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足利尊氏は

足利尊氏は何故鎌倉じゃなく 京都に幕府をおいたのですか?? 教えてください。

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  • tanuki4u
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回答No.6

幕府って何かと、政権の正統性はどこからくるのか?時代が南北朝であるってのがポイントかと。 そもそも幕府とは、将軍が戦場にいるときの臨時行政組織といえます。将軍がいてその部下がいれば、そこが幕府。 将軍を任命するのは天皇ですので、天皇を管理下におく必要があります。遠くにいても管理できれば、あるいは、ちゃんと将軍に任命してくれる慣習になっていれば遠くにいてもなんの問題もない。 遠くで管理したのが江戸幕府。 遠くても、源氏の統領を将軍にするのが道理だよねというのが鎌倉幕府。 ところが時代が南北朝で、常に北朝を正統として、武力で守らなければならなかったのが、足利幕府成立の時代背景です。 北朝を守るのに一番都合が良いのはどこにいるべきか?それは京都ということになります。 それで 京都に将軍が常駐=京都に幕府となります。

その他の回答 (7)

回答No.8

 現在、週間ポストに井沢元彦さんの「逆説の日本史」に、幕府を開く当時、足利尊氏を支える武士は、機内中心であった。その機内中心の部隊が、京都に幕府を開く事を希望したので、鎌倉ではなく京都に幕府を開いたと記述があります。  海音寺潮五郎さんの歴史エッセイには、尊氏は、鎌倉に幕府を開きたかったが、種々の事情で京都に開いたと記述してあった記憶があります。理由は具体的には書かれておりませんでした。

  • manaki
  • ベストアンサー率14% (5/34)
回答No.7

日本の中心だったという説があります。

  • aminouchi
  • ベストアンサー率46% (376/804)
回答No.5

単純に言うと、京都が政治の中心の1つであったからです。 鎌倉時代は中学校程度ですと「武士の世の中」と習い、鎌倉が政治の中心地と習いますが、実はその頃も京都にある朝廷も国司を任命して税を集めたり、各地の荘園から上納金を取ったりして政治の中心の1つでした。ですから、鎌倉幕府も六波羅探題というのを設置して朝廷の動きを監視していたのです。 後醍醐天皇による「建武の新政」は幕府を倒して権力をふたたび京都に一元化しようとする試みと考えることもできますし、実際、幕府を倒してそうなったわけです。ただ、鎌倉将軍府や陸奥将軍府を置くなどして地方の武士を抑えようともしています。 だからこそ、この後、天皇方から京都を奪取した足利尊氏は京都に幕府を置き朝廷(天皇や公家)の動向を抑える必要があったわけです。ただし、鎌倉が武士政権の根拠地であったことを考慮して鎌倉府を設置して弟の足利直義をその長として周辺を治めさせました。 つまり、この頃には京都と鎌倉と二つの政治の中心があったが、後醍醐天皇により、政治的中心としての京都が復活し、足利尊氏もその流れの中で京都の方が重要性が高いと判断して政権をおいたのです。

noname#113260
noname#113260
回答No.4

室町幕府の成立は1336年11月7日ですが、この時幕府の基本法である「建武式目」が発布されました。 そもそも足利氏は「足利」という名前から分かるように(足利に土着した源氏の一門の意味)東国武士でしたが、この時点では足利氏を支持する武士の多くは近畿の武士が多く、本拠地を京都に置くことになります。 そもそも足利氏がその後の徳川氏のように諸大名から抜きん出た存在になり得なかったのは、初代:尊氏の個人的力量によります。 どんな武将だったかを同時代の天龍寺僧侶:窓疎石によれば 「気前のよい性格」「勇敢で、戦で恐怖感を持った事が無い」「慈悲心にあふれ、他人を憎む事が無い」「家族には優しい」 等と述べてます。 一方、同じく幕府の初代:頼朝や家康がどんな人かというと 「猜疑心が強く冷酷」「目的の為には家族も殺す」など、個人的には尊氏とお付き合いしたくなります。 さて、長々と書いてきましたが、この尊氏の性格がどうしたかというと、弟:義直とその養子(尊氏の実子)が反乱し、九州地方を取られてしまったり、瀕死の吉野南朝が息を吹き返してしまいます。 ライバルになりそうな人間は早めに除かないとこういうことになります。 こうなっても尊氏は弟を殺せず、大名たちも両派に分かれ分裂、結局この初代の優しい性格による幕府の脆弱化により、東国にも移れず、弱いまま室町に根をおろします。 その後、幕府は3代義満で一応の安定を得、5代義教の代に最大勢力を迎えますが、義教が赤松氏に暗殺され一気に衰亡に向かい、無気力将軍:8代義政を経て、応仁の乱に突入していきます。

  • yahuna
  • ベストアンサー率43% (13/30)
回答No.3

こんにちは。 尊氏は、上京して後醍醐帝と争った時、楠正成によって散々に破られ、九州まで落ちています。 その後、各地で兵を募り、再度西上して後醍醐と決戦勝利しています。 当時の正成は、守護や地頭でもない野武士もしくは盗賊だともいわれています。 つまり、畿内の押さえに相当苦労したのが、当地を拠点にした最大要員ではないでしょうか。 ちなみに尊氏は、九州から挙兵に応じた地方豪族に、政権取得後、領地を惜しみなく与え、幕府自体の直轄領が僅少だったため、弱体化し戦国時代へ突入することになりました。

tenach-me
質問者

お礼

長文わざわざありがとうございます。 凄くわかりやすくありがとうございました。 1度負けたのは知りませんでした。 ありがとうございました。

  • Tsan
  • ベストアンサー率20% (184/909)
回答No.2

後醍醐天皇の朝廷との対立が深いためにらみを利かすため、もしくは鎌倉幕府の北条氏の影響がない地方を選んだのでは?

tenach-me
質問者

お礼

ありがとうございます。 なるほど。これでバッチリですw

  • rmz1002
  • ベストアンサー率26% (1205/4529)
回答No.1

素人考えでは「自分がその時納めていた(=居住していた)場所で開いた」という単純な理由では? 源頼朝(鎌倉)でも、徳川家康(江戸)にしたってそうでしょ。

tenach-me
質問者

お礼

ありがとうございます。 単純に考えればこれでいいんですね☆ 簡単でとっても覚えやすいですw

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