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後村上天皇の生涯と活動
- 後村上天皇は1328年に誕生し、幼少期から戦乱の時代に生きた天皇でした。
- 実際には、5歳の時に北畠親房・顕家父子に奉じられて奥州多賀城へ入り、7歳の時に足利尊氏討伐のために京へ戻ったことがありました。
- 後村上天皇は11歳で即位し、畿内近国に対して精力的に綸旨を発して南朝の安寧祈願や給与、軍勢催促を行っていました。
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masprobさん、こんばんわ。 これよむと、後村上天皇って5歳くらいから戦に参加して戦ったかのようにも思えますが 実際のところはどうだったんでしょう? 5歳では何にもできないでしょう。名目だけですよ。 周囲に担ぎ上げられていただけですか? おそらく、北畠親房あたりがブレーンだったと思います。 詳細については下記のURLを参照ください。 北畠親房 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E8%A6%AA%E6%88%BF 南朝 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9C%9D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
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- tanuki4u
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%A9%AE http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%B2%9E 1330年 生まれ 1333年 鎌倉攻め この際千寿王は、父の名代として、家臣らの補佐により、鎌倉攻め参加の武士に対し軍忠状を発付し、 足利義詮の項目より引用 鎌倉を脱出してきた足利尊氏の嫡男・千寿王(後の足利義詮)と合流した。千寿王の手勢は僅かに200であったが、足利尊氏の嫡男と合流したことで義貞の軍に加わろうとする者はさらに増え、各地から兵士が集まり軍勢の規模は膨大なものとなった。その数について『太平記』は20万7,000騎、『梅松論』は20余万騎と言及している。 新田義貞の項目より引用 義詮は3歳で軍忠状を発行しています。 旗は重要だということです
お礼
回答ありがとうございます。 南北朝時代は勉強しはじめたばかりで 教えていただいたようなことは全然知りませんでした。 大変参考になりました!
- あずき なな(@azuki-7)
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周囲に担ぎ上げられてました その通りです 時代背景を見れば分かりますが 武士は天皇の力(後ろ盾)が喉から手が出るほど欲しかった時代です それから よく誤解されますが 実際天皇は政治的発言力って本来持ってません(たとえ親政の時代でもです) 実際に綸旨だって発してたのは関白であり 側近の武士や公家 天皇は名目として使われていただけです 自分の意思で政治を行ってたのは実際は後白河法皇ぐらいですよ あとはどの天皇・上皇・法皇もみんな利用されてます 周りに もちろん歴史書では天皇本人の業績として伝えられてますけど
お礼
回答ありがとうございます。 当時は天皇は神聖視されていたということでしょうか。 >もちろん歴史書では天皇本人の業績として伝えられてますけど それはあるでしょうね。 なんとか天皇が社殿を建設してなんとかいう神社を創建した、とか神社の由緒にあったんですが なんとか天皇、まだ子供なんで 権力者だった天皇の外祖父あたりだろうな、創建したのは、と思いました。
お礼
回答ありがとうございます。 ひょっとして昔の子供はませてたんだろうか、などとも思いましたが やはりブレーンがいたのですね。 なるほど北畠親房画ブレーンですか。 太平記などに後村上天皇のエピソードなどかかれてないかな。