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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:科学は常に進歩するものなのか)

科学の進歩と後退:真実と一時のトレンド

ROKABAURAの回答

  • ROKABAURA
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回答No.1

時の観点から見て 過去から現在そして未来と続く流れを 「進んでいる」と考えれば正に人類 というか世界は進歩している。 少なくとも過去には向かっていない。 しかし「進化」の対称に「退化」がある。 結果を良いとするならばそれに類するものは進化であり 類しないものは退化となる。 故に「進化」という言葉には多分に思い込みがある。 「白人は進化した人種であり黒人は劣っているから退化した人間だ」 と言った者もいたが そういった例を見れば 自分達の現在を良しとした観点から進化を捉えるのは 大きな間違いだということが分かる。 ただし科学に関しては 今までの毛岸の中で検証された事実から 多くの仮説が砕かれ調整され まるで大きな羊皮紙に式を書き連ねていくが如く 時に間違った式が書かれてもそれは後に訂正され あるいは分からないまま空白や「?」を書かれて 人類によるこの科学という紙には 日夜新しい式が書き込まれている。 猿達が文字らしきものを 一生懸命砂に書いても 所詮波が来れば消えてしまうし 彼らも本当の意味でそれを使いこなせはしない。 地球の生命が何度も絶滅の危機を迎えたように 一瞬にしてこういった蓄積が失われることも 決して宇宙では珍しいことではない。 過程としては「進化」「退化」ともにある。 悠久の時の流れを捕らえた中でこれらの変化は 人類的好き嫌いから考えた見地からすれば進化とは言えないが 蓄積と痕跡 そして対応と昇華といった見地からすれば 科学 というか宇宙は進化し続けていると思う。

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