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「神」について。

tumaritou1の回答

回答No.14

神とは『内在しているもう一人の自分の心』です、この者との出会いを『見性』と表現しています。科学的な証拠を挙げるなら次の研究成果で考察出来ます。ウイキペデアからです。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。” この中の左脳に存在する意識が『自我意識』=『顕在意識』です。 右脳の意識は思春期頃脳の機能分化の完成を持って、『無意識の底に沈んでいます。』意識する自分は『無意識の自分』を意識する事は出来ませんが、脳梁の中では相談しながら毎日の恙無い暮らしが成り立っています。 この『二つの意識』の関係性が或る日、脳卒中になってしまって、崩れた事によって、『神に抱かれるがごとく至福な体験となって、その脳裏に焼きつかれた経験を、熱く語っている脳科学者の動画をコピーしますので、良く観察して下さい、詳しい説明はその後からしたいと思います。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM この中で語られている世界は『実際には、誰でもが毎日体験していますが、その関係性を語る場合では、『没交渉』と禅の中では語られていますが、見性体験の後からは『今更お前は誰かと聞く必要など無かった』と全ての体験者は語っています。 至福の体験とは『涅槃』を体験していると言う意味です。 涅槃の反対語は『自分の心の矛盾や対立や分裂』の事です。宗教的な表現をするなら『原罪や業』です。この意味は『深刻な悩みや疑問』と言う意味です。生きている事さえ苦しいと言う意味です。 現代社会での表現方法なら『心を病む事による苦しみ、神経症での苦しみ、自律神経失調症や過敏性腸症候群や原因不明とされている心身症』等での苦しみや生き難さ、と言う意味です。 何処から押し寄せているのか?分けの分らない、漠然とした不安感や恐怖感の事です。是が原罪や業の意味です。 こうなる原因を書いてみます、人間の苦しみは一言で言うなら『心の矛盾』の事です。意識の根底での苦しみと言う事が『深刻な悩みや疑問』と言う意味ですが、この苦しみが『右脳の意識』に関係していながら、又この苦しみからの解放が又『右脳の意識』に関係しています。 人間の苦しみは他の言葉で表現するなら『受入れられない現実を受入れなければならない時』と言う言い方も可能です。すなわち『受入れられないストレスが、心に掛かる時』ですが、このストレスとの向き合い方で、先に書いた『三つの障害』が発症したり完治したりしますので、この意味をもう少し詳しく書いてみます。 此処を説明するために、もう一つ予備知識が必要ですので、先に説明します。 自我意識は自分の心の内の『沸き上がった考えや、感情を処理するシステムです。』或いは、その結果から導き出された結論を処理する方の心です。 右脳の機能は『生命維持機能』が全てです。今現在における全ての情報を五感から取り入れて、脳梁を通じて自我意識という心に送っています。この情報は『言葉以外の伝達手段になっています。』何故ならば『右脳には言葉が無いからです。』 右脳の機能を具体的に上げるなら、三つに大別する事が出来ます。それは『身体の生命維持機能』『行動を通じての生命維持機能』『沸き上がる考えや感情としての生命維持機能』と言う風にです。 この経緯が聖書による『失楽園』と言う記述です。自我意識が『神を疑う事によって天国から追放される。』と言う事です。 始めに書いた『身体の生命維持機能』を疑う事が、自律神経失調症や過敏性著言う症候群や難治性の心身症になって『天国から追放された』と言う意味です。 二番目の『行動を通じての生命維持機能』を疑う事によって、行動が制限されてしまう神経症の症状に悩まされる事が『天国から追放された』と言う意味です。 三番目の『沸き上がる考えや感情としての生命維持機能』を疑う場合では、『感情を沸きあがらせている機能』や『考えを沸きあがらせている機能』に疑いを持つ事が『天国から追放された』、と言う意味になります。 どの場合でも脳の機能にも身体の機能にも異常が見つけられない事が特徴です。しかもどの場合でも『生き難い想いが付きまとっています。』 自身の生命の源からの圧迫を受けている事が『生き難さ』の原因になっています。 この生き難い想いからの開放が、宗教の目的になっています、言い換えるなら有限のこの身が、永遠を求めさせられている理由は、右脳の機能によっています。 人間の深刻な悩みの一つは、有限と永遠の対立です、この悩みからの開放が、これまた右脳の機能によっています。脳梁の中での出会い『見性体験』は動画に在るとおりですが、この体験以後では、『有限のこの身ではあるが、元々永遠の命が備わっていた事』を実感します。 この安心感によって『生にも死にも』執着しない考え方に変わります。死を恐怖する事は『死が受け入れられないストレスとして迫っているからです。』死の受容によって死にも生にも囚われない考えに変わるためです。 動画の中で女史が『一端生をあきらめる場面が在ります。』この諦めによって『右脳の機能=命の働き=仏性=神』との出会いがあります。 右脳の機能とは、生命維持機能の他に、生命発生装置としても働いていました。生命として誕生した瞬間から『細胞分裂をする順番を全て知り尽くして働いていた事実があります。』その証拠が無事な誕生です。 生まれてからは、心臓でも肺でも神経でもホルモンの供給でも発汗作用でも、全てを知り尽くして働く機能ということです。 何も学ぶ事無く、何も知らない筈なのにです。生まれたばかりの赤ん坊が『全てを知り尽くして』生命を維持できている事は『命の働き=右脳の機能=仏性=神』の働きのお陰です。 全ての障害が完治した時、自我意識は女史のように、自我意識の計らいを捨て去っています、そうして自分自身の働きの後から付いてゆくようになります、この事を聖書では『神の僕となる』と表現しています。 簡単な話にするなら、思春期前では『自律神経失調症や過敏性腸症候群』や『神経症』や『心を病む』と言う障害が発症する確立は少ないと思います、何故ならば心が未だ、脳の機能が未分化の為に『見ている自分と言う心が一つしかないためです。』 思春期頃になって、脳の機能分化に伴って、見ている自分の他に『見られている自分』が生まれたためです、その為に自分の裸を隠すようになっています。恥ずかしいと言う感情が湧き上がったり、自分は何者か?と言う疑問が沸き上がるようになります。 こう言った『結論が出そうも無いような問題に悩まされる事を』失楽園と表現していると思います。 幼子は『自分は何者か?』という疑問さえ沸きあがらないからです。

alterd1953
質問者

お礼

とても詳細なご解説ありがとうございます。 あの脳卒中になった脳科学者の動画は凄く興味深かったです。 まず、誰だか忘れましたが仏教のお坊さんが 「心の中に一無位の真人がいる。未だ照顧せざる者は見よ見よ」と言っていたのを 思い出しました。 レゲエの王様、ボブ・マーリーも 「心の声を聞け」と言いましたし フロイトの精神分析も同じような作業な気がします。 また、過去から未来へつながる分析を続ける左脳が停止した時 世界との一体感に包まれたのも面白いですね。 正に「臨死体験」や、シャーリー・マクレーンが「アウト・オン・ア・リム」で書いていた神秘体験の世界ですね。 私は、物事をとことん考え抜くのが好きなのですが 釣りをしたり、バードウォッチングをしたり 公園でサックスを吹いたりしている時が最も生きている実感がある原因が これで良く分かりました。 やはり、右脳と左脳のバランスが重要なようですね。 確かに、左脳で分析している時には苦しみがあり孤独感もありますが どこかで、カチっとスイッチが入り、ジグソーパズルのピースが揃った時には 得も言われぬ快感に襲われます。 私は、両目でしか得られない「奥行き」と言う感覚は 片目でも得られる「形」や「色」等の情報より高次の情報であると言う考えを 支持しますが 左脳と右脳があって初めて立ち現れる世界に目を向けたいと思います。 ご回答ありがとうございました。

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