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幕末の幕府財政。

noname#224207の回答

noname#224207
noname#224207
回答No.6

ご参考までに幕末の御用金調達実績を記載させて下さい。 天保14年(1843年)2500両以上(銀6万6364貫目650目) 割り当て応募対象:大坂堺兵庫西宮町人705人、 徴収目的:融通並に窮民賑恤 嘉永6年(1853年)11月銀2万5896貫200目 割り当て応募対象:大阪兵庫西宮町人、 徴収目的:海防費用、江戸城西ノ丸再建 将軍代替わり儀式費用、 償還方法は追って沙汰する。 嘉永7年(安政元年)(1854年)6月ないし9月29万3000余両、 割り当て応募対象:江戸町人1300余人、? 安政7年(万延元年)(1860年)1月、天保14年御用金高以上(銀6万8147貫目) 割り当て応募対象:大坂町人960余人 徴収目的:外国事件処理並びに本丸普請  償還方法、期限のいずれも明示なし。 手形、分割納入を認める。 元治元年(1864年)9月銀2万6095貫目、 割り当て応募対象:大坂町人104人、 目的:長州征伐軍資 長州征伐に伴う銀資金目的の徴収は以降も慶応元年、慶応元年5月、慶応2年4月、と立て続けに行われました。 最後の慶応2年4月は700万両(銀17万8784貫目) 割り当て応募対象:大坂兵庫西宮町人1108人、 同時期にフランスより600万ドルの借款が提案されたが、慶応三年に交渉を破談しました。 同時に江戸所内にあった御金蔵の黄金2万両を使い果たしました。 御用金は原則年利12.5%で償還されることになっていました。 幕末は償還が大幅に遅延していました。 明治維新の際に薩長主体の明治政府は継承せずに踏み倒しました。 結果として大阪を中心とした豪商は軒並み倒産しました。 明治政府は江戸幕府の債務を踏み倒す一方で、新政府の財源として、幕府の御用金と同様の徴収(300万両)を行いました。 明治2年に公債の形に変更しました。 幕府に対してはフランスが借款契約を申し入れましたが、薩長にはイギリスが同様の申し入れを行っていました。 万が一どちらかがフランスやイギリスの申し入れに従って借金していたら、後日中国のようになっていたでしょう。 この点については、幕府も薩長も矜持を貫き通しました。 薩長軍は軍票なる怪しげなものを発行しながら江戸へ進軍していました。 これも結局は踏み倒しました。 以上のように幕府財政が黒字であれば町人に頼るようなことはしてはいなかったでしょう。 注)割り当て対象に大阪商人が多いのは若干背景があります。 西国大名が年貢米を現金に変えていたのは、大阪でした。 この米を担保に莫大な借金をしていました。 薩摩藩は500万両余の借金をしていました。(明治に入り廃藩置県を理由に踏み倒しました) いわば、この大阪の米問屋が西国大名の資金源でした。 幕府は江戸蔵前の札差を使っていました。 市販の素人向けの書籍からの情報がお嫌いのようですので参考書籍は遠慮させていただきます。 幕府の勘定方の資料が国立国会図書館等にありますので、ご確認願います。

kouki-koureisya
質問者

お礼

丁寧なご回答真にありがとうございます。 「幕府財政が黒字であれば町人に頼るようなことはしてはいなかったでしょう」ということですが、まさに仰るとおりです。 文久期以降、幕府は田安・紀伊家に対して貸付金の返済を強く求めるなど、親類筋大名優遇策にも次第に制限を加えはじめていますから、ここまで財政は逼迫していた(というよりは大赤字)に違いありません。 しかし、これを乗り切る強力な手段が御用金である、ということですね。 私の勝手な解釈では、御用金は“政治献金”だと思います。 有力な商人は、幕府体制のお陰で莫大な富を集積でき、これだけの御用金を強制されても負担できる体力があったわけです。 いわば、彼ら豪商は体制側です。  体制を維持するための献金であり、幕府は、まだまだ信頼されていたと解釈しています。 >天保14年(1843年)2500両以上(銀6万6364貫目650目) これは、一人当たり2500両以上ですね。 総額、金にしておよそ102万両集めたそうです。 幕末の財政は一言で言えば“御用金財政”だと思いました。 幕閣はしたたか、徳川家のためには何でもやる、ということがよく分かりました。

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    どんどん弱体化してるし支持率は下がるし 今後、政権なんて無理だし 何で継続してるのか意味有るのですか。 今更いろいろ大臣を選び直したところでそんなの幕末の幕府の大老とか老中とかとたいして違わないんじゃないの。 幕府の重役になったところで無くなるのは時間の問題なんだし、無くなったら意味無いですよね。 沈むとわかった船にすがりついていても既に権威も何も無いんじゃないの。 倒産間違いなしの会社にも似てるよね。