仏教の地獄絵図とは?優しいお顔の大仏様も容認している?

このQ&Aのポイント
  • 仏教の地獄絵図には、餓鬼が赤鬼によって苦しめられる描写があります。
  • 地獄絵図では、悪いことをすると苦しみに落ちるという教えが表現されています。
  • しかし、この地獄の世界を容認する仏教の理念や思想について、質問者は疑問を感じています。
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仏教の地獄絵図

宗教にあまり詳しくない者です。文章も下手くそですみません。以前から気になってたもので。 一般的に人間社会において(少なくとも日本では)体罰や暴力は良しとされてません。 話の論点が違いますが地獄絵図には痩せ細った餓鬼が赤鬼に金棒で殴られ、煮えたぎった釜に入れられ、針の山を歩かされ想像を絶する苦しみのうちにあの世で死んでもまた復活し同じ苦しみを与え続けられるといいます(住職の坊さんはこんなようなことを言ってたと思います) 悪いこと、人の道に背くことをするとそこに落ちる、という教えは大変よく分かります。 しかしそうした【暴力や恐怖心】で人の生きる道、すなわち道徳感や価値観を操作する教え、という仏教の理念?や思想?が今だに信じられません。 仏教に対し勉強不足でバチ当たりかもしれませんが、あの優しいお顔をされた大仏様もそういった地獄の世界を容認してると思うと拝む気にもなれません。 そういった意味では言葉は悪いですが、恐怖政治となんら変わらない気もします。 どうすれば仏教を慕い、崇拝する気になれるでしょうか?教えてください。

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回答No.4

こんな事を頭から信じる事は如何かと私は思います。私達も幼い頃母親から仏教の話を楽しく面白く聞かされましたが、日本に仏教伝来して、同時に何奥万という仏典が入って来ました。これを一般の衆生に分かりやすく解き明かすために、お念仏の僧によって物語が作られた。閻魔様がいて舌を切られるとか、今言われる地獄図もそうです。西方極楽浄土とか、私達の宗派はそんな事は言いませんし、そんな教えはありません。これは少しでもお念仏に興味を抱くように造られた話で、つまりは衆生の為の方便なのです。またお念仏では「女人不成仏」と言って女性は成仏出来ないとの教えです。又「大仏様を拝む?」、これも仏典の中の登場人物で、実際にこの世に御出現され人々を救ったというものでは無く、アニメの登場人物と同じで拝んで見たとて何ら意味なしです。宗教にも正邪がある事をお忘れなく、。

tenpuruo-m
質問者

お礼

なるほどです。大変参考になりました。 ご回答ありがとうさまです!

その他の回答 (5)

  • a_hona
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回答No.6

私の聴いたところでは、地獄というのは、紛争や飢餓などで苦しんでいる国の事で、現実にある場所です。 悪しきカルマ(例えば人を迷わせたり、正しい道から逸らしたりすること)を作ってしまうと、死してのちその様な悪い場所に生まれてしまうそうです。 仏の教えは、自分を含めて、誰一人として人を悲しませないということだそうです。 これは、人を喜ばせるよりも難しいことです。 また、真実のやさしさを追求することが、その道の歩みだそうです。 この様に聴くと、仏の教えを敬おうという気になるのではないでしょうか。

tenpuruo-m
質問者

お礼

なんとなく綺麗な心になりました。 回答ありがとうさまです。

  • tomban
  • ベストアンサー率26% (2616/9772)
回答No.5

宗派によって若干ニュアンスは異なりますが、地獄というのは「六道」でいうところの「地獄道」です。 一番恐ろしい場所ですよね。 それで「六道」というのは天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道とあるわけです。 そして、元々これらは「地獄という場所」に「赴く」という意味ではなく「その人ごとの心の状態」を示しているわけです。 その人が天上にいるような、満ち足りた気分だけの世界なら、そこが「天上道」であり、針山を歩き、鬼に叩き続けられ、火の鍋に延々焼かれているようなら、それが「地獄道」だ、という考え方です。 現世でも地獄はあり、天上界もある、ということなんです。 ジブリのアニメ「千と千尋の神隠し」は、この概念をよく表したものだと思います。 最初に千尋の両親がごちそうを食べて豚になってしまいますね?。 あれが「畜生道」です。 何かを食い続け、そして、何かに食われてしまう、というそれだけの輪廻。 それが畜生…豚や牛などの世界であり、人間はその世界に生きてはいけないよ、という「教え」なのです。 仏教は、形はいろいろと変化はしてきましたが、根底にあるのは「教え」です。 それも「そんなことは、アンタ、自分で考えなさいよ!…ヒントはやるからさー」という、ある意味「厳しい」教えなのです。 簡単に答えをくれないところが、イスラムとも、キリストとも違います。 仏教の根底にあるのは「気付き」なのです…だから「崇拝」を許さないのが、仏教の本質だと思っています。 もっと苦しみなさい、そして気付きなさい…ノウハウは教えるから…と、ブッダは言い続けた気がします。 もちろん自分も、間違ったり、たくさんしてますよ?…その都度改め、考えている…その繰り返しなんですね。 あなたなりの、地獄道とは?と考えていくこと。 絵巻などはその「導き」に過ぎません。 恐怖政治が地獄道に近いというなら、それがあなたにとっての「地獄の姿」なのでしょうね。

tenpuruo-m
質問者

お礼

ウィキでも同じようなことが書いてますね。 地獄には落ちたくないです。怖いです。

回答No.3

そもそも、仏教と言うのは、ブッダの教えの事であり、その教えの中には、「悪いことをしたら、地獄に落ちる」みたいなものはあまり無かったと思いますし、地獄絵図は刑務所みたいな物です。 刑罰がなければ、犯罪はし放題になり、恐怖政治とはニュアンスが違います。 恐怖政治とは、言論の自由を奪い、都合の悪い発言や行動を弾圧するものですよ。

  • ok-kaneto
  • ベストアンサー率39% (1798/4531)
回答No.2

嘘も方便と申しまして、別に仏教全般で地獄を信じているわけでもないです。 もちろんお釈迦様がそんなことを言ったということもないです。 無理して崇拝する必要もないんじゃないでしょうか?

回答No.1

地獄とはそういうところ あれは暴力ではなく苦行なのです ちなみに本物の悪人は逆に極楽浄土に行かされるんだとか 地獄に行くと喜んでしまうためです だから地獄であんな目にあわないように 全うに生きましょう そしてもし罪を犯してしまったら仏様に祈りその罪を滅してもらいましょう と言うのが仏教の教えです

tenpuruo-m
質問者

お礼

アズキさんお久しぶりです。 地獄であんな目にあわないように・・・やはりそこに絶対的な暴力、体罰、恐怖心の植え込みがあるように感じます。 逆にキリスト教は全ての罪は赦される、でしたっけ?? 比叡山を焼き討ちした信長は微塵も信じてなかったでしょうが・・・ 回答ありがとうさまです!

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