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富岡製糸場って…
富岡製糸場が世界遺産に登録されるらしいですが ここって確か 女性を低賃金で過酷な労働をさせて逃げ出した女工を拷問したり… とそんな歴史のあった場所でもありますよね? そんな過去があっても世界遺産に登録されるのでしょうか? マスコミもその部分には一切触れませんね? 最後まで隠し通すつもりでしょうか?
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富岡製糸場を女工哀史に結び付けるのは適切ではありません。以下は便宜上WIKIから引用しますが、当時としてはきわめて先進的な制度が採用されていました。建物だけでなく、制度が近代化遺産なのです。 「工女たちの労働環境は充実していた。当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇、1日8時間程度の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与された。群馬県では県令楫取素彦が教育に熱心だったこともあり、1877年(明治10年)には変則的な小学校である工女余暇学校の制度が始まり、以前から工女の余暇を利用した教育機会が設けられていた富岡製糸場でも、1878年(明治11年)までには工女余暇学校が設置された。」 最初の工女たちは士族出身者が多く、その一人だった和田英の手記は近代日本史を勉強するうえでの必読文献で、高校の授業でも言及されるのが普通だと思います。幸いにも、ネットで全文を読めます。 和田英『富岡日記』 http://cruel.org/books/tomioka/tomioka.html
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- hideka0404
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それいったら、原爆ドームは?
お礼
原爆は日本が加害者なんだから自業自得でしょ
- key00001
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> そんな過去があっても世界遺産に登録されるのでしょうか? アウシュビッツや原爆ドームの登録例もありますので・・。 「正の遺産」か「負の遺産」かは別として、「歴史的な遺構」が、誰かが何らかの理由で、「未来に受け継ぐべきもの」として、これまで保存されてきたワケです。 その精神や行為が、世界的にも評価に値すると判断されたのが、世界遺産です。 もし「負の遺産」が文化として評価されないものだとすれば、人類は同じ失敗を延々と繰り返す生物だったでしょうね。 > マスコミもその部分には一切触れませんね? > 最後まで隠し通すつもりでしょうか? 義務教育で習いますし、「女工哀史」などでも良く知られ、日本人では知らない人は殆ど居ないかと。 それでもマスコミが「隠し通すつもり」なら、単なるバカです。 現時点では、「世界遺産に登録された。やったぁ!」と言う論調で良いのでしょう。
お礼
今の小中学生の歴史など 社会科では習わないところもあるそうで… 某テレビのインタビューで 若い人達に「ここはどんなところか知ってますか?」と聞いたら 「セレブがすんでた家」とか「刑務所だったんやない?」等と言う答え… これが歴史で習った人たちの答えです(笑) 世界遺産に申請するまえに正しい事を教えるのが先だと思うのですが
- Mokuzo100nenn
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日本の木造建築が140年経てもビクともしないという点で世界遺産に登録される価値があります。 日本の神社仏閣では500年以上の木造はあたりまえですが、工場建屋というコストダウン優先の木造建築で、高温多湿な日本列島に於いて140年たって健在というのはやはり日本の木造技術が突出しているという証左です。 産業革命当時の工員さんは、近代日本の生活保護受給者よりも辛い生活をおくったとは思いますが、そのネガティブな事実も含めて産業遺産ということで良いのではないでしょうか。
お礼
そういう事ならOKですね
- Erdbeerkegels
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富岡製糸場は映画「あゝ、野麦峠」のロケ地として使われたので、 誤解されている方が数多くいらっしゃいます。 映画の原作の「女工哀史」に描かれているのは信州諏訪湖周辺に会った、 民間の製糸工場です。 富岡製糸場は日本初の官営模範工場として近代的経営の場です。 後に民営になりますが、環境は悪くなったとは聞いていません。
お礼
富岡の工場でもあったそうですよ? 日本人が日本の歴史を知らないのはどうかと思います
- kofusano
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ああ野麦峠 岐阜から野麦峠を超えて長野の諏訪、岡谷へ過酷な労働へと行かされた http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%9D%E9%87%8E%E9%BA%A6%E5%B3%A0
お礼
ありがとうございます 貴方もですか…
- kusirosi
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へ、結構報道されているよ \(^^;)...マァマァ ・富岡製糸場は、日本初の近代的官営製糸場として明治5年に操業開始しました。 お雇い外国人のフランス人技師ポール・ブリューナの指導により建設されましたが、単に生産設備だけではなく福利厚生施設、病院なども備え就業規則なども作成され、日本のモデル製糸場として開設されました。 工場・機械・設備などは比較的スムースに導入できたものの、富岡製糸場が直面した最大の問題は工女の募集難で、明治政府ははじめ入間・群馬・栃木・埼玉・長野の5県に工女募集の布告を出したが50~60名が応募しただけだったと言われます。 そして「毛唐人に教えてもらうのは汚らわしい」、「石炭の煙が毒になる」、「生血を搾られる、現に赤い血(red wineのこと)を毎日飲んでいる」などの噂が流布され、工女募集に応ずるものがきわめて少なかったそうです。 このため政府は1872(明治5)年5月に「製糸告諭書」を全国に布告し、さらに同年9月にも「富岡製糸工場繰糸伝習工女雇入心得」を北海道以下10県(水沢、岩手、宮城、秋田、磐城、山形、若松、福島、置賜、酒田)に発布してデマを打消し、工女の募集に努めたものの依然応募する者がなく、政府はやむなく旧士族階級の娘たちを雇い入れ、ようやく100余名に達したがそれでも予定の4分の1以下でした。 このため初代工場長の尾高惇忠ら関係官吏は自分の娘を説得して工場に送り、工女募集の呼び水的役割を演じさせた。 その効果があって応募者は次第に増え、開業の翌年1873(明治6)年2月には404名に達することができた、とあります。 当初、富岡製糸場の工女は武家や官吏の娘達で、いわば当時のエリート女性や上層の娘達だったのです。 官営時代は、給与や食事も、当時としては異例の厚遇で、製糸技術指導者養成学校的存在でした。 明治36年に民営化され、昭和60年に廃業するまでも 低賃金で過酷な労働をさせて は ともかく 逃げ出した女工を拷問したり とかはなかったようです。(それは、ああ野麦峠) ・原爆ドームやアクシュビッツ強制収容所、南京大虐殺記念館とかも 世界遺産登録申請されてますから 官営富岡製糸場あたり認められても ふしぎではない。\(^^;)...マァマァ
お礼
グンマーですからね 何があるかわかりません
ナチスの収容所だって世界文化遺産に登録されているんですが… マイナスなことだって人類の歴史として遺すべきものはありますし 富岡製糸場といえば、女工が過酷労働を強いられていたという代名詞でもあり 隠してるとも思わないのですが。 常識ですよね?
お礼
歴史も知らない若い女の子がキャーキャー騒いでましたね(笑)
富岡製糸の工女たちの労働環境は充実していた。当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇、1日8時間程度の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与された。群馬県では県令楫取素彦が教育に熱心だったこともあり、1877年(明治10年)には変則的な小学校である工女余暇学校の制度が始まり、以前から工女の余暇を利用した教育機会が設けられていた富岡製糸場には、1878年(明治11年)までには工女余暇学校が設置されていました。信州の野麦峠の製糸工場とは違いますよ。 日本初の本格的な器械製糸の工場で1872年(明治5年)の開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存し、日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、敷地全体が国指定の史跡、初期の建造物群が重要文化財に指定され、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として世界遺産として登録の価値は高いと思います。
お礼
表向きはそうでしょうね
お礼
正しい歴史をありがとうございます