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何故綱吉は将軍になれたのでしょうか?
徳川将軍は家康の遺言で「長子をもって相続せしめ、将軍家に世継ぎ無き場合は尾張家、紀州家、水戸家より排出する事」となっています 実際 家光の時代には4代将軍の座を切望した弟の忠長は家臣に列せられて将軍にはなれませんでした 4代家綱には男子が居ないのですから 将軍職は御三家から出すのが筋です 忠長の例を出せば綱吉は将軍になれないはずなのに 何故彼は将軍に就いたのでしょうか? これでは忠長の立つ瀬がありませんが…
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史料を読めばわかると思いますが、 綱吉に関しては、四代将軍(兄)の養子となっています。 よって、形式上は親から長子への継承です。 まあ、その養子になるにあたり、幕府重臣間、御三家を巻き込んでの 暗闘があったことは史料からもあきらかです。 相続にあたって御家騒動というのはつきものです。 単に、綱吉側の政治力が勝っていたということでしょうね。 >忠長の立つ瀬がありませんが ただただ、政治力がなかったということ。
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- tak7171
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>徳川将軍は家康の遺言で「長子をもって相続せしめ、将軍家に世継ぎ無き場合は尾張家、紀州家、水戸家より排出する事」となっています。 尾張家・紀伊家にはおっしゃるとおり将軍継承権を与えられていましたが、家綱死亡直前の時点では家光の子で家綱の弟である甲府家の綱重、館林家の綱吉が存在していたので、宗家の血筋である家綱の弟の中から養子を選んで将軍に据えるのが当然とみなされたのでしょう。甲府・館林両家は御両典と呼ばれて尾張・紀伊両家に次ぐ格とされ、水戸家はその下とされていました。なので家康~綱吉まで水戸家には継承権がありません。舘林家は綱吉が将軍となってその世子を後継者として江戸城に入れたので消滅し、甲府家は家宣が6代将軍になって消滅、それがあって水戸家の御三家としての地位が確立したと言われています。 >実際 家光の時代には4代将軍の座を切望した弟の忠長は家臣に列せられて将軍にはなれませんでした。 忠長は家光と3代将軍の座を争いました。 結局のところはNo.1の回答者様のおっしゃるとおり、家光(とその取り巻き)が忠長より、綱吉(とその取り巻き)が綱重より政治力があったので将軍になれたのでしょう。
お礼
あ すみません 忠長は3代の間違いです 訂正
- D-Gabacho
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弟といっても、健在の兄をさしおいて将軍になろうとした忠長と、男子のない兄の死後将軍職を継いだ綱吉では、ぜんぜん立場が違いますから、同列に論じるのは無理があるのでは?
お礼
ありがとうございます
お礼
保科正之の後ろ盾ですかね