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絶対善が支配する世界における悪の役割

asisai888の回答

  • asisai888
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回答No.12

No8です お礼みました >他者の利益をどの程度見積もるのかで自分の善悪が決まります 例の中に悪が存在してるので二項対立的善悪から見た善悪および独善の定義だと思いますが 10%や90%という数字は定義より利益の割合となっています これは利益が数値化でき、善悪によって自分と他者のそれぞれにそういった数値化できる利益が 生ずることを前提としていることになります shift-2007さんは善悪をそう捉えているのかもしれませんが、これを一般に善悪とはと語ることはできないと思います 利益が不明な上に利益が善悪とどう関係してるか不明で、利益が生じない事柄について触れていないからです >絶対善に基づいて地続き 誠に残念ですが、地続きだとは言えません 地続きの場合もあるでしょう 絶対善とは「もっとも良いと思われる選択を常に行う性質」のことでしたね この「良い」という言葉は様々な言葉の代名詞として使われます 好き嫌い、損得、好都合・不都合、そして善悪などなど ここで善行と悪行をした人を考えてみましょう 善行も悪行も絶対善によって行います しかしその内訳を見てみると 善行をした人は善意から善行をしました 悪行をした人は不都合だから悪行をしました だったとします この時、絶対善によって善行と悪行が地続きであるならば、善意と不都合が 等しくなければなりません shift-2007さんは善意と不都合を「等しいものとする」ことで無理やり地続きがあるとしています ご自身でも無理があると感じているから悪とは独善であると、地続きが成立するように善悪を限定的に 扱ったんじゃないですか? 確かに独善による悪行なら次の対比が得られます 善行を善意から行う 悪行を善意から行う 同じ善意ですから善行と悪行は地続きになります なので絶対善により地続きと一般に言うことはできませんが、独善的な悪行と善意の善行を 扱う場合のみ地続きであると言えると思います

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >利益が不明な上に利益が善悪とどう関係してるか不明で、利益が生じない事柄について触れていないからです 何が利益になるかはその時の状況によるでしょう。 生かすことが利益になるならそうするし、殺すことが利益になるならそうします。 一律に定義することはできないのではないでしょうか? >善行をした人は善意から善行をしました この人は他人のためになることをすることは自分にとっても良いことだと思ったはずです。 自分にとっては悪いが他人にとっては良いという選択肢は人間には取れません。 もしできると考えるなら事例を挙げてみてください。 >悪行をした人は不都合だから悪行をしました 不都合な事象、あるいは人を排除することは自分にとって良いことだと思ったはずです。 そうでなければ排除する理由がありません。 つまり、両者とも自分にとって良いことをしています。 これが絶対善による地続きという意味です。 戦車も福祉車両も原料は鉄です。 そういう話です。

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