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これで、あってますか? (中学1年の社会です)
国立の中学校に通っている中1です。 今度の月火水と期末テストがあります。 それで、社会の範囲は鎌倉時代から戦国時代の初めまでです。 そこで、自分なりに教科書やノートを見て歴史の流れを整理してみたのですが、これで大体あっているのでしょうか? ・鎌倉幕府は3代で絶えた。この機会を見た後鳥羽上皇は承久の乱を起こし、政権を天皇に取り戻そうと思ったが、失敗する。 ・しばらくして元寇が起きる。このときは自分の国の防衛だったため、新しい土地が手に入らず、御家人に与える土地がなく、御家人の生活が苦しくなる。 ・幕府は御家人の生活を救うため「永仁の徳政令」を出すが、この法律は借金をすることも禁じたため、さらに御家人の生活は苦しくなった。 ・足利尊氏は幕府を裏切り、大坂の悪党 楠木正成らと、鎌倉幕府を倒す。 ・鎌倉幕府を倒した足利尊氏は、後醍醐天皇にほめられた。 ・後醍醐天皇は「建武の新政」を行い、京都で政治を始める。 ・しかし、足利尊氏は後醍醐天皇の政治に不満を持ち、北朝として新しく天皇をたてる。 ・後醍醐天皇は南朝として、吉野へ逃げる。 ・南北朝時代が始まる。 ・足利尊氏が勝利し、南北朝が統一される。 ・主語は国内の地頭や新興の武士を従え、領地を拡大し、守護大名となる。 ・守護大名は京都に住むようになる。守護大名は家来を「守護代」に任命し、領地の管理を任せる。 ・守護代は任された土地を完全に自分のものにし、暴走を始める。 ・守護代は領地内で下剋上を繰り返し、戦国大名となり、1つの国として政治を始める。 です。 すごく長くなりましたが、よろしくお願いします。
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中学歴史の流れとしてはあってると思います。 多分歴史に興味のある方だと思うので、蛇足で・・・ ○鎌倉~室町時代の政治の特徴 1.朝廷と幕府と言う2つの政治的権威が同時に存在した。 2.この2つの政府はそれぞれの法律(律令と式目)に従って、荘園の支配権を争っていた。 と言うことがあります。 鎌倉幕府が滅びたのは、御家人の土地争いの調停を幕府が公平に裁定できなくなった為です。 北条執権家の嫡流を得宗家と言いますが、ここにあらゆる権力が集中した結果、北条得宗家に有利な裁定が多くなっていきました。 こうした御家人の不満に乗じたのが後醍醐天皇と朝廷です。不満を持った御家人たちを取り込んだのです。 が、実務能力が無くやはり土地の争いに関して公平な裁定ができませんでした。 そこでさらに御家人が期待したのが、足利高氏(尊氏)です。そして、比較的公平なその裁定は、おおむね御家人の支持を得ていました。 ただ、足利高氏に不利な裁定を下された御家人は南朝にその正当性を頼ろうとしましたので、少数派ながら長い期間、南朝も存続することになりました。 ○戦国時代 戦国時代は、幕府も朝廷も上記のような調停機能が働くなり、軍事的に解決する手段がとられるようになった(応仁の乱)時代です。 全ては軍事力の維持と拡大に向けて、もっとも効率的な方法が模索されました。 当然、より大きな軍事力をもつものの発言権が強くなり、権力も移行します。 これが下克上といわれるもので、必ずしも守護代(朝倉氏・尼子氏・上杉氏(長尾氏))ばかりではなく、奉行クラス(織田氏)や有力な地侍(毛利氏)が大国を築くこともあり、また守護から戦国大名化した家(武田氏・大内氏・島津氏・今川氏)も多いです。 まったく氏素性が不明な本当の下克上による戦国大名には、関東の後北条氏や美濃の斉藤氏があります。 そこでは鉱山の開発や治水・開拓、商業政策、民政への配慮などの「富国強兵」策がとられていて、日本で始めて爆発的な産業の発展が実現した時代でもあります。
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- gouhou
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足利尊氏は最初は高氏でしたが後醍醐天皇から「尊」の字をもらいました。ちなみに今足利尊氏といわれている絵は尊氏の腹心高師直(こうのもろなお)とも言われています。 昔本で読んだことなので研究が進んで違うかもしれません。中3ですのでその辺はご容赦を
- aomushi1969
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大体の流れをよくつかんでると思います。 細かいところを少々訂正しますと。 ●3代で滅んだのは、鎌倉幕府ではなく源氏(将軍家)です。 幕府の実権を握っていた北条氏の陰謀により、2代頼家・3代実朝が殺されました。 鎌倉幕府自体は、京都からお飾り将軍を迎えて執権北条氏が実権を握って、1333年に15代執権北条高時のときに、元御家人の足利高氏(尊氏)らに滅ぼされるまで続いています。 ●南北朝の対立は3代足利義満のときに南北朝が和解して終結します。足利高氏の勝利ではないですね。 いずれにせよ、年号の暗記や細部にこだわりより このように大きな流れで歴史を理解するのはとてもいいことだと思います。 がんばってください
- minazo
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正確でないところだけ。 ・鎌倉幕府は3代で絶えた 源氏による幕府は三代で途絶えた、と理解すべきです。 ・御家人の生活が苦しくなる 鎌倉時代の武士は、分割相続をしていました。その結果、徐々に苦しくなったわけで、元寇のせいで苦しくなったわけではありません。それ以前に苦しかったわけです。だから、恩賞を得ようと武士は頑張ったのですが、恩賞が得られなかったのでさらに苦しくなった、と理解してください。 ・主語は国内の地頭や新興の武士を従え、領地を拡大し、守護大名となる この理解は間違ってはいませんが、大切な事実が抜けています。守護が守護大名化していくきっかけとなったのが半済令です。半済令とは、南北朝の争いで、守護を幕府の味方につけるために、地方の国の荘園からの年貢の半分をその国の守護に与えるという法令です。守護が守護大名化していくキーポイントなので押さえておきましょう。 ・守護大名は京都に住むようになる。守護大名は家来を「守護代」に任命し、領地の管理を任せる 守護大名は基本的に任地にいました。室町時代の守護大名が留守をするようになったのは、応仁の乱の時です。なお、鎌倉時代の守護は、鎌倉や京都につめて中央の政務に携わることが多く、任国を留守にする期間が長かったことは事実です。 ・守護代は領地内で下剋上を繰り返し、戦国大名となり、1つの国として政治を始める 守護代にとって下克上は守護大名を追放したり、倒すことなので、繰り返す必要はありません。
- nemosan
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>鎌倉幕府は3代で絶えた。 源姓の将軍は3代までですが、 鎌倉幕府の将軍はもっと続いてますよ。
- md-81
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南北朝が 統一されたのは、尊氏の孫の 3代将軍 義満のときです。
- d-flower
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私は中3です!歴史は得意なほうなので回答させてもらいました! とても詳しいですね!流れなどあってますよ!