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徳川将軍
徳川氏で征夷大将軍に就いた者は16人います。 そのうち、徳川綱重ですが、彼が征夷大将軍に就いた理由(功績)はなんだったのでしょうか? またこれが前例になった場合、徳川光貞や徳川治済、徳川斉順、或いは徳川家基なども将軍になれたと思いますし、特に治済は大御所を望んだほどですから将軍になる希望は持っていたでしょうから、尊号問題のほとぼりが冷めた頃ならいけたと思うんですが、彼らは何故綱重のように征夷大将軍になれなかったのでしょうか。
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そもそもの疑問が将軍家継承の順位に関するものみたいなのでそのへんを少し。 将軍家継承の順位つまり徳川宗家の嫡流継承の順位ですが、まず徳川家康が秀忠を後継指名し、その後まず秀忠嫡流、次に御三家の尾張紀州、次が水戸と厳密に定めました。 自分は長子を差し置いて3男秀忠を指名してるくせに、厳格に長子継承も定めています。 ですが秀忠嫡流が7代で途絶え8代吉宗が入ると、吉宗がこれに手を加えます。 宗家と尾張藩がたびたび対立することにかこつけ、自分の二男三男等自らの血筋である御三卿家をたて、これを将軍家に後継ぎがいない場合御三家とともに後継候補にすると定めたのです。 このときに、純粋な血筋順序で後継を定めるとせず、御三家および御三卿から適当な者を選定することとされたんですね。 よって8代以降の後嗣がないときの将軍家継承順位は、資格のあるものから多分に政治的な理由で選任されています。 (将軍の父親だからといって将軍位を遺贈されたのは綱重だけですのでイレギュラーなのはそもそも綱重なので、結局理由は家宣の思いに帰結するというのが妥当なのだとは思いますが、) 嫡流継承の順位を重んじた秀忠嫡流時代であれば、家綱から直接甥に将軍位が継承されるより家綱から弟の綱重、綱重の次が家宣という継承順位を形だけでも作ったほうが正当性が増すと言えます。 これが吉宗以降の江戸時代後半であれば、そもそも家康の嫡流継承順位が滅び将軍位継承資格者から適当なものを選定するという血筋順位に継承順位の正当性を求めない制度に改められていますので、将軍→甥の継承順位から将軍→弟→子の継承順位に変えることによって正当性を増すことはできないと言えます。
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- jkpawapuro
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まあ戦国の世→儒教の世→政治の世と時代が変わったと捉えるしかないのではないでしょうか? その強烈な転換点に吉宗がいます。
お礼
どうも吉宗という方は強烈な個性がある方で、大きく転換していますね。 息子の家重がああなので、将軍親政が絶えましたが、この家重が果断な性格だったらどうなったか、歴史のIFとして興味が尽きません。
- あずき なな(@azuki-7)
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家斉の時代 将軍になるには「征夷大将軍」+「源氏長者」が必要だったので 将軍でもない人が征夷大将軍を たとえ名乗りたくても名乗れなかった というのもあると思います それに 後継者は将軍の一存で決められなかったというのもあると思います この頃は老中や大老の権限が強く 完全に合議制でした
お礼
吉宗の時代にいったんは将軍の権威も高まったんですが、息子の家重がああいう方ですから、老中に任せるしか無く、合議制に逆戻りしたんでしょうね。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
征夷大将軍=将軍と思ってる方がいらっしゃるようなので少し補足を 将軍となるには征夷大将軍のほかに「源氏長者」に任ぜられる必要があります たんなる征夷大将軍だけでは将軍とは言えないのです 綱重は征夷大将軍でしたが「源氏長者」ではなかったので将軍とはカウントされていません 彼は6代家宣の父ですね 綱吉の死後誰を将軍にするかで幕府で「お家騒動」が起こります 朝廷から皇族を将軍に迎えて傀儡として権力を握りたい勢力と そししたい老中方とで争いますが 老中方は亡き綱吉の兄にして家光の息子である館林宰相綱重の血脈が残っている事を主張 結局正論を掲げた老中方が勝利し甲府宰相綱豊(6代家宣)が将軍に就任します これでわかるとおり 綱重の功績は少なくともこの時点で徳川本家の血脈を守ったことです
お礼
この質問なのですが、なぜ11代将軍は家斉なのかからの続きのような質問です。 史実に従えば、1779年将軍後継者の家基が亡くなった時点で、もっとも後継者に近いのが一橋家の当主である治済になります、28歳の壮健な青年であり、嫡男はじめ男子にも恵まれ、次代の心配もない、血縁的にも家斉よりも上の世代なので将軍に近い。 一方の家斉はこの時点では10歳にも満たない子どもであり、子どもの死亡率が高い時代ですから、無事に成長するかどうかも分からないし、万一後継者なしで亡くなった場合、息子の養子に親父がなるのも逆縁なので、家斉に万一のことがあてからでは治済が12代に名乗りをあげるわけにもいかない、逆に11代が治済なら何の問題もなくスムーズな交代が可能。 ご回答にある >綱重の功績は少なくともこの時点で徳川本家の血脈を守ったことです であれば、この治済も負けていないと思いますが、大御所を断念した時点でこの前例を持ち出して、自分の死後でもよいので征夷大将軍の称号が欲しいと言い出さなかったのか、ちょっと不思議です。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
Hikowan88さん、こんばんわ。 たぶん、息子の家宣が将軍職に就いたからだと思います。だから、徳川本流の人間である実の父親に将軍贈位したのだと思います。 また、甲府藩は廃藩になったことも影響していると思います。 徳川光貞や徳川斉順は紀州藩主です。吉宗や家茂は本家に養子として入ったので、関係がなくなります。 治済は大御所を望んだほどですから将軍になる希望は持っていたでしょうから、家斉は一ツ橋家から本家に養子に入ったので関係がなくなります。この問題には松平定信やほかの幕閣に警戒されていました。徳川家基は将軍になれたと思いますが、彼は将軍の世継ぎであり、将軍の父親ではありません。
お礼
甲府藩が断絶したため、こういったイレギュラーな征夷大将軍は継承できなかったんでしょうね。 家基に関しては、将軍家の墓参でも将軍に準じる扱いで、天皇家の讃岐院のように何となく後ろ暗い物(暗殺?)があり、天明の飢饉や浅間山の噴火などを機に、怨霊を鎮めるとして征夷大将軍の称号を贈るとなってもと考えました。 当時の政治バランスもあったと考えるしかないですね。
- notnot
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「就いた」というと語弊があるでしょう。就いたのは15名。 将軍位を贈られたのは、もう少し長生きしていれば当然将軍になったという事からじゃ無いでしょうか。 家宣の意思であるわけですが、彼は綱吉の養子になって将軍を継いだわけですが、綱吉の政治を否定しているので、父を将軍にしたい強い意志もあったかと思います。 吉宗以降になると、当然の嫡流というのが無くなってしまっているというのもあるし、 光貞・斉順・・・「長生きしていれば当然将軍」とは言いがたい 治済・・・生前に子が将軍になったので、同上 家基・・・彼を将軍にしたい人がいない
お礼
光貞・斉順はともかく、家基と治済はどうかなと個人的に思います。 家基はご承知のように、将軍就任前に亡くなった他の方々、例えば徳川徳松と比べても死後の待遇はよく、讃岐院など天皇家の前例に習い、綱重同様にと言えなくもないと思いますし、治済も最後まで執念があったようですから、息子としては何とかならないかという気持ちはあったのではないかと想像します。 しかし、功といえば将軍の父親というだけの綱重が征夷大将軍で、同じ将軍の父親の治済がなぜだめなのか、吉宗の時点で流れが変わったと考えるしかないですね。
- toshineko
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確かに6代将軍家宣就任後、正一位太政大臣征夷大将軍が追贈されていますね。 詳細は分かりませんが、ガチガチの朱子学者である新井白石が一枚噛んでいるかも。 「弟である綱吉公が将軍であったのだから、兄である御父君が将軍でないのはおかしい」 とかなんとか・・・・・・。 他の例では、そこまで申し出る家臣がいなかったのでしょう。 将軍補任には相当な費用もかかると思いますしね。
お礼
父も息子も兄も弟も将軍で、自分だけ15万石の藩主かという思いはあったとは推察します。 特に1710年は息子の家宣の治世ですから、父親にも征夷大将軍の位を贈りたいという孝心からであろうと思いますが、これを前例に家斉が「本来なら11代を継ぐべきお方」として、家基を推挙したり、親父もあれだけ望んでいたからと治済にもらえるように動かなかったのかそれが不思議だったんです。 綱重に誰もが認める特別な功労があり、他のかたがたは及ばないということなら分かりますが、そこまでの功績は伝わっていないようで、もっといえば徳川宗家の本来の正嫡である信康はどうなのかなど、いろいろ考えてしまいます。
15代で政権を返上し、将軍職はそこまでです。16代は御三家より下の御三卿の出で、後に静岡県知事になりました。
お礼
徳川宗家は15代ですから16代はいません、綱重は甲府徳川家の征夷大将軍ですから徳川宗家の代数には当然ながらカウントしないと思います。 中国でも初代皇帝を太祖として、その父親にも諡号として帝位を贈るようですが、王朝の代数にはカウントしないようです、たとえば清の宣皇帝は高皇帝(ヌルハチ)の父親ですが、清朝の初代皇帝はヌルハチであり、宣皇帝は清朝初代とはしません。 これと同じで、綱重も**代目とはいわないと考えます。
- chokopocky
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>徳川氏で征夷大将軍に就いた者は16人います。 はて、15名じゃなかったですか? 徳川綱重? 何代将軍でしたっけ?
お礼
宗家で征夷大将軍になったのが15人ですから、綱重は分家なのであえて言えば甲府徳川家初代将軍とでもいえるのでは、息子が宗家に養子に行き断絶しましたから、2代目はなしとなりますけど。
- kusirosi
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・徳川綱重ですが、彼が征夷大将軍に就いた理由(功績)はなんだったのでしょうか? なってないから\(^^;)... 弟と息子は、なれたけど・・・・・・・
お礼
記録では「1710年(宝永7年)8月23日 贈正一位太政大臣征夷大将軍」となっていますが、貰っていないという根拠はお持ちですか? いくつかの文献では1710年に死後贈与として征夷大将軍になったと記されていますが??
補足
確かに最近は広く知られた武田信玄や源頼朝の画像は別人だったとか、聖徳太子は存在しなかったとか、昨今は私の学生時代とは異なる事を学校で教えられていますから、 >なってないから\(^^;)... >弟と息子は、なれたけど・・・・・・・ は大胆な仮説で、数年したら実は・・という話にならないとも限りませんね。 とりあえずここは現時点で多くの方が認識しているように1710年に征夷大将軍の称号を贈られたとしたいと思います。 ところで成っていないという新説の根拠は何ですか? ご自分で研究されたとか、どこかで新説をみられたとか???
お礼
ご回答にあるように徳川家の継承順位はかなりおかしな事が多いと思います。 長子相続も秀忠が兄の秀康を押しのけて継いだ時点で妙ですし、一応他家に養子に行った者は除くにしても家宣は家臣の新見家に養子に行った過去がありますし、吉宗も独立した藩主ですけど家を出て葛野藩の藩主として松平を名乗っている。 また通常武家ですと妾腹の者より正妻の腹から出た者を正嫡としますが、家慶は妾腹であるにもかかわらず、正妻腹の敦之助を清水家に養子に出して後継者になっている。 またこの正妻ですが、正妻に子どもがない場合は妾腹の子は正妻の子として育てられるのが一般的ですが、鷹司孝子はこの慣習に添えなかったため、夫の家光死後に困窮したという話も伝わっています。 どうも政治的な思惑と考えるしかないですね。