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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:世襲の絶対君主は短命になりやすい?)

世襲の絶対君主の短命化について

noname#202067の回答

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noname#202067
noname#202067
回答No.8

中国の皇帝の場合、ストレスが原因で短命なことが多いです。 なぜならば、中華の皇帝というのは、「天命を受けて天下を統治する」存在で、 「天地自然のすべてを統治する優れた人物でなければならない」という暗黙のルールがあるからです。 つまり、避けようのない天災や飢饉についても、皇帝のせいになってしまうわけです。 「皇帝が天に見放されたからこのような天災が起こるのだ」 という価値観は根強かったわけですね。 そしてそれを理由に、何度も王朝が後退しているわけですから。 皇帝も、それを避けようと頻繁に改元して天地自然の理をリセットしようとしたわけです。 (当然、ほとんど意味をなしません) ですので、中華の皇帝で長生きだった人は、その人物の健康への意識や治世ともう一つ、 「在位中に大きな天災が起きないこと」 「起きたとしても、見事に復興できたこと」 が重要です。 長命で有名な乾隆帝の場合、乾隆帝の父・雍正帝が倹約に努め、 また当時は経済的にも清国の最盛期を迎えていました。 これが非常に大きいです。 この潤沢な資金によって、乾隆帝は軍事活動や文化事業など、多岐にわたる政策を実現できました。 それ故、国民や臣下からの評判も非常に高く、そして乾隆帝自身のストレスも少なかったでしょう。 まさに正のスパイラルであって、乾隆帝が優秀だったのはもちろんですが、 それ以上に周囲の環境が作用しました。 乾隆帝は「天の時、地の利、人の和」を得られたわけでして、 この乾隆帝の背景をもって、他の皇帝と比べるのは酷と言うものでしょう。 清の皇帝が比較的長命なのは、  ・「皇帝は天地自然をつかさどらなければならない」という迷信から逃れられたこと(時代が後ですし、漢人ではありませんからね)  ・経済的に恵まれていたこと=政治的に比較的安定していたこと が大きいです。 そして、王朝の創始者が長命なことが多いのは、 彼らが比類ない成功体験を持っているため(国を興すくらいですからね)、 結果的にストレスが大変少なくて済んだということだと思います。 創始者は、成功も失敗も自己責任です。 失敗したら「次はどうやって挽回しようか」と前向きに考えることができます。 自分の失敗を見つめ直し、すぐに取り返せる立場にいます。 しかし、2代目以降はそうではありません。 失敗=創始者と比べられる=多大なストレスを受ける という図式が出来上がります。 中華の皇帝でやたら蛮行を行う人物が出るのは、 多大なストレスの持って行き場がなかったというのも関係していると思われます。 「周の文王」の故事は、実は「ストレスを溜めない権力者の生き方」の指南でもあったのかもしれません。 北の三代目も、おそらくはストレスでしょうね。 絶対権力者として気ままに振る舞えますが、 もし統治が上手くいかなかったり、外圧があったりしたら、必ず臣下は権力者を疑いの目で見ます。 また、権力者がそう思い込みます。 かくして、ストレスのはけ口の無い権力者は孤独に陥り、粛清を繰り返し、それでもストレスが晴れぬまま死んでいくわけです。

fumidera2
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

fumidera2
質問者

補足

創業者以外で長寿の皇帝は、他に漢の武帝、唐の玄宗皇帝、明の万歴帝などが居ますね。皆、統治した時代がよく、ストレスも少なかったのでしょう。ムガル帝国のアウラングゼーブなども80歳を越えています。そういえばフランスのルイ14世も長生きでしたね。 北の3代目、確かにストレスが凄そうてす。あれは長生きできないですよ。

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