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文久3年、将軍・家茂上洛の費用。
上洛の予算150万両に勝手方が異議を唱えたそうですが、実際には、帰路を船便にしたので100万両で済んだそうです。 幕末のこの時期、幕府の財政は逼迫していたと思っていましたが、これだけの大金を幕府は用意できたということになります。 どのようにして工面したのですか。 文久3年、御金蔵にはこの程度の余裕のカネがあったのですか。 「御用金」を集めたのであれば、誰が協力したのですか。 よろしくお願いします。
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「歳入で「上納金等=15万両」とありますが、御用金はこの中に含まれていますか。」 yesであり、noです。上納金は、冥加金や御用金が含まれますが、文久3年時点では大規模な御用金はありません。御用金は、献金と思われがちですが、借り上げ金で、低利であっても利息を付けて返却することをうたっています。実際は利息分を献金させたことにさせたり、元本自体も返さないこともありますが、半額強は返金されていたとされます。幕末では、安政7年(1860)1月(同年3月に万延に改元)に200万両強の御用金を大坂町人に課金しています。これは、外国との通商条約実施に伴う混乱対策と、前年の安政6年10月17日の江戸城本丸消失に伴う再建の費用ということで、課金しています。これ以降の御用金の賦課は、元治に入ってからで、蛤御門の変の後の、長州征伐に関するものになります。慶応2年の御用金については700万両という空前絶後の金額になります。ただ、これも天保小判で考えると230万両程度に落ちます。逆に言うと万延の改鋳が異常な率で改鋳したのか、経済・庶民生活に影響が大きかったかが分かると思います。 話は飛びますが、安政6年の6月2日に通商条約に基づいて開港されます。この時点で幕府は金銀比価の違いについて気が付いており、1ドルを銭1600文との交換率を決めていましたが、これにハリスが反対したので、開港前日の6月1日に従来の価値の1/3の新二朱銀を発行し、金銀比価を調整しようとします。貿易にだけこの新二朱銀を使用し、国内には従来の貨幣を流通させようとの施策(以前にあった中国の兌換元のような制度)なので、諸外国の抗議を受けて、6月22日に新二朱銀を廃止し、1ドルを一分銀3枚との交換を表明します。一時この一分銀の供給を制限していますが、8月の後半に洋銀から鋳造した一分銀が大量に供給されると、金貨の急激な流出が始まります。そして、10月17日の本丸御殿炎上を名目にして一分銀の供給を制限すると、金貨流出は峠を越え、翌年の安政7年1月20日に、天保小判1両を3両1分2朱と2月1日より見做し取引をすると布告することで、金貨流出は終わります。こと時点で幕府は貨幣改鋳についても言及しています。なお、従来金貨流出は100万両にも上り、日本経済に大打撃を与えたとの説が支配的でしたが、現在は10万両程度であり、経済に対する金貨流失の影響は軽微であり、その後の万延改鋳による影響が甚大であり、幕府崩壊にいたるものとされています。 つまり、安政7年1月の時点で、金銀比価の調整のための交換率の変更と貨幣改鋳方針の表明、御用金の賦課が同時進行していることになり、この政策が相互に連動していたことになります。前年の6月22日に新二朱銀が廃止された時点で、貨幣改鋳は必至の情勢であり、財政的にも、また改鋳を成功させるためにも、市中から回収するためにも御用金を改鋳(方針表明)以前に賦課上納する必然あったことになります(返金する場合、実質1/3の返済額で足りる)。そのため、改鋳の噂は早くから出回り、改鋳を見込んで小判を集めて利益を得た商人・大名があり、また、幕府は万延小判では出目を取らず(万延二分判は別)、天保小判1枚につき、万延小判3枚を引き換えています。 つぎに、文久3年3月4日(出発は2月13日)の家茂の上洛に関してですが、往路・復路ともに海路を通ることが計画されていました。これが往路を陸路としたのは、生麦事件の影響です。生麦事件は、上洛の前年文久2年8月21日に起った事件ですが、イギリスは日本の中央政権である幕府に、謝罪と賠償を要求しており、その交渉が文久3年早々に佳境に入り、幕府に圧力を掛けるためにイギリスは自国だけでなく、オランダ・アメリカ・フランスにも呼びかけ、艦隊を横浜に入港させます(江戸湾に入ること=江戸を威嚇)。その情報は事前に幕府にも入り、そのため、海路上洛は危険と判断され、急遽陸路に変更されたとされます。なお、この時の所要日数は往路の陸路は22日。復路の海路は3日となっています。 別件ですが「武家」について、山川出版の高校日本史の教科書の『詳説 日本史B』には、「(貴族政治と国風文化の章の中の)地方政治の展開と武士」で、「武家(軍事貴族)」と定義しています。後代を含め詳しくは、該当の質問に追記の形で投稿いたします。 お礼をありがとうございます。痛み入ります。 現在のOKWaveでは、システムが変更になったようで、お礼・補足が自動的に転送されないようで、再度のご質問に気づきませんで、回答が遅くなりました。御用金についてですが、時代劇であるようにのべつ賦課されるものではないようです。ただ、御用商人による万両単位の立替は多いようですが。
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- fumkum
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お礼文、誠に痛み入ります。 さて、少々前の話になりますが、ペリーが再度日本に来て、日米友好和親条約を結び、開国したことについて、水戸の徳川斉昭は、その手紙の中で、もし条約を結ばない場合、アメリカ艦隊が江戸を艦砲射撃し、江戸の町、江戸城が焼け落ちる可能性があり、そのためにやむなく条約を締結したとしています。日本と欧米の軍事力の差が大きいことが基本的な背景にあることですが、アヘン戦争などの情報を斉昭をはじめ幕府首脳はよく認識していたということだと思います。教科書などには、「幕府はその(7隻艦隊)威力に屈して」とありますが、その威力の内容は艦砲射撃ということになります。このようにイギリスをはじめとする艦隊が江戸湾に入ることは、現在の我々が想像する以上な軍事的なプレゼンスがあったということになります。 武家の件について、現在の高校の教科書は、平成25年度より学年進行で実施された学習指導要領に基づくものですが、平成15(2007)年度より学年進行で実施された学習指導要領に基づく日本史の教科書にも、「武家(軍事貴族)」と出ています。もっとも、教科書は学習指導要領の実施期間中に、最初の新訂版から、ニ訂版、三訂版と小改訂があるのが普通ですが、日本史は研究成果などにより、小改訂の範囲を超えるような改訂が行われることがあります。この内の前回の指導要領に基づくものは、三訂版しか手持ちにないのですが、そこには、「中央貴族の血筋を引く清和源氏や桓武平氏は、地方武士を広く組織して武家(軍事貴族)を形成し、大きな勢力をきずくようになった。」とあります。現在の教科書は、「彼ら(地方の武士団)はやがて中央貴族の血筋を引く清和源氏や(軍事貴族)を棟梁と仰ぐようになり、その結果、源平両氏は地方武士団を広く組織した武家(軍事貴族)を形成して、大きな勢力を築くようになった。」としています(両方とも山川出版の詳説日本史B)。 このように、日本史の記述については、小改訂といえども、変化が大きいことがあり、できれば最新の高校教科書をお持ちになると良いのではと思います。それも、山川出版社の『詳説 日本史B』をお勧めします。四月を過ぎると教科書の在庫が極端に減りますので、今の内に書店で相談されればと思います。また、ネットでも「山川出版社 詳説日本史B 教科書」などのキーワードで検索をかけるとヒットします。購入される時に、同じような教科書があり、間違いやすいのですが、教科書番号「日B301」で確認されると間違いはなくなります。この番号は教科書の表紙の左上に小さく記載されています。 なお、武家についての詳細は、該当の質問に新年に追記させていただきます。 http://www.saiyasu-navi.net/J9784634010437.html 以上、参考まで。
お礼
何度もご回答ありがとうございます。 教科書もアマゾンで買えるとは知りませんでした。 確かに左上に「日本史B」「山川、日B584」とあります。 近くの古本ショップものぞいて見ます。 そう言えば昔は、古書店に卒業生が売ったと思われる参考書や専門科目の教科書が並んでいました。 アヘン戦争における「艦砲射撃」の破壊力を幕府首脳は知っていたということですね。 「オランダ風説書」で調べますと、アヘン戦争についてとくに詳細に報告された「別段風説書」というのもあるのですね。 勉強になりました。 来年もよろしくお願いします。 よいお年を。
- ithi
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kouki-koureisya さん、こんにちは。 たぶん、三井や住友の豪商あたりから証文で借金を申し込んでいると思います。それだけ、幕府の権力や権威は絶対だったと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 文久3年3月の上洛に限って言えば、多額の御用金を集めねばならない事情はなかったようです。 しかし、幕末と呼ぶ何十年間かには、三井や住友の豪商あたりが多額の御用金の要請に応じたことがあったでしょうから追々調べてみます。
- fumkum
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こんにちは 基本的には出目です。万延からの貨幣改鋳による利益である出目が、家茂の上洛を支えたことになります。文久3年については、幕府の財政収支が研究されており、下記のようになっています。 『米方=155万両』 年貢米=56万石(132万両) 買上米等=10万石(23万両) 『金・銀方=694万両』 年貢金=96万両 上納金等=15万両 大名手伝金=10万両 貸付返納=16万両 奥金蔵出金=30万両 その他=2万両 貨幣改鋳利益金=366万両 貨幣改鋳納金=159万両 『洋銀=57万両』 海関税=50万ドル(50万両) その他=7万ドル(7万両) 総計=906万両 貨幣改鋳関係の歳入が525万両で、全体の58%弱を占めます。これに関税関係の57万両を加えると582万両で、全体の64%強という大変な数値になります。 ちなみに歳出は次の通りです。 『米方=154万両』 旗本・御家人=47万石(110万両) 遠国入用等=19万石(44万両) 『金・銀方=704万両』 旗本・御家人=79万両 奥向経費=12万両 役所費=64万両 修復費=26万両 米・木材買上=46万両 禁裏・大名へ=76万両 諸貸付金=50万両 将軍上洛費用=86万両 船舶・武器=47万両 その他=13万両 貨幣改鋳渡銀=205万両 『洋銀=107万両』 外国船買上=76万ドル(76万両) 一分銀吹等=31万ドル(31万両) 総計=965万両 近代国家ではないので収支が合いませんが、貨幣改鋳関係の収入が525万両、支出が貨幣改鋳渡銀と一分銀吹等の合計236万両、差引289万両のプラスということになります。この貨幣改鋳ですが、通商条約にもとづく開港・貿易開始により、日本と外国の金銀比価の違いによる金貨の流出防止のために、万延元(1860)年4月10日より従来の1/3弱の重さの万延小判をはじめとする貨幣が改鋳されます。その中でも万延二分判(金)は、金貨でありながら、金は22%で残りは銀という金貨で、貿易輸出超過で、横浜にだぶついた洋銀を幕府が買上、それを原料として鋳造したとされます。明治2(1869)年までにの9年間(実質8年)に、5000万両相当もの万延二分判が鋳造されたとされます。ただ、量目的に金貨に値しない名目貨幣であったため、幕府の威信低下もあり、雄藩などの大名家などにより偽造されたものも多いとされる、いわくつきの金貨です。 なお、関税収入についても幕末の8年間で454万ドル(454万両)あったとされ、年におよそ55万両もの収入ということになります。 ともかく、元禄期以降例外はあったにしても、貨幣改鋳益は幕府財政を潤していたことが判明しています。また、文久3年の収支、特に歳入を見ても、年貢などの封建的な収入が、3割強程度しかなく、財政面でも幕府が変質していることがわかります。安政・文久・慶応の幕政改革を、幕末の三大改革と言いますが、雄藩に立ち遅れたとは言いながら、同じような改革を幕府は実施しようとします。しかし、開国後の国内外の情勢の変化と、残された時間、幕府の威信の低下、制度疲労などが重なり、改革の成果が不十分な中で幕府瓦解に至ったとも言えます。 万延小判 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%BB%B6%E5%B0%8F%E5%88%A4#.E4.B8.87.E5.BB.B6.E4.B8.80.E5.88.86.E5.88.A4 万延二分判 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%88%86%E9%87%91#.E4.B8.87.E5.BB.B6.E4.BA.8C.E5.88.86.E5.88.A4 以上、参考まで。
お礼
ご回答ありがとうございます。 いつものことですが、散歩しながらボーッと家茂上洛の様子を想像していました。 3千人もの行列が4月初旬、大井川を渡ったので、川越人足は何回も往復して寒かっただろうとか、寒いときや増水時は割り増し賃がいったのだろうとか、馬も江戸から京まで歩き通したのだろうとか、 つまらぬことばかり想像していました。 京の滞在費は、銀貨で支払う方が多かっただろうとか、小銭が沢山要っただろうとか、小銭にした百万両の重さとか…。 さて、本題に戻ります。 要するに幕府は、いつでも必要とする量の通貨を作り出せることができるので、財政難であっても改鋳することによって財政危機を乗り切ってきたという構図なんですね。 家茂の上洛も「万延からの貨幣改鋳による利益である出目が、家茂の上洛を支えた」ということですね。 教科書で「天保の改鋳」は知っていましたが「万延小判」は載っていないので知りませんでした。 昨年8月にも類似の質問をしたときCiNii「元治期の幕府財政/飯島千秋」 『横浜商大論集 1988-12-10』を教えてもらっていました。 この論文の他に、文久期の幕府財政に関する論文があるのですが、タダで読むことができませんでした。 今回、詳しく数値で回答して下さったので、よく解りました。 ただし、個々の項目についてはよく分かりませんが、追々調べてみます。 と、ここまで書きましたが、厚かましいお願いですが一つだけ教えてください。 歳入で「上納金等=15万両」とありますが、御用金はこの中に含まれていますか。 最初の上洛のために御用金を集めたのか、商人が自主的にカンパしたのか、大々的に集めた様子はないようですが、気になっています。 よろしくお願いします。 『金・銀方=694万両』 年貢金=96万両 上納金等=15万両
- okosama-lunch
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文久3年(1863)のときは分かりませんが、元治2年(1865)年の上洛の費用については、神社仏閣・百姓にたかったことがはっきりとわかります。 その実例をご紹介します。 相模国鎌倉郡公田村(現在の神奈川県横浜市栄区)名主のS家に残る文書に、現代でいう回覧板の写し集(御用留)があるのですが、そこから、御進発の御用途(長州征伐費用)として、村々に、また寺社奉行ルートで神社仏閣に、回りくどい恩着せがましい依頼がされたことがわかります。 寺社へは少なくとも3回は通達がされているよう(ということは、非協力の寺社が多かったのかもしれませんね。)すが、それ以上は分かりません。 さらにその記録から、公田村からは、結局名主の27両を筆頭に31名で、合計102両2朱、近隣18ケ村で合計2千両が献納されたことが分かります。 面白いというか馬鹿にしているか、幕府(むろんその出先機関からでしょうが)から朱(1両の16分の1の単位)の単位までは「見苦しい」ので要らないとケチが付けられています。 幕府にとっては端金(はしたがね)は無用とは思いますが、端金を納めざるをえない百姓の立場からすれば頭にきますね。 東海道筋の百姓にとっては、さらに助郷(人馬による輸送)に駆り出され、秣や草鞋の供出を命じられ、ときあたかも陰暦5月田植えの繁忙期、踏んだり蹴ったりであったと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 大口の御用金は、検索すればすぐに見つかりますが、 「相模国鎌倉郡公田村」という農村?の具体的な事例は大いに参考になります。 >面白いというか馬鹿にしているか、幕府(むろんその出先機関からでしょうが)から朱(1両の16分の1の単位)の単位までは「見苦しい」ので要らないとケチが付けられています。 武士の姿が目に見えるようで、実感があります。
- eroero4649
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国家がお金を用意することそのものは例えいくらであっても可能です。国家には通貨発行権がありますからね。1兆円でも10兆円でも必要ならお金を刷って刷って刷りまくればいいのです。そんで天文学的に桁が増えたので有名なのが昔のドイツやこないだのジンバブエドルだったわけです。もちろんこんなことをすればハイパーインフレが起きて国民生活と国家財政は事実上破たんしますけどね。 だから、150万両必要なら、150万両発行してしまえばそれは「賄える」ということになります。しかし問題がひとつあります。当時は金なり銀なり元となる希少価値がある金属がないといかんということです。だから幕府が持ち合わせる金や銀の量以上には通貨は発行できません。 しかし頭のいいことを考えた人がいます。「混ぜものをすりゃいいじゃないか」と。当時は小判1両が1分銀4枚つまり4分で1両というレートがありました。だから1分銀4枚に含まれる銀の量は、小判1枚分に含まれる金の価値と等価であるべきなのが本来です。しかし、1分銀3枚分の量の銀で1分銀4枚を作ったら、かつての1分銀1枚分の儲けが出ます。 通常は国際レートで価値が下がります。日銀が円をじゃぶじゃぶ刷ったらドルレートで円安になるのも同じことですね。でも当時の日本は鎖国で閉鎖された市場だったので、そういうゴマカシが表面化しません。この文字通りの「錬金術」で江戸幕府は財政問題を大きく改善することができました。これが天保銀てやつです。昔はデキの悪いやつに対して「あいつは天保銭だ」という言葉がありましたが、天保時代は通貨の改鋳が行われて、ま、要するに質の悪いお金を大量に市中にばら撒いて力技で例の天保の飢饉を乗り越えたのです。そう、黒田バズーカと同じことです。 こんな資料があります。 http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-7af5.html このページの真ん中あたりに幕府の歳入の円グラフがあります。これを見て分かるように、歳入における年貢の割合というのは意外にも25~40%程度です。たぶん年貢による歳入は御家人への給料でほぼなくなっていたと思います。ただ江戸城には本来は戦時(籠城)用の備蓄米というのが用意されていました。けどこれは江戸で大火事や地震や洪水などの災害が発生すると被災者になんと無料(!)で解放されていたので、現代でいうなら「災害対策準備金」というところですね。 「貨幣改鋳益金」というのが、前述の通貨に混ぜ物を入れることによる利益です。結構な割合ですね・笑。そして結構な額の「御用金・上納金」があります。これは各藩から差し出させたり、商人から「借金」という名目で集めたお金です。 そうです。幕府のもうひとつの収入元がこの「御用金」です。商人から無理やり金を用意させたのです。ただ、江戸時代の豪商っていうのはもうアラブの石油王かというくらいにスケールが違います。というのも、当時は事業税っていうのはなかったのです。儲けたら、儲けた分だけ商人の儲けになるのです。だから儲かれば儲けるほど、儲かるのです。大阪の豪商鴻池家は、なんと天井を全面ガラス張りにしてそこに金魚を泳がせて来客を楽しませたそうです。スケールが違いますな。しかも何がすごいって、幕府はその鴻池家を「その贅沢目に余り不届千万」という理由で取り潰して財産を没収しちゃうのです。いや私は中国の話をしてるんじゃないですよ。 文久3年の家茂の上洛活動に関しては、「結構な数の商人が御用金を用意させられた」「そのせいで破綻した家もあった」なんて伝わりますが、幕府も「あの家を潰した」「この家を潰した」なんて記録に残しませんから、どのくらいひでーめに遭った人たちがいるかはもう分かりません。江戸時代初期の幕府の重臣の言葉で「商人てやつは、人が作ったものを右から左に運ぶだけなのにそれで金をとる汚らわしいやつらだ」ってのがあるのですが、たぶんそれは当時の武士の商人に対する一般的な見解だったのではないかなと思うのです。ヨーロッパでも中世から近世にかけて金融業をやっていたユダヤ人は現代に繋がる大儲けをした一方、しばしば理不尽な理由で財産を没収されています。「ベニスの商人」のシャイロックも、一応悪役って役回りですがよく考えたらほとんど詐欺被害者みたいなものですよね。金だけまんまと取られたんですから。 また武士は今書きましたように「お金を運用する」ってことそのものが「汚らわしい」と考えていたので、資産運用とか財政をどう収支をプラスにするかなんてのはまったく興味がなかったので、その会計に関してはかなりテキトーというか、いい加減というか、そんなもんです。 でもそれは当時の幕府役人に限った話ではなく、歴史好きは概ね算数が苦手な人が多いので、「財政(経済)からの視点」というのはほとんど語られることはありません。また面白いことに、経済学に興味がある人というのは、これまた不思議と終わったこと(歴史)にはほとんど興味を持たないのです。経済学をやる人が経済史を研究するのは、あくまで「未来の予測のため」なんですね。最も、経済学者の予想なんてのはその辺のオヤジの競馬の予想よりアテにならないですから、外れた予言をいちいち蒸し返されたくないから過去には無頓着なのかもしれません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 参考URL「AJER日本経済復活の会」を見ました。 この記事の基資料は、記事の中にあるように横浜商大論集(1998-03-01) 「江戸幕府貯蓄金銀と蓮池御金蔵」ですが、この論文は読んでいました。 天保の改鋳による益金は莫大ですが、家茂上洛の画策時(文久2年)の10年も前のことです。 そこで文久3年の上洛費用について質問しました。 この論文によれば、文久元年(1861)奥御金蔵の金銀保有高は約60万両です。文久2年のことは不明です。文久3年と元治元年合わせておよそ58万5千両余が支出されるから、慶応期にはほとんど皆無に近い状態となった、と説明されています。 この御金蔵の金銀を元にして文久3年と元治元年に改鋳して上洛で費やした費用を補填したのでしょうが、上洛の出発は2月ですから、実際の支払いをどうしたのだろうか、という疑問です。 金蔵にある保有金銀や小判で即座に調達できたのか、現金(小判だけではなく“小銭”が大量に必要) が不足して借金したのであれば、何かの記録があるのでしょうか、という疑問です。 どんな名目で借金したのだろうか、という興味もあります。 元治元年の長州征討は「朝敵を討つ」という名目で「御用金」を集めたそうで、#4のご回答にあるように記録もあります。 幕府は、大坂城にも金蔵を持っていましたから、これらを合わせると大金を生み出すことは可能で、 「この文字通りの錬金術で江戸幕府は財政問題を大きく改善することができました」とおっしゃることは、よく分かりました。
- oska2
- ベストアンサー率44% (2309/5138)
>これだけの大金を幕府は用意できたということになります。 実は、用意できたのです。 財政難と言っても、いまの自民・創価学会連立政権時代と同じで「国家予算は、毎年増えて」います。 大奥の年間費用は、幕府収入の約10%です。 家斉時代で、約20万両を使っています。 国民が餓死しようが百姓一揆が起きようが、幕府財政には変化はありません。 >どのようにして工面したのですか。 幕府の収入確保の原則は・・・。 「百姓は、死なない様に貯めない様に支配しろ」 「胡麻の油と国民は、絞れば絞る程よく採れる」 昔も今も、税金の取り立て基本は変わっていませんね。^^; >文久3年、御金蔵にはこの程度の余裕のカネがあったのですか。 残念ながら、御金蔵には「カネは無い」のです。 幕府には、予算と言う概念がありませんでした。 「年貢・税金がいくらだから、支出をいくらにしよう」という概念は、ありません。 「金蔵が空になっても、秋には年貢米が入る」 まぁ、江戸っ子も幕府も「宵越しのカネは持たない」のです。 これだけが、財政管理。 ただ、幕府直轄地からの年貢。江戸・京都・伏見・奈良・堺・大坂・長崎といった主要都市からの上納金。佐渡・石見・生野の金銀鉱山からの金銀。 想像以上に、収入は安定したのですね。 幕末には、4011766両もの大金が幕府に存在していたのですね。 皇室料が、100000両ですから幕府の財政規模が理解できるでしよう。 但し、江戸城明け渡しの時に「金蔵は空」だったと伝わっていますよね。 この現実が、徳川の埋蔵金伝説になっているのです。 「宵越しの金は持たない」 御金蔵は、いつも「空」?
お礼
ご回答ありがとうございます。 >幕末には、4011766両もの大金が幕府に存在していたのですね。 そんなに大金があったのですか!! 幕末と言っても、具体的にいつ頃のことですか。 文久2、3年にそれだけのカネがあれば、勝手方が費用面で異議を唱えることはないと思うのですが…。 それとも、私が何かの資料で読んで、質問に書いた「異議を唱えた」ということが間違いだったのかも知れません。
- hamazo2004
- ベストアンサー率27% (292/1068)
このような質問は大変勉強になります。回答にはなっていないかもしれませんが、私見として、当時と戦後および今の状況から、基本的に今も昔も幕府の支払いは現金とは限らないと思います。恐らく国債のようなもので、御用金を集めたと思います。なぜなら幕府の手元の現金は来たるべき内戦に備えて使うわけには行きません。その後数年で幕府は崩壊します。いずれにしても、今となっては戦後の状況と同じく誰が誰に出したかは難しいと思います。しいて言えば幕府の無理な上京の行使が、いろいろと幕府への信頼感を失う結果になったと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 御用金を集めたにしても「今となっては戦後の状況と同じく誰が誰に出したかは難しい」でしょうね。 それを承知で無理難題の質問をしているのですが、「質問魔」の私のこれまでの経験では、歴史に詳しい方々からいつも満足な回答を得ています。 今回も楽しみです。
お礼
再度のご回答真にありがとうございます。 「上納金等=15万両」に御用金が含まれているのか、否かについては、「yesでもありnoでもある」と言える理由はよく分かりました。 御用金は献金ではなく借金だと分かっていても、いろいろ想像を巡らしていると、強引に取り立てる献金だとつい思ってしまいます。 幕末を題材とした小説の強烈な印象だと思います。 質問の主意は、最初の家茂上洛に際して御用金を集めたのか、という疑問でしたが、「文久3年時点では大規模な御用金はありません。」ということですね。 幕末における御用金では、安政7年(1860)1月(同年3月に万延に改元)に200万両強を大坂町人に、また元治・慶応年間には長州征討という名目で莫大な額をあつめている、ということですね。 >なお、従来金貨流出は100万両にも上り、日本経済に大打撃を与えたとの説が支配的でしたが、現在は10万両程度であり、経済に対する金貨流失の影響は軽微であり、その後の万延改鋳による影響が甚大であり、幕府崩壊にいたるものとされています。 経済のことはよく分かりません。 佐藤雅美著『大君の通貨-幕末の「円ドル」戦争-』をずっと以前に読んだのですが、不消化のままです。 教科書を開いてみますと、 「日本と外国との金銀比価がちがったため、多量の金貨が一時海外に流出した。幕府は金貨の品質を大はばに引き下げる改鋳(万延貨幣改鋳)によってこれをふせいだが、貨幣の実質価値が下がったので物価上昇に拍車をかけることになり、庶民の生活は圧迫された。」とあります。 そして、脚注には、「10万両以上の金貨が流出した」とあります。 教科書には、万延の改鋳に関してさらっと書いていますが、幕末の政治・経済・外交を考えるときはこの改鋳がきわめて重要だと理解できました。 先のご回答のお礼欄に「万延の改鋳」については、教科書に言及なしと書きましたが、私の見落としでした。 よく分かりませんが、金銀比価を今の為替レートだとすれば、幕府の役人も「なかなかしたたかに交渉してよくやった」という評価になるのでしょうか。 じっくりと考えてみます。 >その情報は事前に幕府にも入り、そのため、海路上洛は危険と判断され、急遽陸路に変更されたとされます。 冬の海は荒れるからという単純な理由だと思っていました。 広い視野に立って考えるべし、ということですね。 >別件ですが「武家」について、山川出版の高校日本史の教科書の『詳説 日本史B』には、「(貴族政治と国風文化の章の中の)地方政治の展開と武士」で、「武家(軍事貴族)」と定義しています。後代を含め詳しくは、該当の質問に追記の形で投稿いたします。 手元のは1993年3月発行ですが、「(貴族政治と国風文化の章の中の)地方政治の展開と武士」は、ありません。 やはりもっと新しい版のものを見なければならないですね。 質問は締め切っていますが、追記できるのでしょうか。 もし可能であるのなら、厚かましいお願いですが、お待ちしていますのでよろしくお願いします。 懇切丁寧に教えてくださったので、家持上洛の背景までもよく解りました。 今回もすっきりしました。 年末の気忙しい時期にも拘らず、厚かましい追加の質問に快く応じて下さったこと、心より感謝申し上げます。