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水戸徳川家について

水戸徳川家の当主は全員、徳川家康の男系の直系子孫なんですか? もしそうなら、何故、水戸徳川家の当主は原則的に将軍候補にならなかったのでしょうか?

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  • oska2
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回答No.3

>水戸徳川家の当主は全員、徳川家康の男系の直系子孫なんですか? 直系(血筋)といえば、直系ですね。 二代藩主光圀には、兄の頼重がいました。 徳川頼房の兄(尾張藩主・紀伊藩主)には、未だ嫡男が誕生していなかったので「家臣に、水にしろ」と命じたのです。 が、家臣は忍びないと「内緒で育てた」のです。この子供が、頼重です。 光圀は、兄をさしおいて二代藩主になった事を気にしていたので「頼重の子供を、水戸3代目藩主」とします。 讃岐高松初代藩主の頼重は、「光圀の子供を、高松2代目藩主」とします。 以後幕末まで、水戸徳川家と高松松平家は(複数回)養子縁組関係が続きます。 ですから、家康の直系・血筋ですね。 >何故、水戸徳川家の当主は原則的に将軍候補にならなかったのでしょうか? 家康としては、「水戸家には、将軍後見職」を期待していたのでしよう。 尾張・紀伊家には「参勤交代」が義務付けられていますが、水戸家は「定府」です。 つまり、江戸に常駐していますよね。 この事が、「天下の副署軍」と揶揄されるのです。 ※副将軍という職種は、ありません。^^; 話がそれましたが、水戸藩の存在は「奥羽街道の守り」と「将軍後見」です。

noname#220701
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 水戸徳川家は頼房の三男、光國を除いては全員、綱方・綱條以来、頼房の長男、頼重の男系子孫みたいですね。 頼房は家康の十一男ですから、その息子光國(三男)・頼重(長男)は家康の孫ということですね。 ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • fujic-1990
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回答No.2

 幕府創設当初、御三家とは、将軍家、尾張家、紀伊家の3つで、水戸家は御三家の外だったそうです。  尾張家、紀伊家の極冠は従二位・大納言ですが、水戸家は従三位・中納言です。家格が違うんです。  禄高もごく少ないです(当初の表高わずか25万石)し、藩の位置も、西国大名が反乱を起こしたとき防波堤になると期待された2家とは違いますので重要性も違う。  初代頼房は、(途中が亡くなっているが正確には)家康の十一子で、家康が死ぬまで駿府にいた子供。  ※加賀前田家は、従三位・宰相なので、水戸家とさほど変わらない。後の御三卿も中納言。  藩祖がまだまだ天下を論じることのできない子だった水戸家は、員数外。もともと将軍家の後嗣が絶えたときに将軍を出す家として、期待されていなかったのです。もともと将軍を出す資格のない家、という立場だったから、将軍候補にならなかった、という理解でいいと思います。  やがて将軍家の権威づけのため「他家とは別格」とされ、その反動?で水戸家が御三家に仲間入りしたという話。江戸定府ということもあり、将軍の相談役として「副将軍」という肩書きが与えられた、という経緯のようです。  いまの「副総理」もそうですが、副将軍に特別な権限も権威もありません。

  • mshr1962
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回答No.1

>徳川家康の男系の直系子孫なんですか? 2代が光圀で、その子は継いでませんが、光圀の兄の子である綱條を養子にしてるので 実質、直系子孫になりますね。 >水戸徳川家の当主は原則的に将軍候補にならなかったのでしょうか? 4代家綱が実子なしで兄弟である綱吉が5代で、子供が夭折していたので 兄弟である綱重の子・家宣が6代になってます。 家宣の子・家継が実子なしになって、初めて御三家である紀州から8代目として吉宗ですね。 以降9,10代は実子で11代は、吉宗の子・宗尹(一橋)の孫・家斉が12代 13代が実子がなく紀州(吉宗の兄の直系)から養子・家茂が14代で実子なし 15代で一橋(水戸より養子)の慶喜です。 結果として、尾張も将軍職はでてません。 まあ、尾張(5男)・紀州(6男)が大納言、水戸(7男)は中納言なので 御三家とはいえ、格下ということもあるのでしょう。

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