• ベストアンサー

徳川将軍

徳川氏で征夷大将軍に就いた者は16人います。 そのうち、徳川綱重ですが、彼が征夷大将軍に就いた理由(功績)はなんだったのでしょうか? またこれが前例になった場合、徳川光貞や徳川治済、徳川斉順、或いは徳川家基なども将軍になれたと思いますし、特に治済は大御所を望んだほどですから将軍になる希望は持っていたでしょうから、尊号問題のほとぼりが冷めた頃ならいけたと思うんですが、彼らは何故綱重のように征夷大将軍になれなかったのでしょうか。

noname#180728
noname#180728
  • 歴史
  • 回答数10
  • ありがとう数10

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3030)
回答No.9

そもそもの疑問が将軍家継承の順位に関するものみたいなのでそのへんを少し。 将軍家継承の順位つまり徳川宗家の嫡流継承の順位ですが、まず徳川家康が秀忠を後継指名し、その後まず秀忠嫡流、次に御三家の尾張紀州、次が水戸と厳密に定めました。 自分は長子を差し置いて3男秀忠を指名してるくせに、厳格に長子継承も定めています。 ですが秀忠嫡流が7代で途絶え8代吉宗が入ると、吉宗がこれに手を加えます。 宗家と尾張藩がたびたび対立することにかこつけ、自分の二男三男等自らの血筋である御三卿家をたて、これを将軍家に後継ぎがいない場合御三家とともに後継候補にすると定めたのです。 このときに、純粋な血筋順序で後継を定めるとせず、御三家および御三卿から適当な者を選定することとされたんですね。 よって8代以降の後嗣がないときの将軍家継承順位は、資格のあるものから多分に政治的な理由で選任されています。 (将軍の父親だからといって将軍位を遺贈されたのは綱重だけですのでイレギュラーなのはそもそも綱重なので、結局理由は家宣の思いに帰結するというのが妥当なのだとは思いますが、) 嫡流継承の順位を重んじた秀忠嫡流時代であれば、家綱から直接甥に将軍位が継承されるより家綱から弟の綱重、綱重の次が家宣という継承順位を形だけでも作ったほうが正当性が増すと言えます。 これが吉宗以降の江戸時代後半であれば、そもそも家康の嫡流継承順位が滅び将軍位継承資格者から適当なものを選定するという血筋順位に継承順位の正当性を求めない制度に改められていますので、将軍→甥の継承順位から将軍→弟→子の継承順位に変えることによって正当性を増すことはできないと言えます。

noname#180728
質問者

お礼

ご回答にあるように徳川家の継承順位はかなりおかしな事が多いと思います。 長子相続も秀忠が兄の秀康を押しのけて継いだ時点で妙ですし、一応他家に養子に行った者は除くにしても家宣は家臣の新見家に養子に行った過去がありますし、吉宗も独立した藩主ですけど家を出て葛野藩の藩主として松平を名乗っている。 また通常武家ですと妾腹の者より正妻の腹から出た者を正嫡としますが、家慶は妾腹であるにもかかわらず、正妻腹の敦之助を清水家に養子に出して後継者になっている。 またこの正妻ですが、正妻に子どもがない場合は妾腹の子は正妻の子として育てられるのが一般的ですが、鷹司孝子はこの慣習に添えなかったため、夫の家光死後に困窮したという話も伝わっています。 どうも政治的な思惑と考えるしかないですね。

その他の回答 (9)

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3030)
回答No.10

まあ戦国の世→儒教の世→政治の世と時代が変わったと捉えるしかないのではないでしょうか? その強烈な転換点に吉宗がいます。

noname#180728
質問者

お礼

どうも吉宗という方は強烈な個性がある方で、大きく転換していますね。 息子の家重がああなので、将軍親政が絶えましたが、この家重が果断な性格だったらどうなったか、歴史のIFとして興味が尽きません。

回答No.8

家斉の時代 将軍になるには「征夷大将軍」+「源氏長者」が必要だったので 将軍でもない人が征夷大将軍を たとえ名乗りたくても名乗れなかった というのもあると思います それに 後継者は将軍の一存で決められなかったというのもあると思います この頃は老中や大老の権限が強く 完全に合議制でした

noname#180728
質問者

お礼

吉宗の時代にいったんは将軍の権威も高まったんですが、息子の家重がああいう方ですから、老中に任せるしか無く、合議制に逆戻りしたんでしょうね。

回答No.7

征夷大将軍=将軍と思ってる方がいらっしゃるようなので少し補足を 将軍となるには征夷大将軍のほかに「源氏長者」に任ぜられる必要があります たんなる征夷大将軍だけでは将軍とは言えないのです 綱重は征夷大将軍でしたが「源氏長者」ではなかったので将軍とはカウントされていません 彼は6代家宣の父ですね 綱吉の死後誰を将軍にするかで幕府で「お家騒動」が起こります 朝廷から皇族を将軍に迎えて傀儡として権力を握りたい勢力と そししたい老中方とで争いますが 老中方は亡き綱吉の兄にして家光の息子である館林宰相綱重の血脈が残っている事を主張 結局正論を掲げた老中方が勝利し甲府宰相綱豊(6代家宣)が将軍に就任します これでわかるとおり 綱重の功績は少なくともこの時点で徳川本家の血脈を守ったことです

noname#180728
質問者

お礼

この質問なのですが、なぜ11代将軍は家斉なのかからの続きのような質問です。 史実に従えば、1779年将軍後継者の家基が亡くなった時点で、もっとも後継者に近いのが一橋家の当主である治済になります、28歳の壮健な青年であり、嫡男はじめ男子にも恵まれ、次代の心配もない、血縁的にも家斉よりも上の世代なので将軍に近い。 一方の家斉はこの時点では10歳にも満たない子どもであり、子どもの死亡率が高い時代ですから、無事に成長するかどうかも分からないし、万一後継者なしで亡くなった場合、息子の養子に親父がなるのも逆縁なので、家斉に万一のことがあてからでは治済が12代に名乗りをあげるわけにもいかない、逆に11代が治済なら何の問題もなくスムーズな交代が可能。 ご回答にある >綱重の功績は少なくともこの時点で徳川本家の血脈を守ったことです であれば、この治済も負けていないと思いますが、大御所を断念した時点でこの前例を持ち出して、自分の死後でもよいので征夷大将軍の称号が欲しいと言い出さなかったのか、ちょっと不思議です。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.6

Hikowan88さん、こんばんわ。 たぶん、息子の家宣が将軍職に就いたからだと思います。だから、徳川本流の人間である実の父親に将軍贈位したのだと思います。 また、甲府藩は廃藩になったことも影響していると思います。 徳川光貞や徳川斉順は紀州藩主です。吉宗や家茂は本家に養子として入ったので、関係がなくなります。 治済は大御所を望んだほどですから将軍になる希望は持っていたでしょうから、家斉は一ツ橋家から本家に養子に入ったので関係がなくなります。この問題には松平定信やほかの幕閣に警戒されていました。徳川家基は将軍になれたと思いますが、彼は将軍の世継ぎであり、将軍の父親ではありません。

noname#180728
質問者

お礼

甲府藩が断絶したため、こういったイレギュラーな征夷大将軍は継承できなかったんでしょうね。 家基に関しては、将軍家の墓参でも将軍に準じる扱いで、天皇家の讃岐院のように何となく後ろ暗い物(暗殺?)があり、天明の飢饉や浅間山の噴火などを機に、怨霊を鎮めるとして征夷大将軍の称号を贈るとなってもと考えました。 当時の政治バランスもあったと考えるしかないですね。

  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4848/10262)
回答No.5

「就いた」というと語弊があるでしょう。就いたのは15名。 将軍位を贈られたのは、もう少し長生きしていれば当然将軍になったという事からじゃ無いでしょうか。 家宣の意思であるわけですが、彼は綱吉の養子になって将軍を継いだわけですが、綱吉の政治を否定しているので、父を将軍にしたい強い意志もあったかと思います。 吉宗以降になると、当然の嫡流というのが無くなってしまっているというのもあるし、 光貞・斉順・・・「長生きしていれば当然将軍」とは言いがたい 治済・・・生前に子が将軍になったので、同上 家基・・・彼を将軍にしたい人がいない

noname#180728
質問者

お礼

光貞・斉順はともかく、家基と治済はどうかなと個人的に思います。 家基はご承知のように、将軍就任前に亡くなった他の方々、例えば徳川徳松と比べても死後の待遇はよく、讃岐院など天皇家の前例に習い、綱重同様にと言えなくもないと思いますし、治済も最後まで執念があったようですから、息子としては何とかならないかという気持ちはあったのではないかと想像します。 しかし、功といえば将軍の父親というだけの綱重が征夷大将軍で、同じ将軍の父親の治済がなぜだめなのか、吉宗の時点で流れが変わったと考えるしかないですね。

  • toshineko
  • ベストアンサー率44% (258/575)
回答No.4

確かに6代将軍家宣就任後、正一位太政大臣征夷大将軍が追贈されていますね。 詳細は分かりませんが、ガチガチの朱子学者である新井白石が一枚噛んでいるかも。 「弟である綱吉公が将軍であったのだから、兄である御父君が将軍でないのはおかしい」 とかなんとか・・・・・・。 他の例では、そこまで申し出る家臣がいなかったのでしょう。 将軍補任には相当な費用もかかると思いますしね。

noname#180728
質問者

お礼

父も息子も兄も弟も将軍で、自分だけ15万石の藩主かという思いはあったとは推察します。 特に1710年は息子の家宣の治世ですから、父親にも征夷大将軍の位を贈りたいという孝心からであろうと思いますが、これを前例に家斉が「本来なら11代を継ぐべきお方」として、家基を推挙したり、親父もあれだけ望んでいたからと治済にもらえるように動かなかったのかそれが不思議だったんです。 綱重に誰もが認める特別な功労があり、他のかたがたは及ばないということなら分かりますが、そこまでの功績は伝わっていないようで、もっといえば徳川宗家の本来の正嫡である信康はどうなのかなど、いろいろ考えてしまいます。

noname#181884
noname#181884
回答No.3

15代で政権を返上し、将軍職はそこまでです。16代は御三家より下の御三卿の出で、後に静岡県知事になりました。

noname#180728
質問者

お礼

徳川宗家は15代ですから16代はいません、綱重は甲府徳川家の征夷大将軍ですから徳川宗家の代数には当然ながらカウントしないと思います。 中国でも初代皇帝を太祖として、その父親にも諡号として帝位を贈るようですが、王朝の代数にはカウントしないようです、たとえば清の宣皇帝は高皇帝(ヌルハチ)の父親ですが、清朝の初代皇帝はヌルハチであり、宣皇帝は清朝初代とはしません。 これと同じで、綱重も**代目とはいわないと考えます。

回答No.2

>徳川氏で征夷大将軍に就いた者は16人います。 はて、15名じゃなかったですか? 徳川綱重? 何代将軍でしたっけ?

noname#180728
質問者

お礼

宗家で征夷大将軍になったのが15人ですから、綱重は分家なのであえて言えば甲府徳川家初代将軍とでもいえるのでは、息子が宗家に養子に行き断絶しましたから、2代目はなしとなりますけど。

  • kusirosi
  • ベストアンサー率32% (2838/8861)
回答No.1

・徳川綱重ですが、彼が征夷大将軍に就いた理由(功績)はなんだったのでしょうか? なってないから\(^^;)... 弟と息子は、なれたけど・・・・・・・

noname#180728
質問者

お礼

記録では「1710年(宝永7年)8月23日 贈正一位太政大臣征夷大将軍」となっていますが、貰っていないという根拠はお持ちですか? いくつかの文献では1710年に死後贈与として征夷大将軍になったと記されていますが??

noname#180728
質問者

補足

確かに最近は広く知られた武田信玄や源頼朝の画像は別人だったとか、聖徳太子は存在しなかったとか、昨今は私の学生時代とは異なる事を学校で教えられていますから、 >なってないから\(^^;)... >弟と息子は、なれたけど・・・・・・・ は大胆な仮説で、数年したら実は・・という話にならないとも限りませんね。 とりあえずここは現時点で多くの方が認識しているように1710年に征夷大将軍の称号を贈られたとしたいと思います。 ところで成っていないという新説の根拠は何ですか? ご自分で研究されたとか、どこかで新説をみられたとか???

関連するQ&A

  • 何故、徳川治済は11代将軍になれなかったのか?

    何故、徳川治済は、11代将軍になれなかったのでしょうか? 11代将軍には、徳川治済ではなくて、彼の長男の徳川家斉が就任しています。 何故、徳川治済は、自分自身が11代将軍になるのではなく、長男を将軍にしたのでしょうか? 後に、尊号一件で大御所になろうとしていた事から、徳川治済は将軍になりたくなかったわけではないと思います。 何故、徳川治済は自身が将軍になろうとしなかったのでしょうか?

  • なぜ,徳川家康は将軍を選んだのでしょうか.

    徳川家康は,将軍(征夷大将軍)になりました. でも,秀吉は,「関白」から「太閤」になりました 詳しくは知りませんが,関白というのは天皇の直接の家臣であり,たぶん,「征夷大将軍」よりもかなり上の位だと思います. 信長は,「将軍」就任を拒否したと言います. おそらく「関白」のようなモノを目指していたのでしょう. この時代(戦国時代),秀吉の選択した「関白」と家康の選択した「征夷大将軍」とはどのような違いがあったのでしょうか. 一説には,将軍は,足利の直系でないとなれないとか, そのために,将軍になった人は,「系図を適当にでっち上げた」とか言われていますが,強いだけではダメで, 「血統」も関係しているのでしょうか. ご存じの方おられましたらお願いします.

  • 徳川治済は何故将軍に成れなかったか。

    徳川治済は何故将軍に成れなかったか。 徳川11代将軍ですが、1779年に家基が亡くなった時点で、28歳(1751年生まれ)、8代吉宗の孫にあたり血筋もよい、77歳まで生きたことを考えると健康で子どもも多い、また事績を見ても性格は今一だが、政治的能力に優れ、向上心もある。 ライバル田安家、清水家にはこの時点では候補はおらず、尾張、紀州も年齢や健康状態からパス。 実際に11代将軍になった徳川家斉より血筋も年齢も体力気力も上だと思うんですが、何故将軍の座を徳川家斉に奪われたのでしょうか。 徳川家斉は8代吉宗のひ孫世代で、1781年に将軍世子になった時点でも8歳、医療の発達していない時代ですから、幼児では成人できるかどうかも怪しいし、政治的手腕も未知数、どう考えても徳川治済の方がふさわしいと思うんです。 一橋家の跡目も、豊千代という長男がいますから安泰、将軍世子になるのに何ら障害はないと思うのですが、何か理由があったんでしょうか?

  • 将軍

    誰が徳川家康を征夷大将軍に任命したんですか? 同じように足利家とか源家も誰かに任命されてるってことですか 将軍って今の時代で言うと国防長官ですか? 教えていただけないでしょうか

  • 徳川治察は、生きていたら11代将軍になれたか?

    田安徳川家の2代目当主・徳川治察は、もし、徳川家治の嫡男・徳川家基が死んだ後まで生きていたら、11代将軍になれたでしょうか? 徳川治察 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E5%AF%9F 徳川治察は、田安徳川家の2代目当主(田安宗武の五男)で血筋に関しては申し分なく、また、上記のwikiのページの「明和7年(1770年)吹上庭にて馬術を上覧し、褒美として「広瀬」という馬を貰った。」という部分からもわかるように、文武両道だったみたいです。 もし、徳川治察が徳川家治の嫡男・家基が死んだ後まで生きていたとしたら、11代将軍になったでしょうか? (徳川治済の息子・家斉よりも、徳川治察の方が血筋も能力も優れていたと思います。)

  • 将軍家は完全な男系以外は意味がないのか?

    将軍家というのは、一般の藩士の家とかとは違って、生母が徳川家光の娘とかであっても、将軍候補とかにはあまり影響を与えないのでしょうか? 将軍家の征夷大将軍というのは、あくまでも正当な完全な男系のみに着目されるのでしょうか? 将軍家というのは、同時代の一般家庭とは違って、正当な男系のみ重視なのでしょうか? (家光の娘が生母であっても女系にはなりませんが。 「家光→家光の娘」は男系ですので。) 尾張藩主の徳川綱誠は生母が家光の娘で、『家康→義直→光友→綱誠』と家康のひ孫でありました。 しかし、尾張藩主の徳川綱誠が、(徳川綱誠と同じく正当な男系では)家康のひ孫の紀州藩主の徳川綱教よりも、将軍候補として優位であったという話は聞いたことがありません。 尾張藩主の徳川綱誠は生母が家光の娘でありましたが、紀州藩主の徳川綱教は生母は徳川家とは全く関係ありませんでした。 正統な男系では、どちらとも、家康のひ孫です。 将軍家というのは、一般の藩士の家とかとは違って、生母が徳川家光の娘とかであっても、将軍候補とかにはあまり影響を与えないのでしょうか? 将軍家の征夷大将軍というのは、あくまで正当な男系のみに着目されるのでしょうか? これは、源頼朝~徳川慶喜までの征夷大将軍が、形式上は八幡太郎義家の男系子孫であるから、完全な男系以外は、例え生物学的に子孫であっても、将軍候補としては、意味がない。関係がない。 という事でしょうか? 教えてください。

  • 徳川綱豊(徳川家宣)がいるのに徳川綱教が6代将軍候補になっていた理由は?

    徳川御三家は徳川宗家の血が絶えたときに、将軍を出す役目を持っていました。 つまり、とくがわ徳川宗家の世継ぎがいる限り、その人物が将軍となることが決まっていたはずです。 5代将軍の徳川綱吉には、兄(徳川綱重)の嫡男であり、家光の孫にあたる徳川綱豊(後の徳川家宣)がいました。常識で考えれば、れっきとした徳川宗家の血をひいている徳川綱豊が6代将軍の筆頭候補になるはずです。 なぜ、徳川綱吉は甥であり、家光の孫である徳川綱豊をさしおいて、分家にあたる御三家の一つである紀州家の徳川綱教を次の将軍にと考えたのでしょうか? 血統的には誰が考えても徳川綱豊こそが次期将軍筆頭候補になるはずです。 徳川綱吉がれっきとした宗家の血をひく人物(徳川綱豊)がいるのに、御三家(分家)の徳川綱教を次期将軍にと考えた理由を教えてください。

  • 何故、徳川家基は綱吉の霊廟に合祀されているのか?

    何故、「幻の第11代将軍」と言われた徳川家基は、徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されているのでしょうか? https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%86%B2%E9%99%A2%E9%9C%8A%E5%BB%9F (↑)この上記のページによれば、常憲院霊廟は、 被葬者 常憲院(5代将軍、徳川綱吉) 以下の将軍等が合祀されている。 有徳院(8代将軍、徳川吉宗) 温恭院(13代将軍、徳川家定)、天璋院(家定正室、篤姫) 孝恭院(徳川家基) となっています。 そこで疑問があります。 将来の第11代将軍として期待されていたが、夭折し、「幻の第11代将軍」とも言われた徳川家基は、 何故、その父の10代将軍・徳川家治と同じ、徳川家綱の厳有院霊廟ではなくて、 徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されているのでしょうか? 「徳川家基が突然亡くなった時、父・家治は、自らの後継ぎがいなくなったため、食事も喉を通らなくなるほど嘆き悲しんだという。」そうですから、 徳川家治は『徳川家基を自分と同じ所に合祀したい。』と思ったはずだと思うのですが。。。 しかし、実際は、 徳川家治は、徳川家綱の厳有院霊廟に合祀されているのに、 その子の徳川家基は、徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されています。 因みに、実際の11代将軍・徳川家斉は、家治と同じ家綱の厳有院霊廟に合祀されています。 だから、交互の順だという理屈は成り立ちません。 何故、徳川家基は、家治とは別の、徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されているのでしょうか? 徳川家基が、徳川家治とは別の、徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されている、考えられる理由を教えてください。 <参考> 徳川家基 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%9F%BA 常憲院霊廟 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%86%B2%E9%99%A2%E9%9C%8A%E5%BB%9F

  • 一橋治済の権力の源は?

    一橋治済は、松平定信を白河藩に養子に出したり、徳川家基を暗殺したり、田沼意次を追い落とす為に松平定信を裏で操ったりしたそうですが、 将軍でもなく、一橋家の当主に過ぎない一橋治済に何故そのような事ができたのでしょうか? (家斉が将軍になる前の)一橋治済の権力の源は何だったのでしょうか?

  • 英語に訳して下さい😂

    徳川家康は、関が原の戦いで勝利の後は政権基盤を築き、征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開府する。将軍職を3男秀忠に譲った後は 駿府にて大御所として政治の実権を握り続けた。やがて大坂冬・夏の陣の2回の戦で豊臣家を滅ぼし、徳川260年の礎を築いた。死後は日光東照宮に祭られる。