• ベストアンサー

南北朝の動乱

南北朝の動乱のあたりで、足利尊氏とか後醍醐天皇にかかわっている重要な人物やテスト対策として絶対暗記!の語句を教えてください。

noname#63710
noname#63710
  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

用語は 建武の新政 二条河原落書(これは全文暗記?) 悪党(楠木正成に関連して) 人物は 新田義貞・改名前の足利高氏・楠木正成 北朝は誰が初代で何代続いたか?(または何統と言うか) 南朝は誰が初代で何代続いたか? 後醍醐天皇は誰の何と言う時代を理想としていたか? ウチら歴史マニアの友達とは「三種の神器」をすべて漢字で書けとか問題を出し合いました~(w テストガンバ~

noname#63710
質問者

お礼

楠木正成が悪党だったというのは、初めて知りました!! テストはもう終わっちゃいましたが(-凵-;) 詳しい情報ありがとうございました(人'A`)

その他の回答 (1)

回答No.1

残念!そういう相談はここでは禁止だぁ。

関連するQ&A

  • 南北朝時代

    いくつかお聞きしたいことがあります。 歴史を漫画で勉強しております。 足利尊氏と新田義貞が戦うのですが、どちらが誰に命令されて、戦うことになるのですか? 南朝は大覚寺統らしいのですが、大覚寺統の天皇は後醍醐天皇しかいないのですか? 崇光天皇は後村上天皇により廃位され、光明天皇と崇光天皇は拉致 と書かれていますが、そのあとどうなったのですか? 尊氏が敗れて南北は統一したのですか? そのあとも戦いがあったのですか? このへんのことが知りたいのですが、ネットで調べて読んでもよくわかりません。 いろいろ質問しましたか、どなたか教えてください。 お願いします。

  • 後醍醐天皇と足利高氏(尊氏)との対立

    さすがの歴史好きの私も唯一苦手なのが南北朝時代なのですが ひとつ疑問が 足利尊氏は鎌倉幕府倒幕の褒美に征夷大将軍を要求しました しかし朝廷が与えたのは征西(鎮守府)将軍 この時天皇だった後醍醐天皇は何故尊氏を将軍にしなかったのでしょうか? 素直に尊氏に将軍宣下をして幕府を開かせれば その後の南北朝内乱も起きなかったと思うのです 後醍醐は朝廷の利権を守りたかった?とするなら尚更だと思いますが… 何か間違ってたらすみません この時代は苦手なので

  • 足利尊氏

    建武の新政において、尊氏討伐を命じた後醍醐に対し、尊氏は何故後醍醐にとどめを刺さなかったのでしょう。 その後60年にわたって天皇が二人存在するという南北朝時代といわれる混乱した世の中になるのは解っていたはずです。 これまでに至る経緯は省いていますが、尊氏の人物像に鍵があるように思われます。 一説によりますと、カリスマ性はあるが、政治的能力はそうでもなかったとか。 皆さまはどう思われますか。私にとってこの時代の不思議です。

  • これで、あってますか? (中学1年の社会です)

    国立の中学校に通っている中1です。 今度の月火水と期末テストがあります。 それで、社会の範囲は鎌倉時代から戦国時代の初めまでです。 そこで、自分なりに教科書やノートを見て歴史の流れを整理してみたのですが、これで大体あっているのでしょうか? ・鎌倉幕府は3代で絶えた。この機会を見た後鳥羽上皇は承久の乱を起こし、政権を天皇に取り戻そうと思ったが、失敗する。 ・しばらくして元寇が起きる。このときは自分の国の防衛だったため、新しい土地が手に入らず、御家人に与える土地がなく、御家人の生活が苦しくなる。 ・幕府は御家人の生活を救うため「永仁の徳政令」を出すが、この法律は借金をすることも禁じたため、さらに御家人の生活は苦しくなった。 ・足利尊氏は幕府を裏切り、大坂の悪党 楠木正成らと、鎌倉幕府を倒す。 ・鎌倉幕府を倒した足利尊氏は、後醍醐天皇にほめられた。 ・後醍醐天皇は「建武の新政」を行い、京都で政治を始める。 ・しかし、足利尊氏は後醍醐天皇の政治に不満を持ち、北朝として新しく天皇をたてる。 ・後醍醐天皇は南朝として、吉野へ逃げる。 ・南北朝時代が始まる。 ・足利尊氏が勝利し、南北朝が統一される。 ・主語は国内の地頭や新興の武士を従え、領地を拡大し、守護大名となる。 ・守護大名は京都に住むようになる。守護大名は家来を「守護代」に任命し、領地の管理を任せる。 ・守護代は任された土地を完全に自分のものにし、暴走を始める。 ・守護代は領地内で下剋上を繰り返し、戦国大名となり、1つの国として政治を始める。 です。 すごく長くなりましたが、よろしくお願いします。    

  • 楠正成と後醍醐天皇と足利尊氏について。

    楠正成と後醍醐天皇と足利尊氏ってどんな関係だったのですか? その時代の情勢を知りたいんですが、なかなか的確なサイトが見つかりません。どなたか歴史の知識がない私にもわかるように簡単に説明していただけないでしょうか?よろしくお願いします。

  • 南北朝の時…三種の神器は?

    南北朝分裂の時 三種の神器はどうしたのでしょう? 北朝の光明天皇が持ち去ったのか 南朝の後醍醐天皇が持ち逃げしたのか… あるいは三個のうち何個かをどちらかが 残りをどちらかが という感じで分けたのか… 神器をもって正当な皇族皇統とするならば北朝の光明方に無ければならないと思うのですが…

  • 我が国の南北朝時代の始まり(北朝の光厳天皇)

     高校の日本史では、 南北朝が分裂していた期間(両統が、皇位の正統が自分にあることを主張)は、1336年に北朝の光明天皇(在位1336~1348)が即位してから、 義満の呼びかけにより1392年に合体するまでとされています。 他方、同じく高校の日本史では、 北朝の光厳天皇(在位1331~1333年)と南朝の後醍醐天皇(第96代;在位1318~1339年)の在位がダブっていると教えられます。 これは、どう解釈したらいいのでしょうか?  1331~1333年の間は、 もはや、大覚寺統と持明院統の両統迭立は成立していないように思われます。 退位してから再び(別の名前の)天皇になられている場合もありますので、 後醍醐天皇の在位が、1318~1331年及び1333~1338年となっていれば、1336年から南北朝の分裂とする説明も納得がいくのですが。 (後醍醐天皇が、1333~1338年の間も同名の「後醍醐天皇」であることが問題なのでしょうか?)

  • 南北朝の「南朝」が皇室の正統なのは何故?

    かつて南北朝時代には「南朝」「北朝」の2つの朝廷がありましたが、 現在の天皇家は北朝の子孫です。 なのに、なぜ天皇家は「南朝」を正統と認めているのでしょうか? 現在の天皇家が正統であると主張したいならば、「北朝が正統」と 言ってしまった方が都合がいいと思います。 「皇位継承の証である三種の神器は南朝が持っていた」とされていますが、 その程度の歴史なんて、都合が悪ければ多少改竄でもしていい気がします。 南朝正統論の背景とは、後醍醐天皇に対する敬意でしょうか? もしくは後醍醐天皇の怨念に対する鎮魂が意図されているのでしょうか?

  • 南朝 吉野に遷都しなかったのは何故か?

    南北朝時 正式な皇統は南朝です と言う事は当然後醍醐天皇の居る吉野に遷都があっても良かったと思うのですが 無かったのは何故でしょうか? 後醍醐天皇自身に遷都と言う考えは無かったのか? それとも北朝の阻止によって不可能だったのか?

  • 足利将軍の代数

    足利将軍は足利尊氏~足利義昭までの15代と言われています。 足利義稙は10代将軍と言われてますが、二度将軍になっています。 なぜ、10代・12代将軍ではなく、10代将軍となっているのでしょうか? 同一人物である、皇極天皇・斉明天皇は重祚して35代・37代天皇、孝謙天皇・称徳天皇は重祚して 46代・48代天皇、とされ、天皇は二度目の即位もカウントされています。 これには何か理由があるのでしょうか? 個人的には天皇の代数と同じように、二度目の将軍就任もカウントされる方が自然に感じるのですが。