? そのとおりです。使徒行伝17:16-34やご質問文のコリント前書9章には「無法者」という表現は出てきません。しかし、質問文に「たとえば無法者に対しても無法者と同じようになるということでしょうか?」とありましたので、この原則は基本的に「無法者」にも当てはまるということを述べたにすぎないものです。 >たとえばそこに資源がありそうだと見れば もともとおれたちの国の固有の領土だと言い放つ場合 いったいどこに《同意できる点》が見出せるでしょうか? 勝手に人びとを掻っ攫って行って おれたちの国に経済援助をおこなえと言っている場合 どういう点で同意できるでしょうか? 確かにこの表現そのものには同意できません。しかし、このような主張の根本にあるのは自分たちがより豊かな生活をしたいという考えでしょう。こうした考えそのものに関しては一般に同意できる部分だと思います。つまり表面に表れた一言一句よりもその根底を支配する原理のようなものに注目できると思います。そのうえで私たちが貧困など、この種の根本的問題に対処していくうえで現実的に役立つ聖書の原則に注意を向けることができるでしょう。例えば箴言6章6節から11節やルカ14章28節あるいはより視野を広げる観点から伝道の書7章12節を持ちだすことができると思います。 この例は比較的簡単なものですが、とりわけ宣教の分野において、容易に理解できない他者の表現に対しても、背後にある考えを引き出す質問などをすることによって、その背後にある根本的考えを把握し、共通の土台を築くことができると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 引き続きのご説明をいただきありがとうございます。  どうなんでしょう。まづは 北朝鮮と中国の事例のほかにつぎの場合をも挙げていますが それについては どうでしょう?  ☆☆ (No.2お礼欄) おまえは気にくわぬ ここから去れと言ってくる相手に どういう同意できる点を見い出せるでしょうか?  ☆ その線で考えるとすれば ふたつの国家の場合にも それほどかんたんに《同意できる点が見出せる》とも思えないのです。  ★ しかし、このような主張の根本にあるのは自分たちがより豊かな生活をしたいという考えでしょう。こうした考えそのものに関しては一般に同意できる部分だと思います。  ☆ すなわちおっしゃっているのは けっきょく《互いに同じ人間である。誰にとっても生活という基礎がある》といった共通点を捉えることから始めなさいということですね。  ところが いきなり《ここはおまえのいるところではない。去れ》と言ってくる相手に対して 《なるほど。同じ生活者だ。同じ人間だ》と言ったところで・つまりそういう共通点を捉えたところで 何ら解決策は見いだせず それどころかこちらの存在がすでに排除すらされかねません。  たぶん国家どうしの場合には もし国家ごと従属させられるというのでなければ――あるいは 沖縄が奪われるというのでなければ―― 《より豊かな生活をしたい》ためにというので こちらは大幅に何もかもゆづらされるということではないかと推測されます。  そういう接し方が 《すべての人に対して すべての者になりました》の無法者に対する場合の実践編であるということでしょうか?  つまり 要するにまったく頭から《そこを退け》と言ってくる相手にも 同じような接し方をするということでしょうか?  何の納得できるような(つまり 同意できるような)説明もなしに おまえの質問はおかしい 取り下げろという投稿が来たという実例で言っています。  箴言では 挙げてもらった箇所のすぐあとの部分でこう言っています。   ▲ (箴言6:12-15) ~~~~~~~  ならず者、悪を行う者、曲がったことを言い歩く者  目くばせし、足で合図し、指さす者  心に暴言を隠し、悪を耕し  絶えずいさかいを起こさせる者  このような者には、突然、災いが襲いかかり  たちまち痛手を負うが、彼を癒す者はない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という結末を迎えるのだから 我慢せよということなのでしょうか?  ▲ (ルカ福音14:28) あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。  ☆ これは まづ一般論であって いまひとつ広すぎるように思います。  次の参照箇所も 残念ながら同じように思います。  ▲ (コヘレトの言葉 7:12) ~~~  知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが  知っておくがよい  知恵はその持ち主に命を与える、と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    無法者とは 《無条件におれの言うことに従え。さもなくば 物理的にいられなくするぞ》とまづは言って来る場合を言っています。さあ どうしましょう。  でもわたしは あたかもパウロの言うごとく その無法者に対しても無法者のようになってつきあったのですがね。その処理は 実際の文章を引き合いに出して してはいけないという OKWave のほうの方針であるようです。さて どうすればよかっぺ? というのが この質問です。

回答No.2

19節は総則的内容で20節から23節は各論になります。一般論を言いますと、確かに聖書の中には一見分かりにくい表現がありますが、文脈を見ると理解できる場合も少なくありません。この部分についても同様のことが言えます。15節から18節を見てみますと、パウロは宣教の必要性について述べています。また、ご指摘のとおり23節も福音について言及しています。こうした流れから、質問者様のお考えのように宣教の方法を念頭に置いていると理解することができます。そのことを前提としてこれらの節を解釈する必要があります。 19節は、他の人に対して謙遜な態度を取るように勧めているものです。上から目線的に他の人を見下すような態度を取るなら、人間性が疑われ、いらぬ反感を買ってしまうだけです。むしろあたかも奴隷のように、さまざまな信条を持つ人と接する際に相手に敬意を払い、同意できる点で相手に譲歩することによって「できるだけ多くの人を得る」ことができるのです。たとえ相手が無法者であっても会話の中から同意できる点を見いだすことができると思います。 20節から23節はそうする方法が具体的に述べられています。宣教の際に様々な信条を持つ人にお会いしますが、それらの信条との対立点を際立たせるのではなく、むしろ同意できる点を見いだす努力を払うことの必要性を述べています。そのためには相手の信条やその根拠に対する正確な知識を得ることが求められてきます。パウロのアテネでの伝道はその模範となっています。使徒17章16節から34節をご覧ください。まず22節では相手の信条に敬意を払っています。そのうえで、23節にありますように、彼らの崇敬の対象となっている「知られていない神に」と刻みこまれた祭壇から話を発展させて神に結び付けています。まさに同意できる点を見いだしている様子がうかがえます。さらに28節にありますように、その地域でよく知られている詩人の言葉を引き合いに出しつつ宣教を発展させています。相手の既存の知識を活用してうまく話を運んでいます。このような謙遜さと相手を理解して相手に合わせる姿勢は、34節にありますように何人かの人々の心を動かす結果となりました。 もちろんこうした態度をとる必要性は宣教の分野に限ったものではありません。日常生活の様々な分野でこの原則を当てはめると円滑な人間関係が促進されることになります。これがキリスト教の精神だと思います。一方、無知や偏見や傲慢さは様々なトラブルや対人不信を招いてしまい、自分にとって損失になるだけですね。もちろん私もこれらの点で精進中の段階です。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。――まづは ご回答をありがとうございます。  そうですね。ずばり疑問をぶつけてみましょう。  次のように紹介されている《アテネのみなさん》は 果たして《無法者》なのでしょうか?  ▲ (使徒行伝17:16-34) ~~~~~~~  1. ユダヤ人や神をあがめる人々〔と論じ、また、〕  2. 広場では居合わせた人々  3. エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者  4. すべてのアテネ人やそこに在留する外国人  5. 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけた  6. 皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っている  7. しかし、彼(パウロ)について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それとも これらのアテネの人びとは 決して無法者ではないけれども 宣教においてであるかどうかを問わず このくだりに示されたパウロの人びととの接し方が 無法者に相い対するときにも 当てはまるものなのだというお考えなのでしょうか?  ★ たとえ相手が無法者であっても会話の中から同意できる点を見いだすことができると思います。  ☆ ということだそうですが たとえばそこに資源がありそうだと見れば もともとおれたちの国の固有の領土だと言い放つ場合 いったいどこに《同意できる点》が見出せるでしょうか?  勝手に人びとを掻っ攫って行って おれたちの国に経済援助をおこなえと言っている場合 どういう点で同意できるでしょうか?  おまえは気にくわぬ ここから去れと言ってくる相手に どういう同意できる点を見い出せるでしょうか?  果たして 無法者に対しては 《すべての人に対してすべてのものになる》ことは どういうことを言うのでしょう?  * わたしの理解がゆきとどかなかっただけなのだとすれば 前もっておわびします。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.1

「サウロよ、サウロよ、汝はなぜ私を傷つけるのか?」 サウロは、イエスを十字架にかける側にいて、イエスの死後、石打で弟子を殺し、更に逮捕状を懐に弟子を求めてダマスコに向かう途中だったのですね。 このサウロほどの無法者がクリスチャンの中にいますか? サウロは熱心なユダヤ教徒であったのですね。さてご存知のように、この無法者サウロは回心をして名前も「パウロ」と変え「クリスチャン」になるのですね。 宗教の立場は違っても「サウロ」も「パウロ」も同じ人ですよ。 これが (α) 無法者にはその人の状態と同じようになるということでしょうか? に対する一つの回答でしょうね。 付け加えれば、サウロの無法者ぶりは形を変えて他宗攻撃の元になってますね。キリスト教以外は邪教という考えはパウロから来てるんでしょうね。無法者は無法者ですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  今回のご見解については あくまで現代のわれわれから見た判断にもとづいていますね。  その意味では 全面的に否定いたします。  サウロの行動はすべて律法にもとづいておこなわれています。無法者ではなくその真逆の法律のしゃくし定規にのっとるこちこちのがちがちの熱烈なユダヤ人でした。  石打ちの死刑は 法律によるものです。  法律にもとづく《逮捕状を懐に》して迫害をしています。私刑ではありません。  その当時において 無法者ではありません。  ★ キリスト教以外は邪教という考えはパウロから来てるんでしょうね。無法者は無法者ですよ。  ☆ これは もしそういう思潮があったとしたら パウロやペテロとは何の関係もないところから出ているはずです。その後のローマ教会からでしょう。  イエスの死のあとの弟子たちの時代を考えるとしますと 異邦人への宣教者であるパウロのほかに その前にすでに別の弟子の――弟子たちの筆頭の――ペテロにまづ 異邦人もキリスト・イエスの仲間であるという考えが与えられました。  ユダヤ人でなくても――つまりいわゆる割礼のあるなしにかかわらず―― 人びとは同じ神のもとにあるという思想がパウロだけではなく いわゆる原始教会においても始まっています。  今回のご回答は 全然だめです。

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     《すべての人に対してすべてのものになりました》とは  たとえば無法者に対しても無法者と同じようになるということでしょうか?    無法者とは 《無条件におれの言うことに従え。さもなくば 物理的にいられなくするぞ》とまづは言って来る場合を言っています。一般的な実際としては 後半の部分は別にして前半の部分を けっきょくその行動で言っている場合です。つまりは 対話や問答において 意味のないことをもって答えとするような場合です。ナンセンスなことを言ってその勢いで 話を逸らせる。あるいは 自分の都合のわるい内容の話を終わらせる。つまり ガキ大将のような場合です。  ▲ (パウロ:コリント前書 9章) ~~~~~~~~~~~  19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、     すべての人の奴隷になりました。     できるだけ多くの人を得るためです。  20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。     ユダヤ人を得るためです。     律法に支配されている人に対しては、     わたし自身はそうではないのですが、     律法に支配されている人のようになりました。     律法に支配されている人を得るためです。  21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、        キリストの律法に従っているのですが、     律法を持たない人に対しては、     律法を持たない人のようになりました。     律法を持たない人を得るためです。  22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。     弱い人を得るためです。     すべての人に対してすべてのものになりました。     何とかして何人かでも救うためです。  23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。     それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いささかふるい言い回しですが まづ《自由な身でいて すべての人の奴隷になる》(19)ということは 《その人のようになる》(20ほか)ことだと考えられます。  ただし 《すべての人に対してすべてのものにな》る(22)とも表現しています。  そしてあるいは《福音のためなら、わたしはどんなことでもします》(23)という言い方も見られます。たしか同胞のためならキリストに見捨てられてもかまわないとも言っていたようです。    さてあらためて 問います。  ○ 無法者にはその人の状態と同じようになるということでしょうか?  ミラーニューロン現象として《同じようになる》といった見方を持ち出すことは出来ると思います。  問題は そのようにして同じようになったとき さてどのように振る舞うか? です。  あたかも相手の真似をして振る舞うのか?  それとも こちらの人間性をそのままにどこまでも保って 行動するのか?  もしくは 冷却期間を置くというのか?  相手が言っていることは その内容において自己矛盾をきたしている。のに 知らん顔をしている場合です。それを指摘しても・何度指摘しても 話を聞かない。・・・  おしえてください。  * なお 《人を得る / 人をすくう》というのは むろんパウロ自身にとっては間接的な活動として言っているのだと思います。人間としてのパウロがひとをすくうということではないと思われます。  高飛車で高慢ちきな言い草ですが 考えてみれば 相手から逃げないところのやはり一般的に言っても 愛――つまり 関係性としての話し合い――の務めを言っているとは思います。よろしくどうぞ。

  • ペテロとパウロ、どっちが正しいのでしょうか?

    パウロの『ガラテヤ人への手紙』について質問いたします。 ───────── 2:11ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。 2:12というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。 2:13そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。 2:14彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。 口語訳 『ガラテア人の手紙』 ───────── ケパとは、十二使徒の筆頭とされるペテロのことです。 割礼の者とは、ユダヤ人のキリスト教のヒト。 異邦人とは、無割礼の者、割礼をしていない者のことで、非ユダヤ人のキリスト教のヒト。 ペテロは、以前、ユダヤ人と非ユダヤ人が一緒にご飯を食べることを認めたし、ペテロも非ユダヤ人とご飯を一緒に食べた(《共卓》をした)。 なのに、エルサレムに戻ってからは、「これは律法違反だ、けしからん」と言い出した。 ペテロはおかしい、間違っている、イエスの教えを理解していない!! とパウロは批判しているようです。 なぜならば、 ───────── 2:15わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、 2:16人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。 ───────── であるから。 そこで、お尋ねします。  I パウロとペテロ(ケパ)のどちらが正しいのでしょうか?  II パウロと十二使徒はどっちがエラいのでしょうか? どちらが、イエスの教えを正しく理解しているのでしょうか?  III 十二使徒とは、何なのでしょうか? イエスの教えを伝えるためのタダの装置のようなものなのでしょうか? イエスによって正しい律法がもたらされたから、それまでの古い律法はご破算にしてよい ということなのでしょうか? また、 もし、パウロが正しいとすると、ペテロを始祖とするローマ・カトリックの正統性の根拠が失われてしまうように思うのですが、 ここのところは、どうなるのでしょうか? 教えてください。 よろしくお願いします(ペコリ)。 伝統的な教義に基づかない、 「わたしは、カクカクしかじか、だと思います」 というご自由な回答も大歓迎いたします。 よろしくお願いします。

  • 旧約聖書の律法は破棄されたのではないんですか?

    聖書中一人だけ律法を破ることを教えている者がいます、 エフェソス 2 「15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。」 確かにここで、パウロは律法は廃棄されたと言っているので、イエスの言葉を参考にすると、 パウロは天の王国に関連して一番小さい者ということになるんですが、実際にパウロは自分の事を一番小さい者と言っています。 エフェソス 3 「8 すべての聖なる者たちの中で最も小さな者よりさらに小さな者であるわたしにこの過分のご親切が与えられ,こうしてわたしは,キリストの測りがたい富に関する良いたよりを諸国民に宣明し, 9 定めのない過去から,すべてのものを創造された神のうちに隠されてきた神聖な奥義がどのように管理されるかを人々に示すことになりました。」 さらに、イエスは、 マタイ 10 「34 わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。」 で、平和を投ずるために来たと考えてはなりませんと言っていますが、パウロは平和を作り出すだめでしたと、エフェソス2の中で、続けてダブルでイエスの言葉と対立しています。 しかし、パウロは自分のことを一番小さい者であると理解した上でこれらの言葉を言っているのが非常に気になったのですが、まず、 テモテ第一 1 「15 キリスト・イエスが罪人を救うために世に来られたとは,信ずべく,また全く受け入れるべきことばです。わたしはそうした[罪人]の最たる者です。 16 それなのにわたしが憐れみを示されたのは,わたしの場合を最たる例としてキリスト・イエスがその辛抱強さの限りを示し,永遠の命を求めて彼に信仰を置こうとしている人たちへの見本とするためだったのです。」 ここで、パウロは自分が最たる者で、イエスが辛抱強さの限りをしめした見本であるということ、 ローマ 9 「3 わたしは,自分の兄弟たち,肉によるわたしの同族のために,自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離されることをさえ願うのです。」 キリストから引き離されることを願うと言っており、 ヨハネ 16 「8 そして,その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。」 で、真理の霊は罪と義と裁きの証拠を与えると書いてあるのに、パウロは、義と自制と裁きについて話すと書いてあります。 使途 24 「25 しかし,彼が,義と自制と来たるべき裁きについて話すにつれ,フェリクスは怖れを感じ,「今のところはもう下がってよい。よい時があったらまた呼ぶだろう」と答えた。」 この3つの証拠がなんなのかは聖書中誰も触れていないので、この証拠を提示できる組織は真理の霊から来ている組織であるのは間違いないと思いますが、すくなくても、ここではパウロは罪と義と裁きに関してではなく、自制と義と裁きに関して話しているのは間違いないと思います。そう書いてあるからなのですが。 じゃあ、パウロは何なのかと考えると、イエスがマタイ5で言っていて、自分自身でも言っているように、天の王国には関連しているが、イエスが辛抱強さの限りをしめして助ける一番小さいものと呼ばれる者達の見本だというのは話がつながっています。 そうすると、 イザヤ 48 「10 見よ,わたしはあなたを精錬した。しかし銀[として]ではない。わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだ。」 で、再び集められるヤコブの家の特徴として、苦悩の溶鉱炉と、イエスが辛抱強さの限りを示した最たる例をつなげると、このイザヤ48はパウロを見本としてパウロの言葉通りに行動している者ということを考えると、この者達は 同章「1真実によらず義によらずに語り告げる者たちよ。」 と書かれていて、同じく 同章「あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに。」 と書かれているので律法を破ることを教える者とここで繋がります。 さらにこの者達は、 同章「9 わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,あなたが断ち滅ぼされることのないようにする。」 で、神の名の為に怒りをとどめて助けられる者達は誰なのか、 同章「2 彼らは自分を聖なる都市からの者と呼び,イスラエルの神に寄り掛かったからである。その方の名は万軍のエホバという。」 で、聖書に神の名を署名したのは誰なのかというのが、OKWaveで最初に質問した質問の詳細なのですが、さらにエホバの証人が嘘を教えているというのであればキリストに属する最たる例であると(イザヤ48「真実によらず」により)自ら証明していることになるんですが、まず、 モーセの律法は本当に破棄されたのか、本当に破棄されていないのか、どちらかを強力に証明する聖句を使って詳しく教えてください。 エホバの証人は助からないというのであれば、このイザヤ48章に当てはまる組織はどこですか? 聖書だけを使って、さらにその聖句の解釈を裏付ける他の聖句を使って教えてください。 ・パウロは自分にねたみをおこし、それによって神を学ぼうとすることでも喜ぶと書いてある。 ・パウロは分裂している者達に誰の、何が正しいのかとは言わず、あなたたちは皆キリストに属しているのですの一言で終わっている。 ・パウロは全てを知っているが全ては話さないと言っている。 ・パウロは自分がヤコブの家のベニヤミンの部族なのだと言っている。 ・パウロは分裂、分派、敵意を示し続ける者は滅ぼされると言っている。 ヨハネ 13 「33 小さな子供らよ,わたしはあと少しの間あなた方と共にいます。あなた方はわたしを捜すようになるでしょう。そしてわたしは,『わたしの行く所にあなた方は来ることができない』とユダヤ人たちに言いましたが,今はあなた方にも同じように言います。 34 わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。」 これらの理由によりどこについて行けばいいのか、今すごく悩んでいるのですが、 本当にエホバの証人以外はすべて背教だったのか? 本当にエホバの証人は世界3大悪宗教なのか? 律法が破棄された、破棄されてないという対立教理に関してどちらかをとることになった証明の聖句を教えてください。お願いします。

  • イエスとパウロの言葉、どっちが権威があるの?

    キリスト教に対する素朴な疑問です。 福音派は別ですが、 キリスト教では、 なぜ、  イエスの言葉が記されている『福音書』と、  パウロの書簡が、 同等の権威を有している、とされるのでしょうか? ───新約聖書の文書は、どれも等しく、同じように、権威あるものとされている─── キリスト教徒でもキリスト者でもない私には、 これがどうしても理解できません。 なぜ、なのでしょう? 教えてください。 よろしくお願いします(ペコリ)。 伝統的教義の観点からではなく、 「わたしはカクカク・シカジカと考えます」 という、ご自由な回答も大歓迎です。 よろしくお願いします(ペコリ)。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 神はみづからを揚棄しちゃった:クリスチャン批判

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は   みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  けっきょくイエスによって  そしてそれがルカおよびパウロをつうじて  成就したと語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ▲ (ルカによる福音書 22:17-20) ~~~~~~~~  そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。  ・・・       「この杯は〔十字架じょうのはりつけにおいて〕     あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシヘ〔を人間のチカラのみによって守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシヘ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシヘは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシヘは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神はそれぞれの名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  (δ) ならば 宗教という宗教 オシヘという〔それを守るべきという意味での〕オシヘ そしてその組織・教会・聖職者 これらはみな・すべて・いっさい 要らない。  なぜ存続しているのか? おしえて欲しい。

  • 神みづからによるみづからのアウフヘーベン

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神みづからによる自己の揚棄:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • キリスト教では全ての人類がアダムとイブの子孫ですか?

    キリスト教では全ての人類がアダムとイブの子孫であると考えているのでしょうか?それともユダヤ人とかある一部の人がアダムとイブの子孫で、それ以外の人類は自然発生的に出てきたと考えているのでしょうか? もし、全ての人類がアダムとイブの子孫だと考えているのなら、キリスト教国であったアメリカにかって奴隷があったり、ヨーロッパ諸国でも東洋人蔑視の風潮があったのは何故でしょう?自分たちとは血縁はないと考えていたのではないでしょうか?