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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:科学は常に進歩するものなのか)

科学の進歩と後退:真実と一時のトレンド

noname#194996の回答

noname#194996
noname#194996
回答No.6

科学という概念は人間がこしらえたものであり、科学にとっての進歩の概念はそれに付帯するもの、あるいは(人間が持つ価値観にもとづいて)科学に期待しているもの、端的にいえば科学が目的としているもの、それらに漸近するということが科学の進歩という概念になることは明らかだろうと私は思います。 また、質問者様のいわれる科学の進歩退歩は一般的に一人の人間の中での科学の概念というようなものではなく、世界の、人類全体の資産としての科学、あるいは科学オリンピックとでもいうような、人類のチャンピオンたちによる最先端の科学のリアルタイムにおける状況とした場合、その進歩はおおむね記述化されており、一旦文字化された以上はそこから後退するということは理論上ないと考えられます。 科学の進歩は倫理とは無関係ですので、核爆弾、遺伝子操作、心臓移植などなどみな進歩であると考えられます。また、公にされ公知となった先端理論が後年過ちだったというような例は、決して退歩ではなく、全体としてその分野においては進化していなかったということでしょう。 科学が究極の目的としていることは、何も人間の幸福などと言ったようなものではありません。それは完璧に世界を知り、利用し尽くすことだと思います。まあ、ある意味マッド菜園チスとの立場でしょうか。

hitonomichi30
質問者

お礼

  komaas88さん、ありがとうございます。 >また、公にされ公知となった先端理論が後年過ちだったというような例は、決して退歩ではなく、全体としてその分野においては進化していなかったということでしょう。 一度は近づくことが出来た真理から、遠ざかることは後退ではないのかい。  

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