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戦国時代の日本人口の矛盾
- 戦国時代の日本人口は1000万人くらいであり、少なく見積もっても800万人とされています。
- 戦国時代の歴史教科書の総人口がおかしいことに気付きました。
- 当時の大名の数と合わないことから、実際の人口は推定よりも少なかったのではないか疑問です。
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http://sengokutan9.com/sengokukassen/sekigaharazengokokudaka.html 関が原の戦い前の石高を合計すると 東軍 706.2万石 西軍 889.8万石 合計すると 1,596万石
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- eroero4649
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他の方も指摘していますが、太閤検地による表向きの総石高は1850万石です。んで、当時の人口の推測なんですが、吉田東伍さんという方が、当時(1910年)のコメの生産量と人口がほぼ一致していたことから「一石=一人一年の消費量」と割り出したわけですが、それとても経験則に基づくもので、根拠はあやふやなのです。 もっというと、その戦国時代当時の人口推測が「太閤検地の総石高が1850万石だから、たぶん1800万人くらいいたと思う」とかそんなものなのです。石高から逆算して割り当てたに過ぎないんですね。 んで、太閤検地というのは初めて全国統一基準で測量して実測されて出されたことに意味があるのですが、実測とても「このくらいの広さでこのくらい生産できるはず」が基準です。実際は日当たりが悪いとか気温が低い場所とかでそれぞれの田んぼによって出来高は違います。ですから「この広さなら、五十石だな」「ここはそんなに作れません。もうちょっとなんとかしてください」「じゃあ、四十石に負けといてやる」なんていうことも多々あったんです。 さらにいうと隠している田んぼもかなりあったようですし、実測したことにして実測していない(農民の力が強くて実測できなかった)というケースも多々あったので、おそらく現実の石高というのはもっとあったことだけは間違いないと思います。 そして話を「一石=一人一年分」に戻しますと、江戸時代後期は総石高が2300万石くらいとされているのに、推定人口が3000万人を超えているらしいので、必ずしもそこもイコールとはならないようなのです。長野県なんてものすごく貧しかった(だいたい蕎麦の名産地というのは米がとれない貧しい地域です。米がとれないので仕方なく蕎麦を食べていたのです)ですから、実際は石高以上の人口を抱えていたと思いますよ。 ろくに統計も戸籍もない時代の人口なんて、相当大雑把な推測ですから、あまり当てにしないほうがいいと思います。
- あずき なな(@azuki-7)
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ん? そもそも計算の仕方が間違ってる気が… 86万石=86万人が食べる分の米が取れるってわけではありませんよ? 石高は単に米の収穫量ですし 大名とは知行一万石以上の領主で 関ヶ原合戦の頃ではざっと260名ほど 室町時代で800万人ですから戦国後期ぐらいでやっと1千万人いるかどうかですね
- takuranke
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太閤検地(1582年)での総石高は約1850万石 上杉家などはこの検地での実測はされていませんので、 実際のところ多かった可能性があります。 太閤検地前は、農民の自己申告制。 文禄3年(1594年)の石高が記載された文書には、 蒲生氏郷 91.9万で、 お書きの石高より高く九州の大名ではありません。 伊達氏 61万石 ちなみに一石=1人という考えは、 1910年に歴史家吉田東伍氏の提唱によるもの。 この時代において、日本の石高と人口がほぼ一致していたため受け入れられました。 なので、この当時、太閤検地のときで日本の人口は1850万人とされていました。 また、太閤検地では山林は含まれていません。
お礼
みなさん回答ありがとうございます 備蓄しすぎ 農民死にそうなのに総人口の半分食える量が備蓄されていた まるで安倍首相や麻生太郎や森元首相並みの隠し資産だ