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幕末の幕府財政。

iton624の回答

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  • iton624
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回答No.5

”幕府の財政が苦しかった”と言うのは現代の財政難とは趣が違う様に思います。 幕末は開国により輸出超過状態で、不平等な条約の為に不当な契約をすることも遠因となり、激しいインフレになっていますが、元々、当時の財政は現物の年貢米が基本ですから、インフレになってら米も値上がるので財政そのものが苦しいことはなかったと思います。 幾つかの回答にも有る様に金銀は豊富にありましたし。 江戸時代全般を通じても飢饉や大地震が発生したとき、財政の専門家が少ない事もあって何度か失政を行った時に激しいインフレになっています。又、収入を増やそうと米の生産量増やすと米価が下がるなど、色々と悩みは多かったでしょうが財政難とは無縁だっと思います。 言って見れば政府の買い物やインフラ整備も現物交換の様な物で、国債の発行も無く(江戸末期にそれらしき物もありますが、本格的に始まったのは明治以降)、莫大な借金を抱える公社や民間会社を救済する事も無く、財務省の役人や経済の専門家が居なくても回って行くシステムだったと言う事だと思います。 質問とは外れてしまいますが、財政難では無かったと思い回答を寄せさせて頂きました。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに今の日本のように国債発行でその場しのぎ、累積残高は気の遠くなるような厖大な額という状況とは異なりますね。 それに実際、賠償金をポンと支払って、さらに新産業を興し(製鉄所建設)、艦船を購入するなどして軍備を整えるという前向きな政治を行っているのですから。 >莫大な借金を抱える公社や民間会社を救済する事も無く、財務省の役人や経済の専門家が居なくても回って行くシステムだったと言う事だと思います。 「回って行くシステム」、なるほど!うまい表現です。 そんな見方もできますね。よく考えてみます。

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