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将軍家

時代劇を観ていて疑問に思っていたのですが、無知な質問ですいません。 昔、日本の中心は江戸または京でしたが水戸黄門の水戸光圀は水戸で茨城、暴れん坊将軍の徳川吉宗は紀州和歌山ですがなぜ将軍が江戸や京都にいないのでしょうか?

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  • liar_adan
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回答No.3

徳川吉宗については皆さんの言った通りです。 水戸光圀についてちょっと説明します。 通常の大名は、「参勤交代」(歴史で習ったと思います)によって 江戸と国元を往復していました。 ところが、水戸を収めている水戸徳川家(これも大名のひとつ)は、 徳川家康の血筋でもあり、江戸と水戸が近いということもあって、 当主は、参勤交代を行わずに、ずっと江戸にいました。 正式には「副将軍」という役職はないのですが、 水戸家は大名の中でもえらい家柄であって、 しかもずっと江戸にいて将軍を補佐したことが、 のちの創作において「副将軍」と呼ばれる理由になりました。 で、水戸光圀も、在職中はずっと江戸にいました。 かれが水戸に引っ込むのは、63才で隠居してからです。 史実の水戸光圀がした旅は、 鎌倉と東照宮に行ったのと、江戸と水戸の行き帰り ぐらいだったと言われています。

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noname#113260
noname#113260
回答No.4

徳川将軍の場合、初代家康は三河(愛知県東部)の豪族から関東の大名になり江戸に幕府を開きました。 2代秀忠はその息子で、3代家光は「生まれながらの将軍」といわれるように、江戸っ子でした。 4代家綱はその長男ですから江戸の人間、5代綱吉(弟)は館林藩主ですから群馬県人、6代家宣(甥)は甲府藩主ですから山梨県、7代家継は江戸っ子、8代吉宗は越前丹生郡3万石から和歌山藩主を経て将軍ですから福井県人とも和歌山県人とも。 この後暫くは江戸っ子将軍が続き、14代家茂は和歌山、15代慶喜が水戸で終わります。 勿論領地を貰っても自分は直接お国入りせず、代官に支配を任せている方もいるので、歴代の将軍がお国訛を話したかどうかは不明ですが、6代家宣までは藩主が将軍の後継ぎになると江戸城2の丸に入って藩を返上するのが一般的でした。 和歌山藩も吉宗が将軍として江戸城に入ると、彼の子供も全て江戸に去り、従兄弟の伊予西條藩主が和歌山藩主となります。 まとめますと、将軍に嫡男がいない場合は親戚から養子を貰い、江戸城2の丸に住みます。 そして将軍がなくなると養子が2の丸から本丸に移り、将軍に就任します。 逆に死ぬ前に引退した将軍もいますが、初代家康が駿河に隠棲したのを除けば、概ね住居を交換し、2の丸で「大御所」と呼ばれて隠居生活に入ります。 11代家斉は城内一橋館から将軍になりますが。

  • keiji29
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回答No.2

江戸時代つまり徳川幕府においては、将軍は江戸城に住んでいましたよ。 徳川吉宗は、紀州和歌山の紀州徳川家の出身で、吉宗の前の将軍に世継ぎ(跡継ぎ)がいなかったため、御三家(紀州徳川家、水戸徳川家、尾張徳川家のこと)の殿様たちの中から選ばれたのです。 ちなみに水戸光圀(水戸の黄門様)は副将軍であって、将軍ではないので、水戸徳川家の殿様であり、かつ幕府の副将軍という役職に就いていたのです。

回答No.1

水戸光圀 「将軍」ではなく「副将軍」。しかも「副将軍」という役職はなく、創作。 徳川吉宗 将軍職に就いた時点で江戸城に。

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