• 締切済み

「神」について。

「神」について思うことを教えてください。 私は、人間の願いを都合良く聞いてくれる全知全能の神は到底信じられませんが この世の全てを統べる法則がもしあるのなら、それを「神」と呼ぶことに異存はありません。

みんなの回答

回答No.27

 こんにちは。こちらの皆さんはお立場違えども、 夫々エチカル倫理学をお持ちなので心休まります。 Go Ahead!Ciaopolpoさん。キープ・オン!おせっかいでも何でも構いません、その気っぷと仁義が楽しいです^^。 「クラスの女子で、何か意見を言うのは私だけだった」と仰られてた学校時代のお話思い出し、その主体的生き方聞いただけで、心強く思ってました。宗教・哲学に懐疑的なのは必要条件です、でもちゃんと付き合えば十分条件よ。 誤解があるかは解りませんが私、シスターの皆様方を完全に信頼してます。 それは、たとえ見捨てられても(笑)決して揺るがぬもの。何言われても構わないのです。 とまあそれを言い訳に私も好きに言ってますから^^、あしからず。  自分の信頼とは一方的なもので、見返り要求するものではない。それをヨブやキリストから学んだという事です。保障は無い、コミュニケは一回ごとの‘暗闇の中の飛躍’。  サイトにはかつて宗教カテゴが有ったそうですが質問を装った、あまりの勧誘布教が眼にあまり閉鎖されたらしい、その流れが哲学カテに来てるそうですね。 だから只のドグマ・自説に拘り、否定されると言い争ってる質回たまに眼にします。主様日頃仰るように、まあウンザリだわ。 哲学の根本に倫理学=仁義無ければ話にならんのに、遊びでやっておられる、。 対してここの回答No16様は御立派な倫理学です、本気なのが解る。  キリスト者とは、クリスチャンであるだけでは十分ではなく、いわばイエスを同時代人と見て、神と直接対峙して、イエスと同じように生きる事だと何人かの哲学者は捉えてる。ニーチェですらそう。 他者との対峙では、レヴィナスvsデリダも本気で迫ってます。 中でもキルケゴールの「単独者」。http://oshiete.sponichi.co.jp/qa5310559.html この回答は哲学者への批判も含めて、しっかりしてると思う。 厳しすぎる道ですが、イエスが今生きてたらどう振舞うか?例えば先日の踏切救助事故では如何に? 正に愛の行為であるけど無謀でもある。 その時の理性的で最良のやり方は?  イエスは実在の人でもあり、聖書も現実の出来事として読むと、今と地続きです。 イエスの行為の何処が素晴らしく力強いか?何処でミスを冒したか?全て正しいとする必要は無い。<信じ切ってはイケナイ>と書いたのもその事。イエスの闘争を現代に活かす為にです。 新約はそのリアリティー、教訓に満ちてます、実際の戦いだったです。それを称して田中小実昌が、 <イエスは迫り来る。>と言ったのでしたね。 十全にはできませんがせめて、 キリストが喜んでくれるように、私も振舞いたいという事です。 ボブ・マーリーの事を,「まあ良くやってくれた!」と喜んでると思うよ。 倫理仁愛は、哲学語る際には避けて通れません、私も己れケツ叩きながらです、ああシンド!です。 でもフーコー・ドゥルーズが「愉快にやれ!」と言ったのはホッとします。

alterd1953
質問者

お礼

いやぁ、ホント。 私もナメてた訳じゃないですけど 核心をズドーンと突くご回答をいくつも頂いて驚いております。 なんか、中身の無い哲学書読むよりよっぽど勉強になりました(笑) あの、キルケゴールの回答も素晴らしかったですね。 前にも書きましたけど、レトリックには多々不備があったように思いますが キルケゴールの単独者としての姿勢は凄みがありますよね。 私は、実存主義で1番好きな言葉は 「存在の明るみに立つ」なんですが 仰る通り、ボブ・マーリーもそうですが キリスト的な人は何度も出現してるんですよね。 例えば、ガンジー、ルーサー・キング、ネルソン・マンデラ、マリア・テレサ ジョン・レノン、ボブ・ディラン、スティーヴィー・ワンダー、マイケル・ジャクソンなんか 私にとっては皆そうです。 まぁ、私のような癇癪持ちが到底宗教家にはなれませんが せめて、音楽の国の辺境に住む倫理的な人間ではありたいと願っています(笑) ではまた(笑)

alterd1953
質問者

補足

運営さんに注意されましたので、そろそろ締め切らせて頂きます。 沢山の素晴らしいご回答を頂けました。 皆様ご回答ありがとうございました。

noname#202494
noname#202494
回答No.26

マークさんに誤解されてしまったようなので、もう一度だけ、私にチャンスをください。 もう、お分かりでしょうが、私は哲学にはあまり興味がありませんね。ですから、例えば、alterdさんのもうひとつのご質問、”苦悩について”なら、思いつくことは、まぁ、現在の所、中東に単身赴任中の夫の浮気が発覚したら、苦悩するであろう、と想像するばかりです。 もうひとつは、物心ついてからずっと、実父母に囲まれた家庭を経験したことがないので(兄弟もいません)、なんでも自分で決断し、その際にも他人を信じることはありませんでした。最近、十年来の友人の恐ろしい面をみて、こちらから切り捨てた経緯もあり、人間に対しては、すこぶる懐疑的です。(哲学者も人間ですからね~。) まぁ、そんなバックグラウンドがあって、人間に一番大切なのは温かい心であろう、と判断しています。スポニチだろうと、ハスラーだろうと、何でもよろしい。言葉遣いは、洋服と同じです。私にとっては、何の意味もありません。 以上をご理解いただいて、その上で、もしも、私の愛する人が誤解されていたら、おせっかいとは知りながら、どうしても、一言、口を挟んでしまいます。それで、彼がより深く理解されるなら、こんなに嬉しいことはありません。 しかし、勢い余って、”上から目線”なる印象を与えることがあり、それで、逆効果になることも、ままあります。自制しているつもりですが、おばさんと言えども私も人間、つい、境界線を越えてしまいます。ただ、感情的になることだけは絶対に避けているつもり。。。つもりです。 そんな所で、ご勘弁いただけると幸いです。 <あなたの信仰を信じ切ってはイケナイ(Marc2記> 昨夜、ご回答を再読して、”アッ”ときがつきました。ご忠告、胸に刻んでおきます。 これから、社交ダンスのレッスンです。今週末、競技会なので、しごかれています。アデルさんや、alterdさんのような、無我の境地に到達できますように。 質問とは、あまり関係のない回答、お許しくださいませ。

alterd1953
質問者

お礼

なるほど。 こちらのサイトでも、キリスト教に対する質問自体があまりありませんし もしあっても、良い回答を見たことがありません。 だのに、Ciaopolpoさんのご回答にはいつも納得させられて感心していました。 根本に根強い人間不信がおありだったのですね。 私は、三才の頃に母を亡くしましたが 父親が、親戚が兄と私を預かると言ってくれたにも関わらず 預けませんでした。 もし、預けられていれば、例え、親戚といえども、もっと気を使う子供になっていただろうと父親に感謝しています。 そして、私は幸い、父親は勿論、継母にも愛されていると言う感覚も持てて育ちました。 それがもし、そういう感覚を持てずに育ったならと思うとぞっとします。 それなら、キリストの大きな愛がとてつもなく意味を持つことは想像に難くありません。 実際「本当に心の温かい人」は少ないですもんね。 私も、「高慢な人」や「ずるい人」「意地悪な人」等には非常に強い嫌悪感を持ちますので 宗教家には決してなれません。 それ以外には優しいんですけどね(笑) ではまた(笑)

回答No.25

 こんにちは皆様。ここでは一応哲学の立場から発言してます事、御了承下さい。 しかし真面目なクリスチャンの方もいらっしゃるのに私、適当な事も書いてしまいました、深くお詫びします。 (Marc2記^^)←これは私の事デス、スミマセン。聖マルコ福音書とは区別できるように記したつもりでしたが、アメリカではマルコではなくMarkでしたね、忘れてました。 悪乗りです、ついエンターテインのつもりでやってしまいます。どうかお許しを。 「エリエリ・レマ・サバクタニ。何故に我を見捨て給うか!?」マタイ27章46節。詩篇22の事は私の質問<モーゼ律法戒律>の御回答No10様への御礼で書きましたが、なぜ詩篇のその冒頭だけを唱えたのか?又何故今の教会はここでは旧約の例に依るのか、。一般にはやはり神への疑義だと考えられてます。でもいいじゃないですか?それこそキリストその人の神性のリアルが表れる、だってイエスは当時のユダヤ教会に闘いを挑んだのですから。その神がラビの方を選んだとて何らキリストの価値は下がりません。 救済が確約されてない事こそ本当の信仰であると哲学者達は捉えてます、例えばキルケゴール。私も信仰自体が救済だと考えてます。 <信じても救われぬ事も有る(cfヨブ>。これは現在のヨブ記にはヴァリエントが有って、最後までヨブが救済されなかった方が本来であり、今のハッピーエンドは後に付け加えられた物、という説が有ります。本来のままではあまりに救い無く布教にも支障来たすという理由で。真偽は定まってませんが、仮に本来のでもユダヤ教の真髄は損なわれない、むしろ信仰の畏ろしさと強さが表れてるという意味で、私はその説に驚愕しました。見返りなど無いんだよ、という事ですね。それでも良い。 <重要なことは・・・faithで、彼の家族の生死は重要ではない、>仰る通りです。 ヤハウェ、エロヒムの神が私を見捨てられても、どうぞシスターの皆さんは見捨てないで下さい(御免。 <あなたの信仰を信じ切ってはイケナイ(Marc2記>これは何人かの哲学者の立場を説明したもので、特にスピノザの場合の、「疑いつつ神を信じる。」という生き方の事です。 確かに「神に酔える無神論者」であり、当時既にユダヤ教会から破門されてます。 でもどうか、キリストは信者だけのものでは無い事は御了承下さい。信仰の哲学者達は真剣です。又我々もキリスト暦で生きてますから、多かれ少なかれその影響下に生きてます。ですから教義や聖書を吟味する権利が有ります。 考えてみれば、イエスはカトリックでもプロテスタントでもないし、私はニーチェリアンでも御座いませんが、彼ら哲学者は概ね、教会ではなく、キリスト本人に戻ってその真髄を明らかにして顕揚しようとしてるみたいですよ。 しかしスピノザが‘日本的’とはご慧眼やも知れません、初めて聞きました。 確かに欧州では長い間マイナー哲学扱いでした。東洋的かも知れない。江戸幕府が阿蘭陀を選んだのも慧眼だと思いますが、何故選べたのか不思議でしたね。 デカルト、ライプニッツ、ホイヘンス、フェルメール、と正に天才の世紀・土地でした。 スピノザやカントは禁欲的といっても、快楽主義の否定もしない処がクールと思う所以です。  ああ!許されてホッとしたあ。 私も地獄や天国の殊更な描写は不必要と考えます。 クォーランの教えも偉大ですが、自爆テロで殉教すれば「天国で七人の処女に囲まれて暮らせる・・」と天国で若者を誘うのは教義を捻じ曲げてると思う。こんにちは=アッサラーム・アレイクムالسلام عليكمは{貴方の上に平和を!}です。基督教側もイエスの「私は平和を齎しにきたのではない、Swordを齎しに来た(マタイ福音書10章34節」の比喩表現を捻じ曲げて戦争遂行の根拠にしてます。  私が地獄より恐いのは、臨終時の自己意識による最後の審判。 過去の全てが走馬灯のように想起されその速度がどんどん速まり光速の意識スピードとなったら、時間の経過止まり、、するとそこは永遠ですよね?無時間なら。そこでの意識が己れの過去を有罪と断じたら、、罪の意識と後悔、厳罰の恐怖と苦悶が永遠になります。 それが地獄より恐い! 死の瞬間の意識が永遠だとしたら、。だから後悔しないように善行積む事にしました。 肉体・物質として終焉し、脳が止まって意識も途絶えても、その瞬間に観念が、エレホンErewhon=Nowhere場所でない場所?に永遠に残るとしたら、。それが本当のIDEAlism観念論の空恐ろしさ、私にとってはだけど。主様はどう思われます? 追って。  皆さま、 俺達スポニチから来てます、下品です^^。スタジアムや渋谷で騒ぐ輩ですから、怒っちゃあイケマセンよ(笑。

alterd1953
質問者

お礼

いやぁ、marc2bolantiさん。 あなた大したもんです。 今までのご精進の賜物ですね。 正直、教えてgooにそこまでは期待してなかったんですが 収穫ありまくりです。 いえね。 何かと言いますとね。 あのアウシュビッツを生き延びたフランクルがですね 「例え、死刑間近の死刑囚でも、悔い改めて死ぬのと 悔い改めないのとでは違う」と言ってましてね。 私も何となく「そうだろうな」とは思ったんですが あなたの「臨終時の最後の審判」云々を読んで改めて確信を深めました。 死ぬ間際に罪の意識に苛まれたる程怖ろしいことはありませんね。 私は今の所大丈夫ですけどね(笑) 後、以前、ライオンに育てらるシカか何かの赤ちゃんや ダウン症児の「無垢」についておっしゃってましたでしょう。 まだ、新約の途中ですが、イエスにも、その「無垢」を感じるんですよね。 正直言って、ハンセン病患者を目の前で治したとか 水の上を歩いたとか、五つのパンで五千人が腹一杯になったとかは とても信じられませんし 分かりにくい譬え話が分からないと怒って本当の意味を言うところなど 「じゃあ、初めからそう言えば良いじゃないか」と思います。 そして、その論法の支離滅裂さに 信者の方々には大変申し訳無いんですが ひょっとして、イエスは「統合失調症」ではないのか 回りの者は「集団ヒステリー」ではないのかとすら感じたりしていました。 しかし、実際、聖書の中には私も度々勝手に引用するような 心に響く箴言がいくつもありますし イエスの「無垢」の中に、全生物はおろか全宇宙に通じる真理が現れているのでは ないかと言う考えに至りました。 それは、ひょっとすると、シャカや老子が感じていたものと似ているかも知れませんね。 後、スピノザに関しては、私もCiaopolpoさんの慧眼だと思います。 ただ、ヴィトゲンシュタインも、かなり「禅」的だと思いますので 洋の東西を問わず一定の割合で似た人種がいるのではないかと睨んでます。 ではまた(笑)

noname#202494
noname#202494
回答No.24

たびたび、すみません。 たくさん書くことがあるようで、でも、私の書くことなど、高が知れています。興味のない所は、適当に読み飛ばしてください。 まず、alterdさんがお礼の中で下さった、以下の文言。 <ひょっとすると同じ「楽園」へ別の道から向かっているのかも知れませんが 何の違いが別の道を取らせるのかが良く分かりません> 以下、ヨハネ福音書14:6です。 14:6イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 14:7もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。 キリスト教信者が、”救済されるには、どうしてもキリスト教でなければ!”というときの、根拠になっている部分です。手元に文献がないのですが、この部分は、ギリシア語の聖書ができる前は存在していなかった、と、どこかで習ったことがあり、(頼りなくてすみません。)もしも、これがあとの付け足しなら、仏教徒でもイスラム教徒でも、最後の審判のおり、その名前が”生者と死者の書”に載っていれば、天国行きの切符がもらえることになります。 私も母と義父が、仏教徒のまま鬼籍に入りましたので、”非キリスト教徒の彼岸での扱い”について、何度か、会話の機会を持ちましたが、私と同じご意見の聖職者もおられました。 ですから、alterdさんのおっしゃるように、別の道すじがつくかもしれません。 2)ダンスの大先輩のアデルさんが、”無我の境地”で踊っておられ(素晴らしい!)、ストイシズムはエピキュールに通じる、おっしゃっているので、私も、その境地に到達するまで精進するのみ!ですね。 ただ、私は、頭でわからないと、とにかくダメなタイプで、また、楽しくないと続かないので、境地にたどり着くのに時間がかかりそうです。 3)NO.23(マークさん)のご回答の中で、 <元より現世御利益は保障しない、救わない、「何故神は我を見捨て給うたか!」とイエスに言わしめた神、。どう信ずれば良いのでしょう?>マタイ27:45、マルコ15:33、ルカ3:44、ヨハネ19:28.。。十字架の上で、イエスが最後に叫んだといわれる言葉です。これは、詩篇22の出だしで、作者は彼の血筋であるダビデだと言われています。 詩篇22 http://spgh-psalms.blogspot.com/2008/01/blog-post_4748.html 詩の内容は、十字架に賭けられたイエスの状況に良く似ています。22:16では、手足を刺し貫かれた、とあります。けれど、22:19あたりから、神への賛美が始まり、徐々に力強くなり、主は全ての国々を支配するであろう。。。と言う風に終わっています。詩篇22の出だしを口ずさんだことで、神の賛美を意味した、と言うのが、現在の教会の一致した見解です。 <あなたの信仰を信じ切ってはイケナイ(Marc2記>見つかりませんでした。 <信じても救われぬ事も有る(cfヨブ>。どういう事でしょう?> 基本的に旧約時代の神は好き嫌いが激しく、好きな人にはとことん尽くしました(でも神の深情けで、本人は不幸になることも多かった)。でも、どうでもいい人たちは、徹底的にいい加減な扱いを受けました。 ヨシュアを先頭にしたユダヤの民が、カナンの土地に入るとき、確か先住民は、抹殺、ですよね。 ヨブの場合にも、重要なことは、”ヨブが、いかなる負の経験をしても、神を疑うことはない”faithで、彼の家族の生死は重要ではないと言えます。人間の命は地球よりも重い、とか、自由平等博愛とかが発明される前の、家長制度の下でのルールです。 しかし、新約聖書では、ユダヤの神が地球の神(全ての国々の神)になり、イエスを信じると宣言すれば、どんな人でも、天国行きの切符がてに入る、と、簡単にいえば、そういう風に変わりました。 ですから、旧約の例を挙げて、新約を理解するのは、海から川へ逆行する作業のように考えます。 私観ですが、スピノザは、ものすごく東洋的、特に、日本的ではないですか。どうして、オランダに住んでいたユダヤ人が、江戸時代の武士(多神教~倫理~禁欲主義)のようなことを考え付いたのか、不思議ですね。現在でも、アメリカの大学で学ぶに足りると認められている哲学者らしいです。 勉強になりました。 以上、alterdさんの頭越しの部分もあり、申し訳ないことでございます。 台風らしいですね。ゆめゆめ外にでて、瓦礫などにあたらぬよう、お気をつけください。

alterd1953
質問者

お礼

どうもです(笑) 高が知れていると仰りながら大変興味深いご回答ありがとうございます。 「旧約」と「新約」で基調が変わっているなどは私にも貴重なご意見です。 そして、イエスの強い確信に、いまさらながら驚きますが このことは、何かを徹底的に突き詰めた者に共通の感情のようにも思いますので 信憑性を感じます。 だからこそ「狭い門」であり「行く人の少ない道」なのではないかと思います。 私も勿論「狭い門」を通り「行く人が少ない道」を行くつもりです。 でも、モーセのように、例え「約束の地」に行けなくても全然構いません。 私に取って、「約束の地」に向かって進む行為こそが人生そのものなのです。 ではまた(笑)

回答No.23

今は荒野、外は荒れてます。 神は野に宿る 神の子に顕れる(Marc2記^^) 荒野でモーゼが眼にし声聞きもした、。燃える柴―発火はせず決して燃え尽きない、、これはルミネセンス冷光霊光でしょうか、揺らめくならば発光プラズマ火の玉か?、  神から表出する精霊と取れば、三位一体教義によると、父なる神でもある。 蜜と蝗バッタばかりの粗食の精進繰り返し、荒野を彷徨していれば、 ヨハネ・バティスタならずとも、何かが到来、何かが見えるものです。これも身体の力能。 野に宿る貧者に栄光あれ! 山谷でも釜ヶ崎でも、炊き出し施してるのは、教会でしたね。 残念ながら仏教寺はやりません、震災時もだ(現地は流石にやってたけど) 施餓鬼はどういう意味でしょう? 鎌倉真言律宗;極楽寺開祖の忍性は療病院・悲田院・福田院・癩宿で非人含め救済してました。敵対してた日蓮も。。それが今は何やってんだ?世界遺産?信仰死んでて認められる訳ないじゃん!馬鹿なの?  骨董扱ってると「仏像好きの仏教知らず」も居ます、美術品としてしか見ない。そんな人は喜捨も寄付もしないなら未だしも、偽善だとバカにする。大金寄付してるボノや中田ヒデは売名行為だと。とっくに名は売れてるのに。分り頃の青年自我のままの人に有りがち。私はそれ<ハンパな本音主義>と称してます、何事も疑う姿勢はいいけれど、本末転倒。それに対しては 「どんな偽善でも偽悪よりは役立つ」と柄谷行人。本物の哲学・批評家は流石に違います。哲学語る前に倫理学前提だろうが!当然です。 残念仏で御座います、ご愁傷。  世界の傷を見よ!愁えよ。「傷の無い魂などあるかよー!(アルチュール・ランボー」傷に魂現れる。でも確かに神仏には呪詛したくナルワナー。   元より現世御利益は保障しない、救わない、「何故神は我を見捨て給うたか!」とイエスに言わしめた神、。どう信ずれば良いのでしょう? <あなたの信仰を信じ切ってはイケナイ(Marc2記>。<貴方は朝グソが出る前に3度、主を裏切るだろう。その時勇気は何処かに出掛けてるだろう。(同> しかし信じなければ救いは無い。信じても救われぬ事も有る(cfヨブ>。どういう事でしょう? ~結果に係らず、信仰そのものに救いが有る!そこに何かが開け到来する。という事でしょうか。 主様やスピノザが言うように、<疑いつつ信じなさい。>が最も理性的態度だとは思います。  各宗教の地獄の描写は、理性的でない人への方便、善行に向かわせる為の脅しだと思いますよ。 しかしダンテの肩持つ訳じゃあないですが、神曲の天国の描写は、それまでイメージすらされなかったVisionの提示で、当時の信仰の役には立ったのでは? 流石に稀代の幻視者、人称人格が分解して抽象的粒子や原子として飛び交い、存在生成が互いに交歓し合って渦巻いて、星雲となるような、まさに右脳の世界のような、。まあ私は天国の門前で引き返します^^。どうせ入れてくれない門。 そんな夢何度か見ました、ヘブンズドアーをノックしてはみたものの、開けてくれないのは、、♪今まで、して来た~悪い事だけで~♪のせい? あっそうか、ドアを開けなかったのは、あの女だったか。スマン。私ストカーでは御座いません。彼女は泣く泣く閉ざす選択をしたのです、トホホ。

alterd1953
質問者

お礼

お!? なにやら女性絡みの懺悔が(笑) まぁ、恋愛にあまり興味が無かった私にもいくつか苦い記憶がありますが(笑) でもね。 私、この頃、つくづく思うんですが 人間の知性って当然限界がある訳だし 人それぞれ考え方も微妙に違う訳ですから なかなか合意には至らないんですよね。 ただ、イソップのキツネじゃないですけど 現実を自分の都合の良いようにねじ曲げる人っているじゃないですか いじめてるのに遊んでやってるんだなんて、その最たるものですが ぶつかった時に相手の方だけ一方的に悪く言う人なんてざらにいますよね。 人間関係は信頼を基礎に成り立っている訳ですから そんな人達と仲良くなれる訳も無いんですよね。 有名人のチャリティを売名行為だの偽善だのと抜かすやつは 果たして単なるバカなのか、嫉妬から来るずるさなのか分かりませんが 少なくとも仲良くは出来ませんね(笑) まぁ、私はあくまで 疑いつつ、自分に取って最もリアルに感じるものを信じて理想に向かいます。 ではまた(笑)

  • adele24
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回答No.22

こんばんわ。 「神」について思うこと、というと、私は、「愛」についての回答と被ってしまいますので、控えておりました。 >人間の願いを都合良く聞いてくれる全知全能の神 もちろん、そんな神はいませんね、というか そんなの神じゃないし(笑)、まあ、悪魔ならわかりますが、 でも、そのまま、・・・都合良く聞いてくれる全知全能の悪魔 に置き換えたら、怖いですね~ 20.Ciaopolpoさんのご回答で、 >神を信じて、神から受け取った愛を、地上の人たちに反射してゆけば、そんな簡単なことをするだけで、 そうですね、とてもシンプルなこと、意外に簡単なことかもしれません。 そして、どんなに美しい文学に地獄の恐怖が描かれていようと、本当の”知性”は、 永遠の拷問ではなく、愛を信じるのではないかと思います。 ダンスに関しては、その捉え方なのでしょうね。 エンターテイメントか芸術かによって、全く違うかもしれまん。 でも、自意識もとても大切なものだと思います。 私は芸術至上主義、というか、ただの芸術バカ、音楽、ダンスバカなので、 音楽に埋没する瞬間は、むしろ邪念のない無我の境地になります。 marcさんご回答の、 >疲労困憊の果てに、特に延長戦などに、どこか突き抜けた至福感が漂い、何か天国の前庭のような雰囲気になる事も有ります。 サッカーでなくても、疲労困憊の果てに天国の前庭のような雰囲気になれたら、どんなに幸せでしょうね・・・ >ストイシズムこそがエピキュールにも成るという事です。 私も全くそのとおりだと思います。 alterdさん、ワンコ無事退院しました。ありがとうございました(#^.^#)

alterd1953
質問者

お礼

どうもです(笑) ワンちゃんの退院おめでとうございます(笑) >都合良く聞いてくれる全知全能の悪魔 に置き換えたら、怖いですね~ 悪人の言うことを聞かれたらたまりませんね(笑) >本当の”知性”は、永遠の拷問ではなく、愛を信じるのではないかと思います。 つまるところ「愛」にしか救いは無いと思うんですが 「知性」が、あまりにも不完全なんですよね。 >音楽に埋没する瞬間は、むしろ邪念のない無我の境地になります。 ああ。 これは私もミュージシャンの端くれとして全く同意です。 最近、バンドの練習に友人が知り合いを連れて来たんですが あまり気負わずにやれたので、音楽に埋没出来る瞬間があったんですが お客さんにも伝わったみたいです。 >サッカーでなくても、疲労困憊の果てに天国の前庭のような雰囲気になれたら、どんなに幸せでしょうね・・・ 何事も一心不乱に思いっ切りやるのが「神」を見る最大の近道かも知れませんね。 >ストイシズムこそがエピキュールにも成るという事です。 これは、marc2bolantiさんのけだし名言ですね(笑) ではまた(笑)

回答No.21

 こんにちは。お褒めに与かり恐縮しますが私、 快楽主義エピキュリアンを否定はしません。 一般に人が神を感ずる(見神)のは、恋愛のLoveの時、子供の誕生時、死の時と言われます。 何れも生殖か性愛事ですね。 あとはメシとサケとか、私あまり執着しませんが。酒とダンスと音楽は今だに快楽の嗜みだわ。 シスターからの御言葉にも応えさせて下さい。その通り!ダンスも快楽で御座います。バリ島の舞踊を見れば、ゴージャスそのもの、禁欲とは正反対。色鮮やかな夥しい供物とガムランと、。あそこの神は最もエピキュリアンです。  しかし何処でも、プロの踊り手は過酷な節制を強いられ精進する禁欲者ストイシャンではないでしょうか? 鍛錬の果ての「高揚」と喜び、それを神が喜ぶのでは? サッカー選手の節制も過酷です、だから試合中死ぬ選手も居ます。デブは居ない^^。ゴールしたかに係らず、その疲労困憊の果てに、特に延長戦などに、どこか突き抜けた至福感が漂い、何か天国の前庭のような雰囲気になる事も有ります。 そんなのを「精神には思いもよらない、身体の力能・本質。」と言いました。 水や空気で酔う>とは、その類の事で、ストイシズムこそがエピキュールにも成るという事です。  酒の神はバッカスでしたか? それも良し。でもドゥルーズは結局、水ではなく酒飲み続けて書いてました(笑。あっしもそう)。しかしスピノザの言う至福は、音楽やアスレチックの達成感とはさらに違う段階の事で、それは自己陶酔に限定されない、世界の至福!の原理。理性の認識だけが其処へと導けるもののようです。 快楽・本能が司る生存競争は、神の摂理でしょうがないです。 カッコウ:悪い奴ですが残忍ではない。託卵も酷い仕打ちですが、生存の戦略でああなちまった。モズなんか無駄に殺して生け贄にして忘れてやがるよ。  胎児と人の脳は系統発生をなぞりますが、その古い脳:視床下部や海馬間脳、サメやワニの攻撃脳、そこが優位になる機能障害のせいで快楽殺人・残忍性格になるのでは?ワニを裁いてもしょうがない。その意味で攻撃脳は生まれつき誰にも有ります。  未だ確立してない心理学と統計学が組んだ学説は信用ならない事強調して置きます。統計経済学も含めて、しょっちゅう外します、コロコロ変ります。 臨床で役に立ってる場合はあるけど、。 世界は悲惨とも言えるでしょう。倫理学の至福など役に立つものか!? 先ず誰もが食える事、殺戮止める事。 経済と政治宗教批判の仕事です。 それを牛耳る頭の良い指導者にこそ倫理学が必要。先進指導者段々アホになってきてます、幼稚な見識。 経世済民という意味すら知らない。 さてそれで、衣食足りたら民衆には倫理学可能か? じっくりやれば基督教ミッション程度には可能だし必要だと思う。読書百遍・・と言うし、昔の和蘭の労働者はエチカ読んでたそうです。欧州ユースサッカーでも哲学ディベートやるよ。民衆舐めちゃ遺憾! はっきり言えば怠けてます日本人。 非勤勉が美徳になってどうすんのよ! 長い・難しいって、当たり前だよ、直ぐに判るか。俺はスロー脳ライフだから一冊十年ダヨトホホ、。でもコンビニでニーチェがベストセラーだから捨てたもんじゃないかも。失礼しました。

alterd1953
質問者

お礼

ははは。 最後に落ちまで持って行く所がさすがmarc2bolantiさんです(笑) >ストイシズムこそがエピキュールにも成るという事です。 そう!!! そこなんです。 多分、二律背反を昇華した辺りに真実があるんでしょうね。 >未だ確立してない心理学と統計学が組んだ学説は信用ならない事強調して置きます。 そこは確かにそうなんです。 実際、プロの投資家とダーツとで競ったらダーツが勝ったらしいです(笑) でも、私はあくまで科学的な思考を尊重します。 勿論、考える足掛かりとしてですけどね。 とりあえず確率的な思考しか信じられないんです。 まぁ、最終的にや「えいや!!!」って直観に従いますけどね。 確かハイデッカーだっと思いますが 「いかなるオトギ話も述べない」と言ってたと思いますが 私も、いかなる幻想も信じませんので 「性善説」も「性悪説」もひとまず疑ってます。 全部をこうだと決めつけるから間違うのであって 多分、常に何割かの根性が悪い人間が生まれつき居て 劣悪な環境のせいで、残りの何割かも根性の悪い人間になるのだと思います。 要は、悪行が生じ難い社会になるしかないのでしょうが それには、一人一人が愛情を持ち賢明でなければならない訳です。 となると、最善の方法は、まず「本当の教育」と 「手本となる立派な大人」がいるわけですが現実は悲惨ですよね。 でも、確かに、ニーチェはヨーロッパ社会の欺瞞を暴いたり ギリシャからの形而上学を批判したりして元気は出るんですけども ユダヤ人差別を肯定したりするトンデモの部分もありますから危険なんですよね。 ですから、私は、プラトンや老子の世界観や 出来れば、ラッセル、ヴィトゲンシュタイン等の明晰さに触れてほしいとは思いますね。

noname#202494
noname#202494
回答No.20

冷蔵庫が空っぽなので、本当は買い物に行かなくてはならないのですが、No.18さんのご回答から連想されることを、少しだけ、と思いまして。 キリスト教で、しかも原理主義的洗礼派の場合です。 地獄の描写は、それこそ世界中に広がっていて、ヨーロッパなら、ミルトンやダンテの”美しい”文学にまで昇華されていますが、その描写の細かさは、人間の恐怖に基づく理性の産物でしょう。地上での苦しみを終えて、安楽が与えられるはずの彼岸で、永遠に拷問を受ける、というのは、もし、嘘なら、これこそ、赦される嘘ではありません。 聖書でも、黙示録では、終わりのときに現れる悪魔とその一党が、戦いに敗れて、火の渦巻く深い穴に放り込まれる所がでてきますが、深い穴のなかの描写はありません。聖書を読んでいて、”地獄”の存在をほのめかすような箇所はありますが、”地獄について”の描写はごく簡単です。それは、私たちが知る必要はないし、また、知っても何の役にも立たないからでしょう。 私たちが知らなくてはいけないのは、神を信じて、神から受け取った愛を、地上の人たちに反射してゆけば、そんな簡単なことをするだけで、いつか、時がやってきたら、この世の苦しみのない、”新しい地球”で、暮らすことができる。それを信じることだけです。でも、私たちの、いわゆる、”知性”が、信じることを阻みます。ミルトンやダンテの文学は美しいですが、信者にとっては邪魔な教養です。 前の回答で、チラッと書いたつもりでしたが、人間のすることは、いつも不完全です。例えば、これが、万物の法則だ、というのは、ギリシア時代からたくさんの人が規定して来ましたが、新しい観測法が見つかるたびに、間違いが指摘されてきました。それでも、神に近づくために、宇宙の法則を研究し続けてゆく宿命なのでしょう。いつか、ブラック・ホールの向こう側に、何が存在するのか、明らかになる日も来るかもしれませんが、そのときにはまた、別の命題が現れることでしょう。 人間の頭脳の働く範囲で、神=万物の法則を規定してゆくのは、バベルの塔を立てて、天国に到達しようとするのに似ているように、私には思えます。でも、それは、価値のあることです。 法華経の方便本第二は、祖父がなくなった後、百日間、位牌の前で唱えたことがあります。高校生でした。で、これを唱えるものは、仏になるという。そんな力のあるお経でした。”法則に繋がる??”とあったような気もします。 マークさん、ダンスは、こういっては何ですが、大変に、自意識を高揚させるもの(自己満足の最たるもの)で、”禁欲”とは、まったく逆の所に位置するように感じます。アデルさんがいらっしゃると、賛成してくださると思います。 サッカーは、もっと精神的で、我慢して、我慢して、ゴールをしたときの至福感があるのは、最近わかってきました。ぜ~んぜん、得点できないですからね。サッカーの得点は、ほとんど奇跡に近いようです。 以上、無駄話、失礼しました。

alterd1953
質問者

お礼

買い物に行かないといけないのにありがとうございます(笑) いつもながらクリスチャンの方からの貴重なご意見ありがとうございます。 私も科学の進歩によって、この世の全ての法則が明らかになることは到底無いだろうと思っています。 ただ、それは有限な生を生きる人間に与えられた楽しみなんでしょう。 ひょっとすると同じ「楽園」へ別の道から向かっているのかも知れませんが 何の違いが別の道を取らせるのかが良く分かりません。 私の長年のテーマです。 ご回答ありがとうございました。

回答No.19

 今晩は、倫理学からです。 「エチカ」スピノザ最終定理;<至福Beatitudeは美徳の報酬ではなく、美徳そのものである。 我々は、快楽を抑えるから至福を楽しむのではなく、、逆に、至福を楽しむから快楽を抑える事ができるのよ、。> <至福>楽しい事、こそが美徳だとは、、楽しく楽な教えです^^。 無理に禁欲なんかしたってダメよ!むしろ楽しみながら、精神が至福を味わえば自然と禁欲的になります。酒も煙草もいらない!水で酔う事―ドゥルーズ)も可能になる。私は空気で酔う事目指してます。  人・動物は快楽原則からは逃れられないし殊更逃げる必要も無い。 快楽:食と性愛―各個体は生殖愛で生存競争。それが争い・奪い合いの根源では? その過酷な生存競争をこの世に仕組んだのも神と言えますね。だから、 アルトーは「神の裁きと決別する為に。」と言ったのでしょう。 しかしその競争を徒に過酷なものとしてるのは人間だけです。自然界は必要以上には殺戮しません。従って自らを止めるのも人間の自己責任ですね。  世界は、それに対して争おうとしなければ親和的。。無論、自然は時たま荒れ狂うがもちろん悪気は無い。 <野生動物は、感情ではなく情動Affectusを見抜く。>水族館のイルカやカワウソは子供の反応に敏感、、クマや牝ライオンが異種族の幼子を助けた、。争わなければ、、無垢なる、存在の一義性OneLove♪We’re the chijdren of ・・Man、♪BobMarly.  夫々に害なす者を殺す事は仕方ないけど、意識に於いても争わなければ全ての存在は美しく可愛いものに成ってきます! 蚊は殺す私も、蜘蛛や蛇は殺さなくなって来ました。猫や鳥達には胸キュンです。 この世は限りなく美しい!それに気付けば至福に段々近づけるのでしょう。  殺生の禁止や、節制・禁欲、いつのまにか諸宗教と同様の生き方になってら。その意味で種々の戒律には正しい謂れ有ると思うけど、無理にそれで縛っても理解が無いと意味無いです。自然に戒律となるような、精神の楽しき修養が本来なのです。仏陀もジーザスもそうだと思います、自分で掴んだモノだから強い。  人に対しても同様で、幼子は無垢、でも善悪の彼岸に居るから誰しも多少は粗暴として生まれ来る。成長後も暴力的なのは、脳機能障害か育ち環境で説明出来ると思います。性善というのではなく、教育の不全のせい。原因は十全に解らないので生まれつき凶暴とされてしまう。 私も悪人正機説を採ります。銭湯で仲良くなったヤクザ青年も礼儀正しく正義感も強かったな。  隣人というのも時に疎ましい者、互いに悪気が無くとも騒音や匂いとか。 しかしよほど利己他罰で無ければ交渉する以外に無い、憎んでも仕方ない、又、博愛する必要も無い。でも袖触れ合う根底には慈愛は流れてるモンです、それが法則。ここでも役に立つのは知性での闘争、交渉ですね。 人の隠れた本性が解れば解る程自然に、人格を憎み嫌う事は減ってきました。罪を憎むだけです。私は聖人ではありませんよ! 只、憎悪等のネガテブ感情は、己れの精神を傷つけます。早い話が<気分悪い!頭痛え>、その反応を克服する事心掛けて来たら段々ネガ感情は直ぐ消えるようになったよ。 愛すのではなく、理解する、。ここでも感性でなく理性ですね。 生きてて人は<受動感情から逃れる事はできない、しかし段々克服する術を身に付けられ、するといちいち感情害される度合いは低まり、それだけ能動的喜びの生に浸されるようになれる。>倫理の書エチカの、感情の克服の章。やってみたら本当でしたよ。 長い鍛錬です、最初は「感性・想像による認識=意見、だから非十全」次が「理性・推論による認識」第3が「直感ではなく直観による認識」これこそ神を認識する術、その道。長い試行錯誤のある閾を越えたら訪れると言う、。序序破急の急、理性の認識が感性とも一致する領野と言いましょうか、芸術受容の精神と同様の陶酔、しかし頭は冴え渡ってる、、その生は、五月の陽光に包まれて、微かな熱気を帯びて軽く高揚したような、否定的要素のまるで無い、麗しいものとなります。判る人にしか解らないけど。 回答N18様の歩まれる道は全く正しく、心強く思います。  仕事が生きがいという人は居て、もちろん価値はあるし、神を感じる事もあるでしょう。でもそれは精神・知性で獲得した認識より弱く壊れやすい。一流会社リタイアして迷って永平寺に行く人が居ますね。我が父は無遅刻無欠勤を生涯通して誇りにしてたけど、精神で獲得した事はちっぽけな物でした。芭蕉を長年研究してもさっぱり解らないと言い、時事を語っても紋切り形。さらに自己過大評価で意見を押し付ける、。普通の人はそんなものでしょう。 でも神を真面目に考えたらそれは孤独で特異なものとなります。 信仰の哲学者の生とはそう言うものです、舐めたらいけませんね。  エチカ;倫理学Ethicsは、通俗化され、国家によって換骨奪胎されて鬱陶しい‘道徳’として認知されちまったけど、本来は‘楽しき智識’なのでした。 又エチカは神学批判であり、かつ中世神学の集大成であり、現代的クールネスの極地の仁義集でもあるよ。 この至福へは、<神を知れば知る程>近づけるということ。 <神を知る>とは、様々な存在の、身体と精神の本質Essentiaを認識してゆく道と言って構わないでしょう。 全てを「永遠の相で見る」という、。永遠は時間とは無関係です。 <身体の為せる事を精神は知らない(逆もそう。>、身体の本質を知る事は、解剖学で得られる見地等には限定されない。 むしろスポーツやダンス! 踊る事が精神を如何にに変容させ得るか!? スピノザはアスリートの魂を今の人より良く知ってた。 サッカーもダンスも元は神事ですね。 何処の神様もダンスがお好きです。その事は人間身体のエッセンシアと関係してるはずです。 悩んだら風呂入れ、とかの身体法。タオイスト道士は良く知ってます。 マイナー哲学からの回答でした。長い道です、どうぞごゆっくり。

alterd1953
質問者

お礼

>精神が至福を味わえば自然と禁欲的になります。 さすがmarc2bolantiさん、ブラボーです。 生身の人間で、この核心を突いた発言は初めてです(笑) ホントそうですよね。 良いアドリブが出来た時とか、数学の証明が理解出来た時とか 哲学者が何を言わんとしているのかが理解出来た時とか 普通の快感なんかどうでも良いです。 ただ、私もヤクザになった知り合いもいますし 女郎を殺した気の良い土方のおっちゃんも知ってますので 彼らも部分的に綺麗な心があるのは重々知ってはいるんですが 最近の心理学の研究では いじめをしている映像を見せた後に それに共感する幼児が6人に一人ぐらいいたそうなんです。 私は、これを、例えば、カッコウが托卵するような ずるい戦略を持って生まれる子供も一定数いるのではないかと思っています。 ですので、全ての人を疑う行為は全くもって愚かですが 生まれつき、サディズムを持って生まれた人間かどうかの見極めは大事ではないかと思っています。 ではまた(笑)

回答No.18

回答No16ですが、お礼文ありがとうございます。 その内容で、少し気にかかるところを感じ、再回答させていただきます。 もしかしたら、私は一度絶望した後、数十年後、神を再び信じる者となっているかもしれないのです。 にもかかwらず、神を愛だと信頼する心が生まれているからです。 神は一切人間とは関わっていない、でも愛ではある? それは、「天は自らを助けるものを助ける」の宇宙時空版のようなもの^^でしょうか。 苦しみの世界は、想像力での地獄の世界などは無限と等しい深みを持って描かれています。 怖いというより創造不可能なところを言葉でそう表現しているという形です。 しかし、現実の苦しみ自体が、死の向こうにはもう存在しないという相対的なものでありつつ、在ってはならなさという点ではまさにすでに無限と同じです。 そういう苦しみの質は、残念ながらこの大地に今も無数に存在してしまっているわけです。 むごいです。 でも、それでも、それは物理的に有限であり、そこは救いです。 一方、幸せのほうは、けだし、感性の進化がありさへすれば、無限の豊かさの可能性を宿しています。 音楽の音自体の組み合わせの可能性は有限でしょうが、それを感じるこころの世界は、やはり無限に新鮮で豊かな可能性の開かれた世界です。 美味しさを感じるこころも、木の葉に安らぎを感じるこころも、同じ音でも風の音への感動など大自然の音への感動も、感性さへ深まってゆけば、そのことへの気づきの世界はやがて訪れます。 その前に、欲望も満足や充足という質にな流転換点があり、そこを過ぎるとまったく信頼できる命の輝きとして心の鏡に映ってくるようになるのですけど、その価値の世界や、そこからの人間の愛の確認、嘘偽り亡き信頼の世界は、さらに感性の世界を進化させてくれ、 やがて、感じる世界の表現の文化をも高めつつ、それが無限の可能性をさらにさらに宿している世界であることに気が付く時がやってくるということです。 そこまでゆくと、自分個人の命は未来の子供たちの幸せのためならどうでもいい感覚にもなるわけで、命への欲望自体の質がまるで変ってしまうのだとおもいますが、 そうなると、今まで思索してきた神の不可知さ、考えるだけ無駄なほどの不思議さ自体、あるいは存在の不思議さ自体が、自然に永遠の命への突然変異への可能性を、まさに神秘的に宿している世界、 世界中の大宗教の世界が説いてきたおとぎ話、慰め話^^が、幻想とか慰めでは無い、現実味として自然に感じられても来るということです。 ですが、わかりますでしょうか。 この認識は、無理やりそれにしがみつく世界とは異なっているからだと思いますが、だから現実の世界の苦しみなんて永遠の前にちっぽけなものというのと、真逆に苦の世界をこそ、すこしでも助けたいというこころになる、心の世界なのです。 そこまで含めての、それでも神は一切助けてくれないのだから「神」のことなど忘れて、すこしでも現実の経済を本当に信頼キル形にして発展させ、教育を深め、人口問題にも解決の糸口をさぐり、戦争や争いを無くす私たち自身の闘いに、邁進しようというのが私の方からのメッセなのです。 すると、否定しているはずの神への信頼もそこには気が付いて見たら存在していることになっていた^^ということです。 そういう法則になっていたということなのでしょうか^^。 そちらのお礼文についてなのですが、 「気になったこと」というのは、けだし、以下の点です。 その現実を実際に変えてゆくという人間としての当たり前の愛の行為の世界についてなのですが、 どんな悪人も嘘つきも、詐欺も、だましの達人も、すべて教育の力(理解させる力)で実際に変えてしまう研究や実験が、その愛の世界を実現するときの大きな要の一つと考えている者なのです。 暴対法に反対であるのもそうなのですが、実際に、いつか暴力団としてのヤクザからすら見捨てられたような札付きの極悪人や、犯罪前科者だけを集めた芸術集団を創るつもりでいます。 命のある限りです、もちろん、本当にずるい人間たちはその中にはいないことは知っています。 ですけど、そのずる賢い人間の教育までそこから視野に入れることが可能と私は思っているのです。 私は、あのヘレンケラーを教えたサリバンと同じように、子供の頃、気が狂った体験が二度もあります。 いじめでそこまでの恐怖症により、神経が狂っていったのです。 その体験は、むしろありありと思いだせるのですが、それはもう夢野中の意識なんていうものとも違います。 はっきり憶えてはいるのですが、まるで人間の意識状態ではなく、無味乾燥の動物の意識とでも言えるような別世界です。 苦しいというわけではまったくなくても、まさに異常心理であり、だからこそはっと気が付いた時の子供、それと自覚できるようになったばかりの子供のその瞬間の惨めさは、大人子供の差を越えて惨めさの極致だったと思います。 サリバンにとっては、生まれつき盲目で耳も聞こえない状態でも、皮膚感覚で脳が働いている以上、その脳は動物の脳ではなく全く同じ可能性を宿した人間の脳として映っていたのでしょう。 私には、わかる気がするのです。あのウォーターと叫ぶ奇跡の時がどのようにしてやってきたのかがです。 サリバンは、ヘレンの可能性を信じ切っていたのだと思います。 どんな挫折をも、その信頼が乗り越えさせたのだろうと思うのです。 私は、すべての人の教育による心の光りが訪れる日をどこまでも信じています。 どういったらいいのでしょうか。 いつか私たちは神と泣きながら抱き合うような気持荷なる時は訪れると私は信じているのでしょうね。 でもだからこそ、叫びたいのです。 神なんてもう卒業して、自律して、自分の足で、まず同じ人間をどこまでも、相身互いの気持ちでいたわり、助け、愛し、そこに命をかけようよ。それが神への唯一の道でもあるんだから、という感じになります。 矛盾してるかもしれませんが、 それが私にとっての神の世界なんです。 そしてだからこそ、今、神を捨てて仏教の信心の世界に目覚めたということなのです^^。 これって神仏を両方信じているということなのでしょうか?^^ でも、わからないことは、どうでもいいことです^^。 宣言しておきますが^^、法華経徒いう寓話に隠された、たぶんこれは後の中国人スリハンドクという参謀によって仕組まれた仏話創作なのだと思いますが、そこに秘められていたたった五文字のこころの宝が、次の人類にとってどれだけの宝塔であるかを、いつか私が証明してみます。 解ることは私はどこまでも突き詰めます。 道理で説明できる内容になっている以上、私はそれを他の仏教徒のように、人のこころは元本の無明におおわれているのだから哲学では理解できないなどというごまかしはする必要がありません。 でも、その説明は、確かに簡単ではないです^^。 だからこそ、そこに深い理解への闘いと、深い表現の闘いと、その教育の闘いと、実際の悪人則身成仏の闘い^^と、で、 ひとつひとつ立ち上がり続ける闘いを続けるしかないということなのです。 神様にお会いするその日のためにも^^。 以上です。 南無妙法蓮華経、万歳、スリハンドク、万歳(笑^^)

alterd1953
質問者

お礼

どうもです(笑) そんなに、物凄いお覚悟をお持ちなんですね。 正に仏教の請願 「衆生の最後の一人まで救うこと」そのものですね。 私も人類の進歩は「真の啓蒙に尽きる」とは思っています。 実際、あらゆる分野で、ほとんど「神」と呼べるような 「博愛」の精神を持った人々が存在することも知っています。 また、人間の心は極めて脆い部分があり 多くは親の接し方によって大きく歪んでしまうものだと思います。 しかし、愛情深い人との接触によって 例え多くの時間が掛っても心の傷が癒える事もあるようです。 私には到底その力はありませんが hokekyou333さんなら出来るように思います。 まぁ、「神」には、この世の悲惨な出来事はさておき 生きる場所を与えて貰ったことには感謝しておきます(笑) ではまた(笑)

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