• 締切済み

《因果の道理》は 道理ではない。

NemurinekoNyaの回答

回答No.14

こんにちは。 ☆つまり カルマが 善か悪かそれともどちらでもない無記かに分かれるということで よいはずです。 ◇善、悪、無記の三つに分類しますよ。 ただし、 『阿毘達磨倶舎論』では 無記(中性)のダルマは、異熟因・応報の因にはなれませんけれど・・・。 これが《無記》と同じなのかは疑問が残りますけれど、 《五位法》の《心所〔法〕》には、 《不定地法》というものがあります。 これは《善》とも《悪》とも定められない、の意味です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D 前五識と意識は、善・悪・無記の心所(心の働き、作用)を伴います。 で、 善の心の働きを伴っているとき、善〔心〕と呼び、 悪の心の働きを伴っているとき、悪[心〕と呼びます。 で、 善悪の心の働きを伴っていないとき、非善非悪〔心〕と呼びます。 ただし、 ここでいう《心》は、《こころ》総体の意味ではないということに注意が必要です。 ここでいう《心》は、 慣用的な表現である《悪い心》が起きたのこの《心》の意味だと思ってくださいませ。 よくは分かりませんが、 「《悪い心》や《善い心》が起きた」という日本語表現は、 ひょっとしたら仏教のこうした考え方が背景にあるのかもしれませんね。 ☆2. 《(善とも悪とも)言えない(中性の)ダルマ》というのは カルマに絞って見た場合 けっきょく中性≒つまり無記としての楽果か苦果かのいづれかであると――これまでのやり取りにもとづくなら――なるはずです。 ◇です。 ☆3. 《中性の》と言っても 楽か苦かだということです。つまりそれらは《自分の思うように成るか成らないか》であってみれば そしてたとえ《感覚的な快不快》に過ぎないものであろうと やはり主観にとっては 善か悪かに分類される。と見て マチガイはないでしょう。 ◇とは言えないのでは。 《快》《不快》《快でも不快でもない》、 《好き》《嫌い》《好きでも嫌いでもない》の三つが存在するのでは。 経験的にこの三つの状態があると考えるべきなのでは? 仏教は、この三つの立場をとっています。 ☆4. つまり カルマにしぼってブディズムの因果論を捉えるならば 善因楽果か悪因苦果かのどちらか一筋の歴史的な線分を言っていると捉えられます。 ◇異熟なる考え方を使って、 善悪因中性果 を認めています。 さらに、 中性因中性果も、 仏教は認めています。 《善因楽果》《悪因苦果》の一筋の歴史と考えるのは、 仏教の基本的な知識の欠如であって、 その責は、勉強をしないその人本人が負うべきなのでは。 また、ここでいう《因》とは、基本的に有意志的な行為であり、 この行為を行う、行わないのは、本人の選択です。 自らの行いで、《悪因苦果》の流れ、連鎖を断ち切ることは、できるんです。 もっとも、こうした教えが、あたかも、決定論的なものであるというような誤解を与えているとするならば、 その責めの一部は、指導的な立場にある仏教関係者も負わなければいけないでしょうけれど。。。 ☆6. すなわち この恒常的な《善悪をふくむワタシの状態》が 社会の中で時間的にいとなむ履歴の中から因果関係を取り出す。そのとき ブディズムはそこからわざわざ善の系列か悪のそれかどちらか一本に分けてしまって 善なら善 悪なら悪といったそれぞれの要因だけのかたちをした因果論を説いている。善と悪とは あたかも水と油のごとく分かれているという錯覚をも起こさせがちである。 ◇仏教は、哲学のように現象説明の学問ではなく、 「悪い果・苦しい果を招かないようにするため、悪因(悪い心)を断とう。少なくとも悪因(悪い心)が生起しないようにしよう」という実践的な教えですよ。 善因善果や悪因悪果を説くときには、 かならず、このことを説いていると思うのですが・・・。 ☆ ◇ 善と悪の因から、無記性のダルマが生まれることもあるんですよ。  ☆ このいまの段階におよんで なおこのような宇宙の果てはどうなっているかのたぐいの発言が出されて来るということは 問い求めの放棄であると断定します。 ◇仏教の善悪論は、オノレの《こころ》に《善い心の作用》や《悪い心の作用》があるか、それが発現しているかどうかです。 この一点に絞られます。 宇宙の果ての話などしていません。 そもそも、仏教でいう《カルマ》は有意志的な行為の意味です。 この有意志的な行為(表業)によって、今のワタシは影響される。 結果として行為として発現しなくとも無表業として残り、《防善・防悪》を行う作用となる。 ───説一切有部は、この無表業を物質的なものとしてとらえますが─── 《善》や《悪》を外在するものとしてとらえず、自身の《こころ》に内在するものとしてとらえる。 だから、 《心》と《心所法》を立てるんです。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ○ 価値判断としての 無記≒中性   ☆ これは 因果関係の議論として あまり触れずに置くようになっています。因としても果としてもあるいは両方としても それらの要素に無記が出て来ても 善因楽果か悪因苦果かの二本の系列から別のところにあると見ておいてよいと おそらく 考えられるからです。  ◇ 善悪の心の働きを伴っていないとき、非善非悪〔心〕と呼びます。  ☆ これについても 無記として いま 扱ってもよいのではないでしょうか。  ◇ ここでいう《心》は、 / 慣用的な表現である《悪い心》が起きたのこの《心》の意味だと思ってくださいませ。  ☆ これは わたしの理解では さしづめ《記憶という行為能力》が 全体としての《心》を表わし 《知解》しさらに《意志》するその具体的な内容をともなう《心》との区別ではないかと考えます。いまの議論に特にはさしさわりはないと思います。  ◇ 不楽不苦  ☆ これも 中性≒無記に分類してみておきます。  さて こうして一応《善・悪・無記》に分けておくというとき そうではないということだそうです。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《快》《不快》《快でも不快でもない》、  《好き》《嫌い》《好きでも嫌いでもない》の三つが存在するのでは。  経験的にこの三つの状態があると考えるべきなのでは?  仏教は、この三つの立場をとっています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もしこうでしたら ここで採る道は ふたつにひとつです。  ( a ) 無記は措いておいて 善因楽果か悪因苦果かの因果論を展開すると見たブディズム観がマチガイであるのなら もうここまでとしなければならない。ブディズム論ではなく 単なる世間の通念としての因果応報説の問題であったという取り扱いです。  ( b ) あるいはそれでも 善・悪・無記と違う三つに分類していても それぞれが大きく広くやはり善・悪・無記の区分に当てはめ得て やはり善因楽果うんぬんという議論が ブディズムにもあると見るかです。《快不快・好き嫌い》をそれぞれ 善悪という範疇に入ると見ることが出来るかです。  ひとまづ措いて 次にすすみますが:  ◇ ~~~~~~~~~~~~~  異熟なる考え方を使って、  善悪因中性果  を認めています。  さらに、  中性因中性果も、  仏教は認めています。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《中性因中性果》は 無記因無記果として ここでは別とすることができるのではないかと見たものです。  《善悪因中性果》 これも こまかい分類になっていますが・そしてこれは 《善因中性果 および 悪因中性果》のふたつのことだと判断しますが 要は そのようにして善か悪かまた無記かの一つの要因を取り出しその一本の線で因果論を語るというところに注目しているわけです。    で これを論じるにあたって まづ  ◇ もっとも、こうした教えが、あたかも、決定論的なものであるというような誤解を与えているとするならば、  ☆ という見方までは いまここでは進めてはいません。《決定論》か否かの問題には到らないかたち(段階)で 問い求めています。  ですから  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  また、ここでいう《因》とは、基本的に有意志的な行為であり、  この行為を行う、行わないのは、本人の選択です。  自らの行いで、《悪因苦果》の流れ、連鎖を断ち切ることは、できるんです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という展望は いまの問い求めとして あり得る・持ち得ると言える恰好です。  言いかえると その《〈悪因苦果〉の流れ、連鎖を断ち切る》のも 因果論の扱いの中に入っているはずです。  〔つまり 物言いを呈する側から言えば このような無明から無明に到る因果の流れを断ち切り 明知から明知への流れに変えるという意志行為(それとしての因果の過程)にも じつは つねにワタシの状態には《善と悪と無記》の要素があつまっていると見るものです。  言いかえると そのような《善・悪・無記なる要素から成るワタシの状態》が つねに過程しており そのような存在ないし人格の全体を基礎としてその上で 無明を断ち切るとか 明知への即身成仏とかという命題ないし経験を捉えて語る。ということです。つまり いちいち善因楽果とか悪因苦果とかの一本線では 捉えないという意味です〕。    ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《善因楽果》《悪因苦果》の一筋の歴史と考えるのは、  仏教の基本的な知識の欠如であって、  その責は、勉強をしないその人本人が負うべきなのでは。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは それら二つの一本線のどちらかだとブディズムは 言っているのではないのでしょうか?  つまり基礎知識の欠如というのは 《無記》の要素に くわしくは《中性》だとか《非善非悪》なり《快不快に非ず》なり《好悪に非ず》なりだとかの細かい分類があるといったことについてだけ 言っているのではないでしょうか。これは いまの議論としての大勢に影響しないと考えます。  ○ 《善因楽果》か《悪因苦果》かのどちらか一筋の歴史としてブディズムは因果論を考えて来たのではないでしょうか?  依然として この問いです。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  仏教は、哲学のように現象説明の学問ではなく、  「悪い果・苦しい果を招かないようにするため、悪因(悪い心)を断とう。少なくとも悪因(悪い心)が生起しないようにしよう」という実践的な教えですよ。  善因善果や悪因悪果を説くときには、  かならず、このことを説いていると思うのですが・・・。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いいえ。すでにいま上で触れることが出来た議論ですが こうです。  ○ 《「悪い果・苦しい果を招かないようにするため、悪因(悪い心)を断とう。少なくとも悪因(悪い心)が生起しないようにしよう」という実践的な教え》 これこそが 善なる因果系と悪なる因果系とに分けてしまっているという見本になります。  ☆ つねに《善・悪・無記それぞれをふくむワタシの状態》として・その実存なる発進として ひとは生きています。いちいち 善か悪かで分類するその考え方が 元凶であると言って来ています。人間を片寄って見てしまうおそれが じゅうぶんにあるからです。全体としての人間・人格を見ないようになるおそれがあります。  これが ブディズムの犯した罪悪です。  ◇ 《防善・防悪》を行なう作用  ☆ この見方・考え方が 狭くて一面的なものだと言って来ています。  それが 善か悪かに分ける間違った考え方だと言わなければならないはずです。  もし言うとすれば 《人間の防衛》です。つねに善をも悪をもふくむ状態にあるワタシをそれぞれが互いに防衛することです。  人間観が 要素還元主義に落ち入っている。  (要素があることと 要素に還元して捉えることとは別です。その要素があたかも単独で分立し おのれの道をすすむというかのように要素を擬人化している。おそらくそれは 《ブッダ》をふつうの人間から分離してしまうかのように扱ったからだと思われます。ほかの人間には おれの得たこのさとりは いくら説いても理解し得ないだろうというそのおつむの旋毛の曲がり具合いが 原因であろうと考えられます)。  つまり この要素還元主義が 善悪観ないし世の中のものごとについての価値判断に際しての思想として 幅を効かせてしまっています。

関連するQ&A

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら因果応報説のほうには 原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因善果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でした 責任はひとえにわたしにありますと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親レベッカの胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 因果応報、善因善果の実話

    自分のやったことは自分に戻ってくる、という意味で因果応報とか善因善果という言葉がありますね。ご自身の経験や身近の出来事で見聞きした事で、ああ、これは、因果応報だな(良くない行いをしたら、良くないことが起こった)善因善果(良い事をしたら、いいことがあった)と思えるような実話があったら教えてください。検索してみますと、因果応報は、恋愛関連の話(不倫や略奪婚の結果など)が多いようですが、できればそれ以外でお願いします。(中学生に例を挙げて具体的に話したいので。)恐縮ですが、できるだけ詳しくお願いいたします。宜しくお願いいたします。

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でしたと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親の胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 輪廻と業の説は 無用ではないか

    輪廻と業の説は 無用ではないか  あらためて問います。  (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  (2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか?  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?

  • 因果と縁起の違いについて教えていただけますか

    ある本を読んで、因果と縁起について書かれていました。 仏教用語からきているのと思いますが、 因果は、Aの現象により(因)、Bの結果が必然として起こる。という考え方、つまり、Aがおこれば必然的にBの結果が生じる ということでした。 これは理解しました。 しかし、縁起が理解できません。 「縁起』とは何かに『縁』って『起』きることである」 と説明がありますが、これはどういうことでしょうか? さらに、 「存在も出来事も縁起です。自分以外のいろいろなものとの関係のつなぎ目です。選択は人生における大切な縁を生み出す行為です。」 とありますが、これは 「その都度ベストな選択をしていれば、大切な縁が起こる」ということで その現象を縁起というということでしょうか? Aが起これば 必ずBの結果になる が因果で、 Aが起これば、偶然的な要素(縁)が作用して、Bになる確率が高まる、それが縁起ということでしょうか? どなたか教えていただけますでしょうか。

  • 欲望には悪と善の因が。 善の方はしかし?

    欲望は 自我の殻の内側に人を閉じ込めさせます。 そこから悪としての争いの因が生まれたりします。  しかし 同時に 欲望は、それをよく見つめることで  感性を深める道にも通じ それによって感性が深まれば自我は突き破られ  人への善の真心も生まれます。 そのへんの善の方の因果を なぜかあまり聞きません。 解ると思える人がおられましたら、 是非御回答をお願いします。 反論でもいいです。 欲望なんて悪の因しかないというふうな。 それなら議論しましょう。

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら善悪ないし苦楽という主観による規定が含まれます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は・という意味は 善悪を主観が判断するのだから けっきょく自業自得という考え方は ゆえに 主観の範囲を出ない。  4. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  ものごとが自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから そう(自業自得として)規定することはできない。    なら 初期条件は ナゾの何ものかによるエコヒイキである。  5. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  7. ただし 主観の問題としてわが心の内なる善行の道は捨て去ることはない。と考えてよいか?  善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 輪廻転生説は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

  • 仏法の因果倶時

    因果倶時について質問です。 佐渡御書に「人を軽しめば、還って我が身、人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報を得・・・・是は常の因果の定まれる法なり」とあります。 つまり、簡単にいうと人をバカにすれば、かえって我が身、人からバカにされ、又人の見栄えや姿形をバカにすれば、我が身に、みにくくなる報いがある。という意味ですが、これは過去の行業の果報を現在に受け、現在の行為が未来に影響するなどの因果異時の立場であります。 ここまでは理解できます。 これに対して因果倶時は仏法の極理ですが、これは瞬間の生命に原因と結果が備わっている(具している)ということですが、たとえば火に触れるは因で、熱いと感じるのは果で、一瞬間の因果であります。同じく又怒ると人相が変化する結果はほとんど同時の所作であります。が、これも厳密にいうと極めて短時間のおくれがあります。これも因果倶時とはいえません。 春に種をまいて、秋に実がなるといっても、種をまいた時にすでに実がなる。という結果を含んでいるのであると。すでに結果も含んでいるのであるということなんですが、途中、鳥などが食べてしまったらという屁理屈なしに純粋にですが、生活に約した場合善行の行為の因は、すでに結果もはらんでいるということになります。結果はいつになるかわかりませんが。もし途中で気が変わって善行をやめた場合、最初の因果倶時はどうなったのでしょうか。その善行の結果は消えてなくなったのであれば 因果倶時は証明とならないのではないかと思います。ご意見ご感想をお待ちしています。

  • 善行をすることでしか存在を肯定できない人間に、善も悪も絶対的なものでは無い、なんて死刑宣告と同じ?

    その人は、 1誰にも愛されない 2だから自分で自分を愛したい 3そのために善行をする必要が 4しかし善は絶対ではない 5明確な指標がないと動けない(という強迫観念) 6無気力に。 質問 1、困る人を救うには、それを阻む障害、場合によっては人をも裁いていく意識は危険か 2、善行の目的は、あくまでその人の自己満足であって、 しかしそれは容易くなく、過大な結果を求める以上、その人は幸福にはなれないのではないか 3、善悪が相対的なものならば、その時々で、どちらが善か悪か見定める物差しはあるか 4、そもそも、善と悪を分けることは正しいのか、というパラドックスの問題は・・・ 悩めるものに、救いを。