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絶対善が支配する世界における悪の役割

莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)の回答

回答No.6

絶対善とは選択した最善の善であり、それに対応して何かを無視して選択するのが悪であり、それはあくまでも相対悪である。 この世には絶対悪はないがそういう相対悪が対応している。 ということですね。 言葉や概念としては多少異議がありますが、不可欠な事項を欠落させての賢明ならざる選択が相対悪だということですね。 絶対善が可能であれば人は祝福されていますね。 これがなかなかできないのですね。 でも悪とは所詮は、そんな相対的にしか存在してこられないのだというご見解と分析は炯眼と存じます。 そして我々はそういう何かを欠落させない善を大事にしたいですね。 それが難しい、そうまさに絶対善ですね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私たちは相対善(いわゆる道徳的な善)の延長線上に絶対善があるはずだと考えています。 しかし実際には逆で、初めに絶対善がありその後相対善が生まれたのではないでしょうか。 たとえるなら本能(絶対善)と道徳(相対善)でしょうか。 例えば私と同じ道徳的観念を持った人間しかこの地球に存在していなければ私の道徳的善は即絶対善になるはずです。 なぜなら異論をはさむ人間は存在しませんから。 道徳的レベルが1~1000の人間が一つの世界に混在しているから道徳的善が絶対善にならないんでしょうね。

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