大村益次郎の予言と西郷隆盛の評価について

このQ&Aのポイント
  • 大村益次郎は西南戦争の反乱を予言していた
  • 大村益次郎は西郷隆盛を全く評価していなかった
  • 大村益次郎は西郷隆盛を足利尊氏に似ていると思わせた
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大村益次郎

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%9B%8A%E6%AC%A1%E9%83%8Eは、大村益次郎が西の叛乱を予言し、大隈重信とともに西郷隆盛を全く評価していなかったという記載があります。  このことで参考に少しでもなることがありましたら、どうかお教えください。 大村益次郎がなぜ、或いは何を根拠に、また或いは何の契機で、・・  1. 維新戦争後に西からの反乱(西南戦争)を予言したのでしょうか。  2. 何を見て、なぜ、西郷隆盛を全く評価していなかったのでしょうか。  3. 西郷隆盛のどこが、足利尊氏のどこに似ていると思わせ、或いは足利尊氏を連想させたのでしょうか。  乱、反逆とかのこと、そういう契機やパーソナリティについては何かとても自分に身近で、身につまされるような感じがしていて、これから勉強したいと存じておりますもので、どうか何でも参考になることをお教えくださいますようお願い申しあげます。

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回答No.1

 村田蔵六(益次郎)の洞察力は彼の頭の中の緻密な計算によるもののようで、日本史上稀にみる軍事的天才には凡人には理解しがたい「読み」があるのでしょう。  村田と西郷の違いは、軍隊の近代化という観点が大きいと思います。ご存知のとおり、村田は国家の軍隊は徴兵制によるもので、士族の専任にするべきではないと考えておりました。この考えは高杉晋作以来、長州に根付いた考えで、奇兵隊が母体となって陸軍をつくっていくというものです。西郷はあくまでも軍隊は武士(知識階級)がなすべきことであり、思想を持たない庶民に任せるべきではないと考えていました。これは、長州藩と薩摩藩のそれぞれの歴史背景の違いで生じたものでしょう。  長州は内戦、対幕府戦、対外国戦、そして最後の倒幕戦と戦い、既に士族は疲弊しており、さらにそれぞれの戦において奇兵隊が主力となったため、身分を越えた軍隊に好意的でした。一方で、薩摩は対英戦はあったものの、鳥羽伏見以降は全戦全勝に近い状態で維新を迎えます。ここで活躍したのは郷士以上の武士でした。薩摩は保守的な土地柄もあり、あくまでも軍隊は武士で構成されるものという固定観念は拭えませんでした。  こうした軍隊の編成に絡み村田は薩摩軍人と対立したのです(村田暗殺に関与したのが薩摩の海江田正義であることはほぼ間違いないでしょう)。その頂点にいるのが西郷であり、村田は西郷を排除しようとも考えていたと思います。いずれは新政府軍x不平武士の内戦が起きるというのは当然予見できたと思います。 1. 維新戦争後に西からの反乱(西南戦争)を予言したのでしょうか。  九州の武士は封建的であり、御一新といっても徳川と薩摩が入れ替わって幕府を開く程度の認識しか無いですから、攘夷戦争もせず、士分を剥奪する徴兵制は憎んだでしょうね。当然、反乱は九州から起こると。西南戦争のような大きな戦を予期したかはわかりません。いずれにしても、九州には血の気の多い武士がたくさん余っていましたから佐賀の乱、神風連の乱程度のことは予測できたでしょう。その時の大将は英雄視されている西郷ではないかと。 2. 何を見て、なぜ、西郷隆盛を全く評価していなかったのでしょうか。  西郷は英雄ではありましたが、長州藩や佐賀藩の人間からは必ずしも尊敬されていませんでした。彼の幕末の政治活動は、はっきり言えば裏で事を運ぶような武士らしくない謀略が多かった。長州人は、幕末の薩摩藩の寝返りに軽薄なものを感じており、倒幕戦で手を結びはしたものの、終生恨みを持っていました。木戸孝允もこのことには触れております。西郷自身も「人に言えないことを多くやった。」と悔いているくらいです。新政府には西郷を信用していない人間は、木戸孝允や江藤新平など多くいました。維新の功労者として持ち上げられましたが、伊藤博文も西郷は尊敬していなかったようです。 3. 西郷隆盛のどこが、足利尊氏のどこに似ていると思わせ、或いは足利尊氏を連想させたのでしょうか。 長州人は西郷を軽蔑してますから、当然、新政府に対し反発する可能性があると。薩摩人は多くを語りませんから、議論を好む長州人にとっては何を考えているかわからないところがあります。後年の西郷の評価とは全くといっていいほど違う誤解があったと思います。 天皇を利用して政治的に名を上げたが、結局裏切り、天皇を追放して己の権力を確立しようとしている姿を例えて足利尊氏を想定したのではないでしょうか。  己の感情を安易に吐露しない西郷の性格が、西郷を敬愛する人と誤解し憎む人を極端にしたのだと思います。

krya1998
質問者

お礼

 うぅ~ん、すごいご回答を頂きました。ありがとう御座いました。  何か叛乱をする、共通の性という、宿命的、逆賊・革命的な本性のようなものを画いておりましたが、このようにあらゆる根拠を踏まえた確かなお話から、そういう思いは雲散霧消することが出来ました。  高く評価しないということの内容、不信性。国毎、そして本人個人の性格がない混ざってのことなのですね。  西郷隆盛は、仰せの言動と志向があったのですね。これは知りませんでした、そういう側面については。  その他、本当にすばらしいご講義でした、実に納得して理解できました。  ありがとう御座いました。

krya1998
質問者

補足

 度々、私の疑問に明確に的を射たご回答に心よりお礼申し上げます。  ありがとう御座います。

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