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楠正成と後醍醐天皇と足利尊氏について。
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この時代ですが、鎌倉幕府もそろそろ末期になり、武士たちの不満も高まってきました。 ご承知のように鎌倉幕府は別名「北条幕府」とも言われ、北条氏が実験を握っており、その中で源氏の正統とされるのが足利家です。 後醍醐天皇は鎌倉幕府の衰退を見て、政権奪取のチャンスと見て、動き出しますが、天皇に早くから結びついたのが河内の豪族楠正成で、赤坂城などに立てこもって幕府に反旗を翻します。 後醍醐天皇も各地の武士に味方するように呼びかけ、それに応じた足利尊氏は当初は北条氏の命令で京都に進軍してきましたが、翻意して幕府の京都の拠点、六波羅探題を攻め落とし、これに呼応する形で、新田義貞が鎌倉をせめて、ここに鎌倉幕府は終焉し、後醍醐天皇の親政が始まります。 天皇は公家中心の政治を考えて、公家の荘園などを保護したため、武士たちの不満が高まり、足利尊氏を中心に不満が爆発、あくまで天皇に従う、楠正成や新田義貞と戦争になります。 一時は足利尊氏を九州に追い払った朝廷ですが、やがて勢力を挽回した足利軍が、後醍醐天皇とは別の系統の持明院統の光厳上皇を擁して京都を目指して攻め上ってくると、もはやなんともならず、楠正成も湊川の合戦で破れ、自刃して果てます。 やがて新田義貞、北畠顕家などの朝廷側の有力武将も破れ、後醍醐天皇は吉野に逃れ、足利氏の立てた持明院統の光厳上皇に対抗して「南朝」を立てます。 これ以降は、吉野の朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝と言って、南朝には楠正行(正成の息子)などが応援に加わり、足利幕府の内紛に乗じて京都を奪還したりしますが、3代将軍足利義満の時代に、一応南朝は消滅します。 分かりやすいのは横山光輝の「太平記」という漫画などを読みますとよいですよ。 漫画喫茶などで読んでみてください。
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- buchi-dog
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「南北朝時代について解説せよ」という質問ですから、これだけで専門の学者が本を一冊書けるテーマです。 勉強というのは、ネットで検索するのではなく本を読むのが基本です。ネットの情報、特にこういった学問的な事柄に関する情報の多くは、誰かが学者の本を写したものに過ぎません。 基本的な文献として、「日本の歴史 9 南北朝の動乱改版 中公文庫」あたりを読んでください。 http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31473164 基礎的な勉強をした上で「本を読んでもこの点が分からない。教えてください」と改めてここで質問すれば、適切な回答を得られるでしょう。 なお、質問の際に「何らかの課題やレポートのテーマを記載し、ご自分の判断や不明点の説明もなく回答のみを求める質問は、マナー違反であり課題内容を転載しているものは著作権の侵害となりますため質問削除となります。こういった質問対し回答する事も規約違反となりますのでご注意をお願いいたします。」という注意書きが出ているはずです。ご質問はこの規約に触れるようですので気をつけてください。
- ss79
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後醍醐天皇は鎌倉幕府の衰退と武士層のこれに対する不満の蓄積を見て、鎌倉幕府を打倒し天皇親政の時代に戻す事を計画しました。 そして公家領や寺社領、一部の武士層を味方につけて挙兵したのですが、鎌倉幕府が派遣した東国武士団が強く敗北して吉野ににげました。 そこで盛り返すべく各地に兵を募りましたが劣勢をみた近畿の武士層は躊躇して募兵に応じる者はなかったのです。 楠正成は現在の大阪府一帯に住んでいた散所の民の首領でしたが散所の民の身分を改善する為募兵に応じ、吉野にはせ参じました。 従って名のある武将ではありませんでしたから後々まで軽く見られたのです。 これに対し足利尊氏は東国源氏の出身でかなり有名な武将で京都に攻め上った鎌倉勢の中でも重要な位置にいました。 彼は平氏出身の北条氏に対抗する為に担ぎ上げられて反幕府軍の大将になったので権威をつける必要から後醍醐天皇方に参加し勅命を受けたのですが、本当の天皇方ではありませんでしたから後に後醍醐天皇に背きました。
お礼
回答ありがとうございました。
- REDTAILCAT
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鎌倉幕府末期、天皇親政を目指したのが「後醍醐天皇」 それを追い出して、武家政治を展開したのが「足利尊氏」であり、北朝がた。 後醍醐天皇ら、南朝軍の武将が「楠木正成」
お礼
回答ありがとうございました。
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