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徳川綱教と徳川光友の側室の違い
- 徳川綱教は、5代将軍・徳川綱吉の長女を正室に迎えたため、側室を持たず、子供がいないままで終わった。
- 一方、徳川光友は3代将軍・徳川家光の娘を正室に迎える一方で、多くの側室を持った。
- この違いは、徳川綱教が5代将軍に憚って側室を迎えなかった一方、徳川光友は徳川家光に憚らずに側室を迎えたためだと思われる。
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Wikipediaによれば、徳川綱教は鶴姫と婚姻したことにより、次期将軍の有力候補になっていたそうです。徳松が死んで将軍綱吉の実子は鶴姫ただ一人になっており、綱吉は鶴姫を異常なくらい溺愛していて、庶民に鶴の字や紋の使用を禁じる「鶴字法度」を出していたとのこと。そんな状況では、側室をとるのをはばかるのも無理ありません。鶴姫との間に男子が生まれたら、綱吉は喜んで綱教を次期将軍に指名したでしょうから。 尾張藩2代藩主の徳川光友と将軍家光の娘千代姫との結婚には、そのような特殊な事情は存在しません。この時代、側室を迎えるのはごく普通のことですから、秀忠の娘珠姫と結婚した前田利常、初姫と結婚した京極忠高など、将軍の娘を正室に迎えた大名で側室をもった人は珍しくありません。
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- fujic-1990
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直接そのことを論じたものを読んだ記憶はありませんが、立場などを考慮するに、 (1)まだ、将軍家と尾張家の格差が小さかった。 水戸は紀州の「お控え様(父母ともに同じ、実弟)」で、「御三家とは、将軍家、尾張家、紀州家をいった」という話もあるくらいです。 それが、いつのまにか格差が開き「将軍家」は別格となって、水戸も含めた3家が「御三家」と呼ばれるようになったのだ、と。 それで、将軍家の娘と言ってもさほど遠慮する必要はなかったのだろうと思います。 (2)家光は長らく女に興味をみせず、したがって跡継ぎ男子がどうなるか(無事育つかどうか)大問題として取り扱われていた可能性が高いと思われます。 となると、尾張からお世継ぎ様を引っ張ってこなければならない事態になっていたわけです。なら、将軍を出しても尾張家を継ぐ子供がどうしても欲しいということになります。従って「男子はたくさんいたほうがいい」という意向が、尾張はもちろん暗黙の内に幕府内でも認められていた、のではないかと思います。
お礼
ありがとうございました。
補足
徳川綱教には、弟が2人いましたが、 徳川光友には男兄弟がいなかったことは関係しているのでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございました。