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インターテクスチュアリティ
今度のレポートでインターテクスチュアリティについて調べて発表するという課題がでたんですが、これについて詳しく説明されているサイトなどはないでしょうか? テクストとテクストの相互的関係だというのは自分の頭の中ではなんとなくわかるのですが、それをどうやって説明したらいいのか悩んでます(汗
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お礼欄拝見しました。 わかりにくいところをこんなふうに指摘していただくと、こちらも自分の文章を見直すことができて、とても助かります。気にせず、じゃんじゃん「ツッコミ」を入れてください。 そうですね。この部分は実はどこらへんまで書こうかためらいながら書いたところで、確かにわかりにくいですね。 >絵画や音楽などがテクスト化されて文章を構成する一要因になっていると考えていいのでしょうか? むしろ、絵画や音楽、衣服、建築、そうしたものはすでに非言語的なテクストとして存在している、と考えたほうがいいと思います。 非言語的なテクストっていうのはわかりにくいかな。 つまりね、絵にしても、意味を持っている。 『入門』では『草枕』のなかに出てくる“オフィーリア”が取り上げられていますね。 漱石が見た“オフィーリア”、これもすでにひとつのテクストなんです。 直接的にその絵があらわしている意味もあれば、間接的・従属的に表れてくる意味もある。 そういった意味で、すでにテクストなんです。 ただ絵は絵で、そのままでは作品の中に移し替えることはできない。 電子テキストならリンク貼って、こんなことなんだよ、と指し示すことができますが、文学作品だとそれはちょっとまずい。 だから移し替えをおこなうとき、作者は引用しようとするプレテクストを「変形」するんです。 その「変形」のやり方は、前田の本の中で『舞姫』や『草枕』を例にとって、かなり詳しく触れられていますので、そちらを参考にしてください。 こうした変形がどのようにおこなわれているか、そういうところまでふくめて見ていくのが、間テクスト性ということだと思います。 ここらになると、ロラン・バルトにもふれなきゃいけないかな、などと考え出してキリがなくなってくるので、いったん切り上げます。 『文学テクスト入門』よりもう少し突っ込んで、間テクスト性のことが知りたければ、『現代文学理論―テクスト・読み・世界』(土田知則・神郡悦子・伊藤直哉著 新陽社)がいいと思います。むずかしかったら構造主義詩学あたりはすっとばして4章の「テクスト理論の諸相」だけでも参考にするといい。 あと、間テクスト性には触れていないけれど、こうした文芸批評の流れを知りたければ、やっぱり筒井康隆の『文学部唯野教授』が読みやすいかな。
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- ghostbuster
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#1です。 すいません。訂正です。 お終いの方。 杜子春のところです。 >芥川は、明治の立身出世主義のひとつの変形をそこに認めます。 芥川→前田と訂正します。 芥川の作品中に、前田が立身出世主義を読みとった、と書きたかったんです。 お詫びして、訂正させていただきます。
- ghostbuster
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インターテクスチュアリティ、あるいは間テクスト性、または相互テクスト性という場合もあります。 私はずっと間テクスト性という言葉を使ってきたので、こちらの言葉を使わせてください。 間テクスト性というのは、60年代広範に、フランスの記号学者ジュリア・クリステヴァがミハイル・バフチンのカーニバル理論を継承して提唱した概念です。 クリステヴァは簡潔にこう定義づけています。 「いかなるテクストも、引用句のモザイクとして構築されたものである。あらゆるテクストは、他のテクストを吸収し、変形したものなのである」("Word, Dialogue, and Novel"('66) 引用は私訳) クリステヴァ自身は間テクスト性を、テクストと他のテクスト間の関係として捉えていたのですが、この「他のテクスト」の概念は、ロラン・バルトらによって次第に拡がっていきました。 今日では、簡単に言ってしまえば、間テクスト性とは、ひとつの文学作品は、他の文学作品のみならず、絵画や音楽、あるいは建築や都市など、非言語的なものをも含むあらゆる文化が、あたかも繊維となって織りなしたタペストリーのようなものである、とする考え方です。 これは単なる引用や“~の影響を受けている”ということよりも、はるかにひろがりをもった概念なんです。 参考文献として、一番わかりやすく、かつまた手に入りやすいのが、『増補 文学テクスト入門』(前田愛 ちくま学芸文庫)です。 この中では、間テクスト性の実例に、鴎外の『舞姫』、漱石の『草枕』、芥川の『杜子春』などがあげられています。 『舞姫』のなかでは、ベルリンという都市が、ひとつのテクストとして織りこまれている。 『草枕』のなかでは、ジョン・エバレット・ミレーの絵「オフィーリア」が、絵画から文学へとコード変換されて、作品の中に引用されている。 そして、『杜子春』。 前田は、唐代の伝奇小説『杜子春伝』と芥川の『杜子春』の最後の部分のちがいに着目します。 原作の『杜子春伝』では、女に生まれ変わった杜子春が、自分が産んだばかりの赤ん坊が、腹を立てた夫に床に叩きつけられるのを見て、声を出し、老人の術は解け、鉄冠仙人は冷ややかに立ち去る。 それに対して芥川の『杜子春』では、「おかあさん」と呼びかけ、杜子春は仙人の試験に失敗するのですが、鉄冠は仙人にするかわりに泰山のふもとにささやかな家を与える。 杜子春が望んでいるのは、世俗的な価値を断念することで、そこから超越していくことです。 芥川は、明治の立身出世主義のひとつの変形をそこに認めます。 「そういう立身出世を目指す息子を鼓舞激励する母親というものがその陰に隠されている」(p.129) そして最後に鉄冠が与えてくれた山麓の小さな家は、 「都市の郊外に建てられた文化住宅、そういったものを連想させる。そういう大正という同時代の文化的なコンテクストを、この『杜子春』というテクストのなかに芥川は引用しているのではないだろうか。原作の『杜子春伝』を日本風の物語に変形しているのではないか」(p.130) 間テクスト性によるテクストの読み方というものの感じがつかめたでしょうか。 ということで『文学テクスト入門』のご一読をお勧めします。 わかりにくいところがあれば補足要求してください。
お礼
返答ありがとうございます。 近くの図書館を探したところ、「文学テクスト入門」が見つかったので読んでみます。 ちなみに、 「ひとつの文学作品は、他の文学作品のみならず、絵画や音楽、あるいは建築や都市など、非言語的なものをも含むあらゆる文化が、あたかも繊維となって織りなしたタペストリーのようなものである」 とは、絵画や音楽などがテクスト化されて文章を構成する一要因になっていると考えていいのでしょうか? 見当ハズレな事言ってたらごめんなさい(汗
お礼
少し家を空けていたのでお礼遅れました~どうもすいません(汗 そしてありがとうございますー。 >>ただ絵は絵で、そのままでは作品の中に移し替えることはできない。 電子テキストならリンク貼って、こんなことなんだよ、と指し示すことができますが、文学作品だとそれはちょっとまずい。 だから移し替えをおこなうとき、作者は引用しようとするプレテクストを「変形」するんです。 の部分が凄くわかりやすかったです。文学テクスト入門も借りてきたので、それも参考にしつつ発表の用意をしてみますー。