天武天皇とスサノオの関係について考察

このQ&Aのポイント
  • 天武天皇とスサノオの関係についての考察とは?
  • 八坂神社の由来と天武天皇の出身に関する説を紹介
  • スサノオと天武天皇の習合と伊利之使主の選択理由について考える
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天武天皇とスサノオには関係がありますか。

天武天皇とスサノオには関係がありますか。 スサノオは記紀神話に登場するので日本の神だと思っていたのですが http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE 上記によりますと (八坂神社の)社伝によれば、656年、高句麗より来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)が、新羅の牛頭山に祀られる素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるという。 とあります。 それで、天武天皇を新羅人だとか高句麗人だとする説があることを思い出しました。 下記に様々な説についてまとめられています。 http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/032.htm 天武の生年は諸説あって天智の弟とあるのに、天智よりも年上であるなどとも言われていますが 天武が即位したのは673年なので八坂神社にスサノオが勧請された656年からそんなに時がたっていません。 で、記紀が記されたのはそののちの奈良時代のこととなります。 (1)スサノオと天武天皇は習合されていたのでしょうか。 (2)なぜ高句麗人である伊利之使主が新羅の神を祀ったのでしょうか。 理由を添えて、これについてのお考えをお聞かせいただけるとありがたいです。 ※私自身は判断しかねています。

noname#163492
noname#163492
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  • sudacyu
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回答No.2

 京都の八坂神社の縁起についての社伝は、多くの資料から信憑性が疑われています。  元々は、播州の広峰神社に新羅からの渡来人が祭っていた、牛頭天皇(元々素戔嗚尊を祭っていた山に、祭ったので両者が一体化した。)を勧請したようです。  広峰神社側の資料によれば、 <869年、京の都をはじめ日本各地で疫病が流行った時、時の権力者、藤原基経はその対策に頭を痛めており、そこへ、播磨国に疫病に霊験あらたかな神さまがおられるとの噂が聞こえてきたと言います。そこで基経は、南都の僧、円如を播磨に赴かせ、この神を勧請したと記され、京都四条にある元祇園梛神社は、この時、牛頭天王の乗る御輿を梛の林中に置いて祭ったことがこの神社の始まりであると伝えています。京都に着いた牛頭天王は、まず北白川の東光寺に祭られ、その後、藤原基経が八坂にあった邸宅を寄進して感神院祇園社を建立し、ここに牛頭天王を遷座したと伝えられます。しかし祇園社を建立し、牛頭天王を祭っただけでは疫病は鎮まることなく、広峯神社の社人を都に招き、白幣祭を執り行わせた所、たちどころに疫病が鎮まったと伝えられており、この白幣祭が前述した祇園御霊会にあたるのではないかと思われます。  これ以降、京都祇園社の牛頭天王は、都の人々や皇族や貴族の崇敬を集めるようになり、彼等の力により地方に多くの末社が建立されることとなり、いつしか京都祇園社は、全国の祇園社を束ねる「祇園本社」を称するようになり、広峯神社と対立する事となります。そのため、この他にも多くの文献が京都祇園社の牛頭天王が広峯神社から勧請した事を記しているにも関わらず、京都祇園社はこれを鎌倉時代に入ってから広峯神社が一方的に言い出したことだとして一切認めようとせず、広峯神社と京都祇園社の対立は、今日でも続いています。>  広峰神社以外にも、このことを示す歴史文献があるのは事実のようです。 広峰神社 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%AF%E7%A5%9E%E7%A4%BE

noname#163492
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 大変興味深く拝読いたしました。 京都八坂神社は播州の広峰神社の牛頭天王を勧請したという説があるのですね! >牛頭天皇(元々素戔嗚尊を祭っていた山に、祭ったので両者が一体化した。)を勧請したようです。 うむ~、すると播州のあたりに新羅の人が住んでいたのかもしれませんね。 播州には秦氏が多く住んでいたそうです。 秦氏は秦の始皇帝の子孫だと称していますが、実際は新羅人だという説がありますので 秦氏が祭っていたのかも・・・ もっと調べてみないとわかりませんが。 京都の八坂神社の由緒でどうも納得できなかったのが 高句麗人が新羅の神を祀った、という点でした。 もともと八坂神社付近には高句麗人が作った寺などがあったのかもしれません。 そして後にその土地に藤原基経が広峰神社を勧請したために そんなおかしな由緒となってしまったのかもしれませんね。 また八坂神社の祇園祭のルーツが863年に神泉苑で行われた御霊会である、とするのも納得できませんでした。 祗園社が古くからあったのであれば、神泉苑で御霊会を行わずにはじめから祗園社で行えばいいのではないかと。 どうやら八坂神社と天武天皇を結びつけるのは無理があるかもしれません。 しかしながら、 656年、高句麗より来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)が、新羅の牛頭山に祀られる素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるという。 という八坂神社の由緒を読みますと (1)656年 (2)伊利之使主 という言葉がやけに鮮明に聞こえます。 祗園社の前身のようなものがあったのでは、とも思えますね。 とても勉強になりました。

その他の回答 (3)

  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.4

663年が白村江の戦いですので、来日と言う感覚が知れません。 高麗は朝鮮民族ではありません。ツングース民族です。 日本に逃げ出して来た高麗人ならいます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E9%83%A1 668年に高句麗が滅亡したので656年なんですね。 しかし、 古事記以前の古い事が記載されているのはおかしいですね。 年数だけは656年であるとしっかりと明記されていますが、 敵対する国の神を奉ったり、敵国に調進してみたりと、 「来日した理由」 「かばねを賜った理由」 「奉った理由」 などが「あまりに」曖昧過ぎます。

noname#163492
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >663年が白村江の戦いですので、来日と言う感覚が知れません。 すいません、「来日した」の主語は「天武が」でよろしいですか? 高麗郡のことは存じませんで、大変勉強になりました。 ご指摘のとおり 「来日した理由」 「かばねを賜った理由」 「奉った理由」 などが曖昧です。 なので、ウソだと結論づけてしまうと手っ取り早いのですが (ウソなのだろうとは思いますが) あまりに656年という年代や伊利之使主という名前が鮮明です。 日本人は縁起を担ぐのが好きで、たとえば小野小町や和泉式部などの命日は3月21日だとされています。 実際には小野小町や和泉式部の命日は3月21日ではないでしょう。 彼岸を小野小町や和泉式部の命日に下野だと思います。 これと同様、656年、伊利之使主なども何か理由があって由緒に記されているのではないか、と 思ったりします。 大変勉強になりました。

回答No.3

 関係すると思うなら、学研のムーを読んでみてください  関係しないと思うなら、それが普通で健全です

noname#163492
質問者

お礼

回答でない回答はご遠慮ください。

noname#163492
質問者

補足

>関係しないと思うなら、それが普通で健全です その根拠を教えて下さい。

回答No.1

スサノオはアマテラスの弟だったと思いますよ だから系譜上は親戚なんじゃない? ってか系譜をそのまま信じればですけどね 神武天皇から天武の間に2~3回ほど断絶してると言われてますからね

noname#163492
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 おそれいりますが、1、2の質問に対してお答えくださいますようお願い申し上げます。

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