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幕末の幕府財政。

dayoneの回答

  • dayone
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回答No.4

やや頁数が多いですが、 下記などから当時の状況がある程度は掴めるように思います。 〇「元治期の幕府財政/飯島千秋」 『横浜商大論集 22(1)/1988-12-10』(49-105頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110005999860 〇「江戸幕府貯蓄金銀と蓮池御金蔵/飯島千秋」 『横浜商大論集 31(1/2)/横浜商科大学/1998-03-01』(31-94頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110005999961 既読なら笑って許して下さい^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「元治期の幕府財政」は、一応拾い読みしていました。 ちょっと古いのとそれに文久年間の様子を知りたかったので、 飯島千秋著『江戸幕府財政の研究』(2004年刊)を読みたいと思ったのですが、あいにく市の図書館にはありませんでした。 今回この論文「元治期の幕府財政」をしっかり読んだので、その一部を書いておきます。(後日、私自身が読むときの参考) 1.文久期の厖大な諸支出を賄う手段は貨幣改鋳であり、それによってもたらされる益金であった。 2.すくなくとも慶応2年頃までは、改鋳益金に収入の大きな部分を依存するという、それまでの財政の枠組みが堅持され、機能していたとみられる。 3.文久3年に幕府は、オランダからの蒸気船購入代金62万4000ドルを4回に分けて長崎での外国船からの取立税銀のうちから支払うことにした。長崎だけの税銀では不足するので神奈川・函館両港の税銀かあるいは金蔵金のいずれかから充てることにした。 4.文久期幕府財政においては、「年貢収入にもとづいて、直臣団の切米役料と江戸城奥向および諸役所経費を支出するという定式部分は一応機能している」こと、「年貢収納は限界に達しており」・「財政収支のバランスは、貨幣改鋳の利益金によって辛うじて維持されていた」そして「文久期の幕府財政は、まさに崩壊前夜の様相を示している」 5.元治元年は、90万両をこえた上洛・長州征伐費、50万両に達した朝廷関係費、30万両に及んだ常野州賊徒追討費なども、443万両余の改鋳益金でなんとか賄われたのである。 「江戸幕府貯蓄金銀と蓮池御金蔵」は、大変参考になりました。 奥御金蔵の金銀は、天保13年(1842)には、488,000両(銀も両に換算して)、金分銅11個、銀分銅29個とあります。 文久元年(1861)には、608,000両(内、金558,000両)で、金分銅、銀分銅は不明です。 そして、文久3年、元治元年(1864)に合わせておよそ585,000両余支出されたと推定されるから、慶応期にはほとんど皆無に近い状態となった、とあります。 私の疑問は、(文久期)賠償金や艦船購入費用、長崎製鉄所他の建設費用などはどのように工面したのですか、という質問です。 そんな賠償金をポンと支払って、さらに艦船を購入したり、製鉄所を建設したりする余裕があったのか、それともどんな手段で工面したのか、という疑問でした。 幕府はこの時期、大金を未だ保有していたことが分かりました。 貨幣改鋳の益金の莫大さもよく分かりました。 正直、質問のタイトル「幕末の幕府財政」は、大きすぎました。 私のレベルでは重過ぎます。 もっと単純に「賠償金を即金で支払っていますが、どのような工面をしたのか」くらいにしておくべきでした。 お礼を書こうとしても自分の考えをまとめ切れません。

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