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世襲の絶対君主の短命化について
eroero4649の回答
- eroero4649
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#2さんの回答が的を射てる気がしますが、要するに一言でいうと「基礎体力がないから」に尽きるんじゃないかと思います。 創業者ってのは、家康もそうですが若い頃から戦場を駆けずり回ったりして鍛えられるわけですね。勝ち上がった創業者というのは、もうその時点でふるいにかけられています。もし家康が精神的にも肉体的にももっと脆い人であったなら容赦なく彼は死んでいたでしょう。 ところが代が下っていくに従ってそういうふるいにかけられることはなくなります。確かに置かれる環境ははるかにそういう意味では恵まれた環境となりますが、快適な空間にいるからこそストレスに耐えるように鍛えられる機会が失われてもしまうわけです。 そうなると、ちょっとした病気やら何やらがきっかけであっさり死んでしまうことはよくあると思います。本人の基礎体力と基礎免疫力が弱いですからね。 そういう意味では、現代も同じなのではないでしょうか。今の日本は大変な長寿社会ですが、今の老人世代は若い頃は車もなくてどこに行くにも歩いていかなければなりませんでした。「学校に行くのに片道1時間歩いた」なんて話がゴロゴロありますよね。そして中年以降は栄養も生活環境も恵まれた状態で生きています。今の老人世代はスポーツにも熱心で、老人世代の体力は年々向上する傾向にあります。基礎体力があって普段から鍛えていて栄養状態もいいんだから長生きするに決まっています。 一方、最近の若者や子供世代はどうでしょうか。交通機関は発達していて、昔は「田舎の人はどこまでも歩いた」なんていわれたけど、今や田舎の人のほうが「200m先のコンビニも車で行く」といわれるほどです。家の中も冷暖房が発達していて、そんな環境で育っているから子供の体温調節能力が落ちていて、ちょっと炎天下に晒されただけで熱中症で倒れたりします。私が子供の頃は学校の朝礼で倒れるのは「体力がないもやしっ子」とむしろバカにされたくらいです。外で遊ぶ場所もなく(これは子供が可哀想)、子供世代の基礎体力は年々落ちているのが明らかです。「しゃがめない若者(子供)も多い」っていいますよね。そんな若者や子供が体を鍛えることがないまま体力のピークを過ぎた中高年になったらどうなるか。 いつか日本人の平均寿命も緩やかに下がっていくはずです。
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お礼
ご回答ありがとうございました。
補足
体力は落ちてますが医療技術は進歩しています。寿命がどこまで伸びるのか。将来ガソリンが貴重品になったら再び基礎体力が向上したりして。