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徳川家重が女性だったという説に信憑性はあるのか?
- 徳川家重が女性だったという説について、その信憑性について考えてみましょう。
- 徳川家重が女性だったという説には疑問が残ります。徳川吉宗が家重を女性として扱う理由や、他の子供たちの存在など、矛盾する点が多いからです。
- 徳川家重が女性だったという説には、信憑性に疑問が残ります。吉宗の行動からも、家重が女性である可能性は低いと考えられます。
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https://okwave.jp/qa/q9477085.html で質問している本人です。 私がBAとしたご回答の内容ですね。 これは実は私も意外なお話でした。 しかし完全に否定しきることもできないという判断です。 意外は意外なんですが。 幕末に関する質問をしたときに頂いたご回答をご紹介申し上げます。 *正規に明治天皇となる祐宮が殺された、長州とはかの代々安倍晋三さんの出身地 1.三条実美は、孝明天皇から「国賊・朝敵」として追討令が出ていた。 ※天誅組一派も、朝敵として追討令が出た。 (1)三条実美は、都落ちの時に「裕宮(孝明天皇長男)を人質」にした。 ※孝明天皇は、幕府への出陣許可を出さなかった。 (2)祐宮は、長州藩内で暗殺された。 (3)明治天皇は、伊藤博文配下の「相撲隊隊員」が身代わりに即位した。 ※祐宮は、虚弱体質。明治天皇は、大男。祐宮は、右利き。明治天皇は、左利き。 ※明治天皇の后は、何故か「皇太后」と称す。通常は、「皇后」です。 ※.明治新政府の御前会議で「明治天皇が発言しようとした」ところ、伊藤博文が「元の身分に落とすぞ!」と一喝した。 まぁ、三条実美は「勅書・錦の御旗」などを堂々と偽造した悪人です。 天誅組の乱では、多くの若者が「偽の勅書」を信じて命を失いましたよね。 ただ、形式的には「天誅組主犯が、明治天皇の叔父」という隠された史実があります。 「天皇は、神聖にして犯すべからず」 この一文で、天皇に関する一切の詮議は不可能になりました。 まぁ、地方の古文書を見ると色々と考えさせられます。
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- doraneko66
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あながち別物ってところではないかと思いますが 腕力と言うのは間違いました。 統率力ですね。 家重については、詳しく知りませんが 障害があったとか聞いたことがあります。 なので、頻尿くらいのことで女性説を言うのは 暴論であり小説家たちの創作物から来るものでしょう。
お礼
御回答ありがとうございました。 歴史上、征夷大将軍という位に女性がついたことはないはずです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D#征夷大将軍の一覧
- oska2
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>徳川家重が女性だったという説に信憑性はあるのか? 誰にも、分かりませんね。 将軍家の正史である「徳川実記」は、為政者のための書物です。 徳川家重が「女将軍」とは、100%書きません。 が・・・。 色々な記録とか、墓の発掘調査結果からでは「女性」の疑いも・・・。 1.死亡原因は「尿毒素」。これは、女性に多い病。 1.埋葬方法が「正座」。これは、当時の女性向け埋葬方法。 1.頭蓋骨と骨盤が、女性と疑う程。 1.(記録では)生前の顎鬚は「毎日書いていた」? 1.意図的か否か分かりませんが、直接会話をしたのは大岡忠光のみ。 これらの証拠では、女性の疑いも出てきますね。^^; >徳川家康が創った幕府の将軍に女を立てたりするでしょうか? 可能性は、否定できません。 吉宗が将軍になった時も、未だ尾張藩・大奥・幕閣では異論が多かったのです。 ※吉宗が将軍に就くまでは、色々な確執がありましたよね。 吉宗としては、男児が生まれるまでは(実際、男児が生まれる事は事前確認は出来ない)既に誕生している子供を「世継ぎ」とする事が必要です。 吉宗の子供が全て女性だと、吉宗の子供は将軍の座に付く事は出来ません。 また、尾張藩主が将軍の座を狙います。 吉宗一族の天下を画策する為には、可能性があったかもね。 >吉宗が、自分の勝手な思いで、男性候補がいっぱいいるのに、女を将軍になどできるでしょうか? ここが、将軍家の権力です。 習近平中国皇帝陛下も、権力を握った途端に思いのままに中国を支配していますよ。 吉宗の時代は「将軍の命令」は、絶対です。 実際、御三家筆頭の(吉宗と将軍職を争った)尾張藩主は「謹慎」を命じられていますよね。 確か、死亡しても「お墓は、罪人として墓石に金網」が張っていました。 ※死後75年経って、やっと将軍家から許しが出て(墓を覆っていた)金網を外した。 まぁ、日本は(某反日国家と異なって)「国・為政者が決めた正しい歴史」を強制していません。 法治主義・自由主義国家ですから、色んな人が色んな立場で考える事が出来るのです。 安徳天皇生存説(徳島)・豊臣秀頼生存説(鹿児島・宮崎)・武田勝頼生存説(高知)・徳川家康替え玉説(和歌山・愛知)・上杉謙信女性説など色々あります。 色んな説・逸話が残っているのも、楽しいです。^^;
補足
>実際、御三家筆頭の(吉宗と将軍職を争った)尾張藩主は「謹慎」を命じられていますよね。 吉宗と将軍職を争ったのは徳川継友で、「謹慎」を命じられたのは宗春なので、違うと思います。 また、もし継友の兄の吉通が、23歳の若さで早死にせず、7代将軍家継死亡時に生存していれば、8代将軍は確実に尾張の吉通でした。(家宣の遺言状も吉通に手渡されていたはずです。) >ここが、将軍家の権力です。 家光の4男で独裁者の色彩が濃かった5代将軍綱吉でさえも、唯一の息子の徳松が死んだ後、まさか一人娘の鶴姫を将軍にしようなどとは、夢にも思いませんでした。 綱吉は、鶴姫の夫の紀州藩主徳川綱教と鶴姫の間にもし男子が生まれたら、綱教を6代将軍にしたかったようですが、水戸光圀に諭されて諦めました。 (常識的に考えれば、綱吉の兄、綱重の長男が6代将軍になるはずですが、綱重の長男、綱豊は綱重が正室を迎える前に出来た子で、初め養子に出されていたので、少し問題があったようです。) その綱吉さえも全く考えなかった事、自分の娘を将軍にするという事を、正当な紀州藩主の跡取りでさえなく、元々は将軍になどなれるはずのなかった分家から入った吉宗が考えるでしょうか? しかも崇拝している家康の代々の後継者である将軍位に自分の娘をつかせるでしょうか?
- doraneko66
- ベストアンサー率11% (535/4742)
ないと思います。 上杉謙信女性説もないでしょう。 その時代は、めちゃくちゃ腕力を見せなければならない時代です。 少しでも腑抜けだと周りの家臣は舐めてかかり すぐに下剋上された時代です。 江戸に入っても、そこに変わりはないでしょう。 常に怖い顔をしていたと思います。
補足
>その時代は、めちゃくちゃ腕力を見せなければならない時代です。 個人の腕力や武の腕前と、軍師や司令官としての能力は全くの別物だと思います。 また、新しい戦法や新しい武器を取り入れたり、自分の領地を経済的にも強くしたりして、戦略的にも強くなるというのも全く別物です。 つまり、宮本武蔵や柳生十兵衛などの能力と、諸葛孔明や山本勘助や織田信長の能力は別物です。 それはそうとして、上杉謙信女性説の方がまだ徳川家重女性説よりも遥かにあり得る事だと思います。 なぜなら、上杉謙信の時代は国がまとまらなければ、滅ぼされる時代だったからです。 だから、大将が女性か男性か云々よりも、国がまとまって強くなることの方が大切だからです。 ずっと過去には邪馬台国の王が卑弥呼という女性だった事もあります。 その時代も、倭国大乱の直後で、国がまとまらなければ滅ぼされるので、大将の性別云々よりも、国がまとまることの方が大切だったからです。 一方、江戸幕府9代将軍家重の時代には、滅ぼされるとかそういう心配は全くありませんでした。 江戸幕府が圧倒的な権力と力を持っていました。 その9代将軍の時代の江戸幕府にとって大切な事は、家康が定めたしきたり伝統を守り、家康が取り入れた朱子学を守る事によって、幕府の威厳とした態度を全国の外様大名に見せつける事です。 また、江戸幕府内部の対立も起こらないようにしなければなりません。 このような時代に、男性候補がたくさんいる中で女性を将軍にするという事は、江戸幕府にとって自分で自分の首を締めるような事だと思います。 家康が没して100年が経過し、家康神格化が一段と進んでいたこの時代に、家康を崇拝していた吉宗がそのような事をするとは、どうしても思えないのです。
お礼
御回答ありがとうございました。 <徳川家重> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%87%8D ↑ 徳川家重は、旧暦で正徳元年(1711年)12月21日に江戸赤坂の紀州藩邸で生まれました。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%95%B7%E7%A6%8F%E4%B8%B8 ↑ 吉宗は、家重が吉宗自身が紀伊藩主在任中の時に生まれたため、ゆくゆくは6代藩主にする予定で「長福丸」という幼名を名乗らせたようです。 吉宗は、初めは家重を自分の次の紀州藩の6代藩主にする予定で、「長福丸」と名乗らせています。 家重は江戸の紀州藩邸生まれです。 果たして、もし仮に家重が女性であるのだとしたら、旧暦で正徳元年(1711年)12月21日という、6代将軍家宣も尾張の吉通も元気なこの時期に、自分の娘を自分の次の御三家紀州藩の藩主にしようなどと、(棚からぼた餅的に紀州藩主になった)吉宗が考えるでしょうか? (吉宗は最初はずっと部屋住みで、もし綱教に1人でも男子が生まれたりしていたら、吉宗が紀州藩主になれる事は、あり得ませんでした。) 家重は、江戸城の近くの江戸赤坂の紀州藩邸生まれなので、江戸には結構たくさんのスパイがいるはずなので、もし家重が女性であったら、そうそう隠し通せるものではありません。 6代将軍家宣も、家重の事を吉宗の後継者として認めていたはずです。 また、家継死亡時に、もし家重が女性であるとしたら、天英院や老中や水戸の徳川綱條が、自分の娘を次の紀州藩主にしようとしていた吉宗を8代将軍に推すでしょうか? そう考えるとやはり家重女性説は無理がありすぎそうです。