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江戸時代の9代以降の将軍

江戸時代の9代以降の将軍は全員、8代将軍の男系子孫でしょうか? 8代将軍の徳川吉宗は小家康ともいわれるそうですが、 9代以降の将軍は全員、8代将軍吉宗の男系子孫なのでしょうか?

noname#222557
noname#222557
  • 歴史
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noname#227171
noname#227171
回答No.5

15代将軍 徳川慶喜だけが違います。 徳川家康の家系図(下記URL)をみればわかります。 http://history-land.com/ieyasu-familytree/

noname#222557
質問者

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御回答ありがとうございました。 http://history-land.com/ieyasu-familytree/ ↑このページがわかり易かったです。 ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • hue2011
  • ベストアンサー率38% (2800/7250)
回答No.4

ずっと吉宗の血が続いたのですが、13代家定が意図的に無理にそれを閉ざしたのです。 愚か者でないか、と噂された将軍です。 訪ねていくと庭で鶏と追っかけっ子をして遊んでいたり、豆を煎ったり煎餅を焼くのが好きで、七輪の前にいくと、将軍お手ずから煎餅をくれたりしたそうです。 まあ歴史家の見方でいうと、これは馬鹿を装っていたのだと言う判断が正しいところでしょう。 というのは、ペリーがやってきて将軍に会わせろといってごねたときに堂々と対応し、威厳はもっていたがたいそうな敬意を払い、この使節の主に対応したのがこの将軍だからです。 ただの馬鹿者であったら、緊張で何をしたかわかりませんし、不手際で日本の立場も危うくなった可能性がある。 そのときにきっちりやったのは、相当腹が座った人間だというしかありません。 馬鹿を装ったのは、毒殺とか不穏な空気が幕府の中にもたちこめていて、油断をさせないといつ敵の刃にかかるかわからなかったというのが事実でしょう。 さらにもうひとつ。側室はたったひとり持ったことがあるだけで、一切の女を寄せ付けなかった。 そのうち島津から送り込まれた姫を正室にしなければならなくなったので、寝床でげらげら笑ってふざけて夫婦のコトにはならないように図った。 ホンモノの馬鹿者なら、当然成人ですから性欲があるわけで、女のほうから飛び込んで来たらだらしないことになったかもしれないけど、タダの1度も夫婦関係を結ばなかった。 若いのにおそるべき自制心です。 この理由はあれこれ言われますが、一番なるほどと思ったのは山田風太郎説です。 あの人はあり得ない妖怪生物みたいな忍法帖なんかで有名ですけど、とにかく資料を良く調べ読み考えた人です。 彼の説は、11代将軍家斉12代将軍家慶のやってきたことをせき止める必要があると思った、ということです。 11代将軍は生涯に50人以上の子供をつくり、オットセイ将軍と呼ばれました。12代も26人だったか、とにかく人間わざと思えない数の子をなした。 もちろん生んだのは多量の側室たちです。 これで風太郎小説の中に書かれているのは、13代たる自分が、便所のなかでうぞうぞと動き回っているウジ虫のなかの1匹にすぎないのではないかと思う、ということです。 これを思うと自分は絶対に子供を作るべきではない。 そもそも初代は、子孫全員が自分と同じような決断力のある英雄だと考えていたのだろうか。そうだとすれば馬鹿じゃないか、と考える。 後に15代になる慶喜は、実際には14代の候補として周囲が推薦し、無理に嫁を送ってきた島津も下心でそれがあった。 阿部老中も当初はそう考えていた。優秀さがとびぬけているから。 だけど、家定は、水戸だけは絶対に嫌だった。 理由は、水戸烈公と呼ばれている当代がやっぱり20人ぐらいの子をつくり、慶喜は7番目だったかなんかなんです。 そういう家に生まれているなら子をつくることは何ともおもわないから、またオットセイ時代がくるかもしれない。 だから水戸だけはいやだ、と思ったのです。 ここまで、山田風太郎説です。 そこで、紀州から慶福というのを後継者14代に指名して死んでいったのです。これが家茂です。 この家茂が、幕末の明治維新騒ぎで京都で急死してしまったので、いちばん嫌っていた水戸一橋慶喜に15代が転がり込んだのです。

noname#222557
質問者

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御回答ありがとうございました。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.3

jwmad さん、こんばんは。 14代家茂まで血は続いています。 しかし、15代慶喜だけは一ツ橋家を継いでいますが、これは時の老中首座阿部正弘が水戸斉昭を懐柔しようとして彼の7番目の息子である彼を御三卿の一つ一ツ橋家の養子に迎えたのです。だから、吉宗の男系の子孫ではありません。

noname#222557
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.2

 いいえ。  第8代~第14代の将軍に関しては父方の親を遡って行けば第8代将軍の徳川吉宗に辿り着きますが、江戸幕府最後の将軍である第15代の徳川慶喜だけは違います。  徳川慶喜の実父は常陸水戸藩の第9代藩主であった徳川斉昭であり、 徳川斉昭の実父は常陸国水戸藩第7代藩主であった徳川治紀であり、 徳川治紀の実父は常陸国水戸藩第6代藩主であった徳川治保であり、 徳川治保の実父は常陸国水戸藩第5代藩主であった徳川宗翰であり、 徳川宗翰の実父は讃岐高松藩の第3代藩主であった松平頼豊であり、 松平頼豊は延宝8年閏8月20日(1680年10月12日)の生まれですから、貞享元年10月21日(1684年11月27日)生まれの徳川吉宗よりも前に生まれていますので、徳川吉宗の男系子孫ではありえません。 【参考URL】  徳川慶喜 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C  徳川吉宗 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97  松平頼豊 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E8%B1%8A  徳川将軍一覧 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7

noname#222557
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

  • f272
  • ベストアンサー率46% (8019/17138)
回答No.1

15代将軍慶喜以外はそのとおりですね。

noname#222557
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

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