- ベストアンサー
将軍家の要件とは?
- 将軍家は完全な男系以外は意味がないのか?
- 将軍家の征夷大将軍というのは、あくまでも正当な完全な男系のみに着目されるのでしょうか?
- これは、源頼朝~徳川慶喜までの征夷大将軍が、形式上は八幡太郎義家の男系子孫であるから、完全な男系以外は、例え生物学的に子孫であっても、将軍候補としては、意味がない。関係がない。という事でしょうか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
綱豊の経歴に傷があり将軍候補としてやや問題があるのはたしかですが、それによって綱豊よりも綱教のほうが候補として優位だったのなら、綱豊を養子として迎えるのは綱教が亡くなった宝永2年5月以後になるはずではありませんか?綱豊は綱教がまだ存命の宝永元年12月に江戸城に迎えられています。 また、経歴問題に無縁の御三家当主ということでいえば尾張藩の綱誠も同じです。綱教が申し分のない経歴・家格ということで候補になるのなら、当然、綱誠も候補になっていなければおかしいのでは?綱誠が綱吉の後継者として候補にあがっていたという話は聞いたことがありません。 綱誠が将軍候補になっていないことや、綱豊が次期将軍に正式決定したタイミングからみて、綱教が将軍候補たり得たのは綱吉の娘婿だったからであり、鶴姫が亡くなった時点で候補から外れていたと考えざるを得ません。そして娘婿が将軍候補になっているということは、娘を通じた孫への相続という女系的相続が期待されていたということになります。綱教が側室をもたなかったことも、その傍証になるでしょう。 おっしゃる通り、御三家とか御両典、御三卿といった家格は非常に重要です。ただ、先の回答の冒頭にふれた通り、家康の男系のDNA所有者は多すぎて、次期将軍候補の条件としては考慮に値しません。男系のDNAがなくても良いという意味ではなく、男系DNA所有者という条件では、該当者が多すぎて候補選定の役に立たないということです。
その他の回答 (2)
- D-Gabacho
- ベストアンサー率63% (1051/1643)
徳川家康の男系のひ孫というだけなら、紀州藩や尾張藩といった御三家のほか、越前松平家や会津松平家などにもたくさんいます。八幡太郎義家の男系子孫ともなれば、清和源氏系の諸氏がみんな含まれることになり、それこそ掃いて捨てるほどいます。将軍候補を選ぶのに、家康の男系子孫だとか、八幡太郎義家の男系子孫だとかいったことは、あまりに大雑把すぎて考慮する意味がありません。 将軍家だろうと一般の武士の家だろうと、家督相続の優先順位の基準となるのは、最優先が当主の男子、男子がなければ弟といったように、現在の当主との関係です。子のいない4代将軍家綱が綱吉を次期将軍に選んで養子としたのは、綱吉が徳川家康のひ孫だからではなく、自分の弟だからです。男子のいない綱吉が綱豊(家宣)を次期将軍に選んで養子としたのは、綱豊が自分の甥だからです。 紀州藩主の綱教は綱吉の後継者候補にだったとされていますが、それも綱教が家康のひ孫だったからではありません。綱吉の一人娘である鶴姫と結婚して娘婿=義理の息子になっていたからです。綱吉が綱豊を正式に後継者と定め江戸城西の丸に迎えたのは宝永元年(1704)12月。鶴姫が27歳の若さで死去したのは同年5月。綱教も翌年5月に死去していますが、その前の鶴姫が亡くなった時点で次期将軍候補から外されていたわけです。 なお鶴姫が亡くなるまで甥の綱豊を後継者に決めることができなかったのは、男系では最も自分に近い血縁の綱豊より、女系で自分の孫になる鶴姫の男子に将軍家を継がせる可能性のほうを優先していたという見方もできるでしょう。一般の武士の家によくある婿養子に似たケースといえます。 ちなみに尾張藩の綱誠は綱吉にとって姉の子ですから女系では甥ですが、男系でいえばただの遠い親戚です。女系が家督相続にからむのは婿養子の場合だけで、他家に嫁いだ姉の子を跡継ぎにするなど通常あり得ません。
補足
>なお鶴姫が亡くなるまで甥の綱豊を後継者に決めることができなかったのは、男系では最も自分に近い血縁の綱豊より、女系で自分の孫になる鶴姫の男子に将軍家を継がせる可能性のほうを優先していたという見方もできるでしょう。一般の武士の家によくある婿養子に似たケースといえます。 綱吉が綱豊をなかなか養子にしなかったのは、早く綱豊を養子にしてしまうと、もし、万が一、その後に、綱吉が男子を授かった場合に、系図上は、その男子は綱豊の弟になってしまうので、綱豊がその男子よりも将軍後継者として有意になってしまうからだとおっもいます。 また、紀州藩第3代藩主の綱教は、家康のれっきとした男系子孫です。 家康⇒頼宣⇒光貞⇒綱教 後、もう一つ、綱豊には綱教と比べて、経歴上に傷があるという事があります。 綱豊は何でも、 父・綱重が正室を娶る直前の19歳の時に、身分の低い26歳の女中・お保良(長昌院)に生ませた子であったため、世間を憚って家臣の新見正信に預けられ、養子として新見左近を名乗っていた。 そうです。 これは、経歴上の大きな傷です。 綱教には一切そういう事はありません。 その辺り、光貞はきっちりとしています。 光貞は長生きしましたし。 綱重ははっきり言って、だらしがないです。 家の経歴というのは男系DNAと並んで非常に重要でした。 それを重要にしなければ、幕府はすぐに滅んでいたと思います。 もし、経歴がDNAよりも重要性が低いのであれば、 11代将軍には、徳川家斉ではなくて、松平定信がなっていたはずです。 14代将軍には松平斉民がなっていたはずです。 よって、重要なのは、 (1) どの家を継いだか? という事と、 (2) 男系のDNA の2つである。と思います。 家光の娘、綱吉の娘は後付けでしかないと思います。 (また、DNAで言えば、家光の娘は、石田三成の子孫でもあります。) 重要なのは、 (1) どの家を継いだか? という事と、 (2) 男系のDNA の2つである。と思います。 どうでしょうか?
- kobeichiban121
- ベストアンサー率22% (56/248)
男系と捉えるのは、あくまでも将軍の妻もしくは側室が産んだ男子のことを言います。 家光の娘と言っても、嫁ぐ身ですからね。分家でしかありません。
補足
>家光の娘と言っても、嫁ぐ身ですからね。分家でしかありません。 その分家になれたのは、嫁いだ家が尾張徳川家の藩主だったからです。 家康 ⇒ 義直 ⇒ 光友 ⇒ 綱誠 で、家光の娘は、(家康 ⇒ 義直 ⇒ 光友と)家康の孫の光友に嫁いだからです。 そして、家康のひ孫になる綱誠を産みました。 もし、家光の娘が、御三家以外に嫁いでいたら、分家にはなれませんでした。 もし、同時代の一般家庭であったなら、その様な例でも、分家になれたかもしれません。 その事からしても、将軍家は、家光の娘の子は、嫁ぎ先が御三家でなければ、将軍家とは全く関係がなくなっていたはずです。 また、だからこそ、その家光の娘というのは、石田三成の子孫ですが、問題にされなかったのだと思います。 東大史料編纂所教授の本郷さんの書いた本にも、将軍家というものは、将軍家というものは、(一般家庭では言ってはいけないことですが、)女の腹は借り腹としか考えていないと思われると書いてありました。 源頼朝以降の将軍家というのは、一般の武士や公家とは違うものだと思っていますが、その通りですよね?
お礼
ご回答ありがとうございました。 >それによって綱豊よりも綱教のほうが候補として優位だったのなら、綱豊を養子として迎えるのは綱教が亡くなった宝永2年5月以後になるはずではありませんか?綱豊は綱教がまだ存命の宝永元年12月に江戸城に迎えられています。 確かに、その通りだと思います。 綱吉は、生まれながらの将軍ではなかったので、しかも、家綱に男子が生まれたり、家綱死亡時点で綱重が生きていたりしたら、将軍にはなれなかったので、せっかく運よくなれた将軍なので、『男子ができないのであれば、外孫でも将軍になって欲しい。』と思ったと思います。 もっともっと運よくなれた将軍の吉宗は、御三卿を創設しました。 >綱教が申し分のない経歴・家格ということで候補になるのなら、当然、綱誠も候補になっていなければおかしいのでは?綱誠が綱吉の後継者として候補にあがっていたという話は聞いたことがありません。 それもその通りですが、ただ、綱誠は、 『元禄12年6月5日(1699年7月1日)、綱誠は急死した。享年48。草苺を食し食あたりしたのが死因と言われている。』 そうです。どうも、暗殺の匂いがします。