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哲学はニセ科学か?

最近、巷では、「水からの伝言」が小学校で行われるなど、疑似科学が教育の場にまで浸透しているようです。その他にも、「マイナスイオン」や「ゲルマニウム」、あるある大辞典の捏造事件など知の退廃行為が蔓延しています。最先端の科学でも、捏造行為は科学全体の信頼を裏切る背徳行為だと思います。 人文・社会科学系の学問においても、科学の名を語ったインチキが蔓延っているようです。例えば、カールポパーは、精神分析学、ヘーゲルなどの弁証法、マルクス、フランクフルト学派などを疑似科学として批判を行っています。また、アラン・ソーカルは著書「知の欺瞞」の中で、ポストモダンの哲学における科学用語の濫用・誤用を指摘してます。 様々な批判や指摘を受けた後、精神分析学においては、膨大なフロイトに関する文献が専門家に公開され、それによりフロイトがしたとされる治療例の殆どが、希望的観測と意識的作り話の所産であったことが証明されたようです。 しかし、哲学や社会学の分野において、精神分析学のように詳細な検証作業のようなことが行われたという話は聞きません。ソーカルやポパーの指摘を受けた後、何か哲学や社会学の分野において、過去の疑似科学的な言説を腑分けする作業などは行われているのでしょうか?もし、ご存知の方がいましたら、よろしくお願いします。

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回答No.7

補足拝見いたしましたが、どたばたで、遅れをとってしまったようで。 >ソーカル事件に対するみなさんの意見を教えて欲しい。 この件につきましては、すでに、お見事なご回答があり、 「お水からの伝言」同様、当方に付け加えるような、詳しい知識は御座いません。 今回は、少々、ご質問者様の意図と別の視点で考えてみたいことがあります。 結局、学問や科学が商品になってしまっている。 昔は、出来の良い物を市場に出して、出来損ないを自家消費に廻すと言う傾向が逆転あるいは自家消費が全く無ければ、出来不出来よりも、規格に合いさえすれば良いですし、規格もご都合により曖昧にされます。なんせ、自分のものではなく、他人のものですから。 もう一点、前にも書きましたが、 知識の分散 これは、一人の頭脳の中に、世界中の知識をすべて入れることは不可能なこと、シュレティンガーが50年程前に嘆いた問題ですが、最新の科学の検証が困難になるネガティブな捉え方ですね。 これに反して、知識の分散をポジティブに捉える方法も古くからあります。 例えば、カント、ヘーゲル、最近ではハイエク。少し特殊なベルクソン。 人間の知識・能力・生命が限られていること、諸個人に分散している故に諸個人は助け合って種としての発展を目指していく、と、肯定的に捕らえてしまう方法です。もちろん、助け合う仕方が「市場」なのか「計画・分配」なのかの違いにより、いろいろな立場にまたまた分散してしまう。 その結果、分散した知識は商品になり、商品はその定義上、品質を落としていく。 あら、最後の結論が、暗くなってしまった。 この辺り、私も本当の問題点が良く解っていないのです。 今回は、お役には立てませんが、独り言としてご笑納下さい。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 するどいですね。大学で行われている学問の中には眉唾物の研究もたくさんあることでしょう。まさに飯のタネ。自己目的化した無用の長物。最近では独立行政法人化の影響もあり、産学連帯とかで応用研究にシフトし、基礎研究は廃れる一方。 共同研究のためには大風呂敷を広げたりして、どんどんトンデモに近い話が持て囃される。地道な研究よりも、派手な研究に心を奪われているのは、どこかホリエモン事件と同じ近視眼的なものの見方がはびこっているように思う。 「急がば回れ」そんな言葉が、もう一回、見直される風潮があってもいいかな。哲学や社会学の世界でも、奇をてらった発言が持て囃されているが、煽ってはいけない。群発自殺はマスコミや学者の不用意な発言が引き金にもなるのだから。テレビ化(ワイドショー化)した学問の典型が、社会学などに見られる知的退廃のよう。 ヒトラーは「今日の悲惨はすべてユダヤ人財閥のしわざである」 と嘯いたが、それと同じ事をしている学者がいる。丸山真男の亜インテリ理論に始まり、凶暴化する少年などと危機を煽る社会学者…。本来、社会学者はそういう集団ヒステリーを起こすような発言を控え、扇動者に対する警戒を説くべきだと思う。マスコミ芸者だの御用学者が多くては、ままならぬことか。

その他の回答 (6)

  • tyr134
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回答No.6

#2.3です。 改めての質問、とうことで回答してみたいと思います。 >ソーカル事件に対するみなさんの意見を教えて欲しい。 この事件の詳細に詳しいわけではなく、ソーカル氏の著書「知の欺瞞」もまだ読んでないので、回答する権利は無いかもしれませんが、ザッと概要を眺めただけでの所感を述べてみたいと思います。 この事件は、科学に絶対的ともいえる信頼を置く風潮を皮肉的に警鐘を鳴らしているのではと感じました。 ソーカル氏が直接に批難しているのは、科学的な事実を誤認したり曲解したりして自説を補強するために利用している知識層(多くがフランス人ってのが、また興味深いのですが)ですね。 しかし、言い換えれば彼らをチヤホヤする社会も悪いのです。 「科学的に証明されているのだから、彼の言うことは正しい」といった、安易な論理を受け入れることで、「彼ら」がのさばるのです。 科学は所詮は学問の一技法、道具でしかありません。 しかも、その「科学」自体がどういった定義であるのかすら未だあやふやです。(多くの場合、自然学分野を指しますが、人文科学という言い方があるように、思想的立場や背景によってまだまだ定義はアヤフヤです。) 道具ということは、扱う側の人間にその多くが問われると言うことです。 一つの道具に過ぎず、また定義すら定まっていないのに、「科学的に証明された○○」というだけで、絶対の信頼を置いてしまう。 そんな風潮があるからこそ、意図的にしろ無意識にしろ、自説を補強したいだけの人に利用されてしまう。 そして、目的が「自説の補強」なのだから真実を都合の良いように解釈しがちになってしまう。 それが蔓延したのが、たまたまポストモダン哲学だったのでしょうね。(「たまたまポストモダニスト批判になったに過ぎない」とソーカル氏も言ってるようですしね。) 一つの懐疑論者的な意見になってしまいますが、結論としてはもっと「科学的に証明された○○」に疑いの目を向け、それを利用しようとする「識者」なる人々に騙されないようにしなければなりませんね。 それと同時に、「科学とは何か」という根本が問われるべきなのかもしれません。 >腐った学問である哲学と社会学もまるごと捨てた方がいいのだろうか。腑分け作業を行うよりも、当たらしい学問分野で出直した方がいいのだろうか。 別に、哲学も社会学も腐った学問ではないと思います。 腐った学問に見えるのは、マス・メディアに露出する人々の多くがソーカルが批判して見せたポスト・モダニスト的な人(科学を誤用している人)だからでしょう。 マス・メディアは、自分たちが出したいと思った人や大衆受けすると思った人しか出そうとはしません。 そんな一部の人だけを批難して、その学問全体を否定するのは正しい姿とは思いません。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 科学の定義が曖昧とありますが、それは逃げ口上にはならないと思います。反証可能性などによって科学と疑似科学をわける方法はすでに提出されています。人文社会科学も、定義があやふやなままでは、ノストラダムスの大予言と同じく、恣意的にどんな意味にでも読みとれてしまい、単なる文学的解釈によるお遊びにしか過ぎなくなってしまいます。そんな観念論の世界で戯れていても科学とは呼べないと思います。 科学的態度とは、簡単に言えば「憶測でものをいってはならない」と言うことだと思います。憶測でものを言ったり、断定口調で決め付ける行為が、疑似科学の特徴として見受けられます。検証が不十分なものに「科学的」と名づけるだけで、あたかも、「科学的に検証済み」かのようなお墨付けを与えてインチキ商売を行う。それを私は疑似科学と呼んでいます。 また、仰るとおり、現代社会には、科学に対する無防備な信頼が形成される土壌があるようにも感じています。素人には手の届かないブラックボックスの中で、ボタンしか押さないような生活を送っているわけですから。アーサー・C・クラークは「十分に進歩した技術は魔法と区別が付かない」と言います。この余りにも科学がブラックボックスと化した時代に、疑似科学に対する免疫をつけるには、容易なことではないのかもしれません。 少なくとも、あるある大事典の捏造事件によって、盲目的に科学的インチキ言説に惑わされている人には、多少のクスリになっていればと期待したいと思います。リベラル・アーツよりも、世間知としてのメディアリテラシーがあらゆる分野に必要なのかもしれません。そもそもリベラル・アーツは、ローマ時代に労働からかけ離れた自由民のものでした。それは奴隷の上になりたつものです。そんなものはわれわれに必要ありません。われわれが必要としているのは、世間知に基づいた常識や良識だと思います。

anima-mundi
質問者

補足

tyr134さんの意見には科学の定義に対する認識以外に異論はありませんが、ふと気づくと、もしかしたらソーカル事件って日本ではほとんど知られていないのかな。どうなんだろう?

回答No.5

お怒りのご様子で。 補足を拝見してから、もう一度ご質問を確認したのですが、私は、フロイトの捏造も「水からの伝言」も、ましてやテレビ番組も見ていないので、どう回答しようか、困ってしまいました。 そこで検索しましたら「水からの伝言」あぁあぁこんな話、むかし、聞いたこと有るなぁ~ 正直、まだ生き残っているの、確かに、検証がずさんですが、検索したとき「水からの伝言・信じないで下さい」と言った、キーワードが並んでいましたから、その内に淘汰されるのでしょうね。 ブラウン運動、ご存知ですよね、水槽さんの真ん中に仕切りを入れて、両サイドの電子の密度を変えておいて仕切りをとります、電子は相変わらず、不規則に飛び回りますが、電子同士のぶつかる障害のないほうへ穏やかに移動します。電子の移動は不規則のままですよ、水槽さん全体に電子が均質になると、定常性を保ちますが、しかしこの間も、個々の電子は不規則に動き回ります。 以下、ほにゃらか御伽噺 1)「放射性廃棄物の処理にいくつかの疑点が残っているのであるなら、物理学者はなぜもっと原発の危険性について声を大にしてくださらないのですか」 「原子力についてはその管理の所在がなにより大切です。ところが、原発はいつの間にか国の手を離れて電力業界・・・それに問題はすでにあなた方経済学者の側へと移されたようにもみえる。エネルギーの供給のいかんが”経済成長”や”完全雇用”のいかんに影響するのだといわれては、物理学者としてはこれ以上なんともいいようがないではないか」1977年、経済学者と物理学者の対談 2)「東チモールにおける残虐行為をアメリカが支持するのを非難できるようになるのに、言語学の専門的なトレーニングは必要ないよね。話しているのは誰であるかや、その人の経歴、発言するための「資格」などは重要ではないんだ。重要なのは、『あなたのいうことは本当ですか』ということさ。」アメリカ言語学者の社会批判 さて、上記は引用ですが、個人名は伏せて、フィクションと仮定して話を進めます。 物理学者と言語学者の態度の違いは微妙でどちらが正しいかははっきりしません。しかし、例えばエコロジー経済や環境問題への関心、或いはある種の原発反対運動に関わる人から見れば、物理学者の態度に歯がゆい思いをするでしょう。 ただ、この時の物理学者への批判は、1986年の原発事故、エントロピー経済による原発の非効率性といった最近の知見による判断だとすると正当な批判とは言えないような気もします。 私たちは普通、現在から考えて過去へたどり着きますが、過去において現在はまだ未来だったことを忘れがちですね。現在と言う結果のほうから原因を探しに逆行をしてしまいます。事実は逆で、進化の過程のように、全てを試してみる、実際にできるかわかりませんが、その結果として生き残っているものが、現在なのでしょう。 要するに、知識もブラウン運動のように、色々なものがぶつかり合って生成していくのではないでしょうか。 丁度、今読んでいる本に、マンデヴィルの「蜂の寓話」の話が載っていました。 「全体のうち最悪のものでさえ 公益のため何かお役に立つようになった」 次にフロイトの捏造について、事実関係を知りませんが、お怒りを静めるべく、感想を書いてみます。 フロイトの研究の詳細はわかりません、なにやら検索すると、未公開だった研究データーが公開され、そのデーターを検証すると、希望的観測や捏造らしきものが・・・と言う事ですが、この場合の私たちの判断の仕方も、安易なもので、大切なことは、フロイトの何処から何処までが、捏造で、捏造でないものは何処か、で、捏造すなわち悪、と言う短絡した判断で全てを否定する。これは少しおかしくないでしょうか。 かのヒュームも人間の知識の狭さを嘆いておりますが、善悪の簡単な二元論に作り変えて、物事を処理するのは便利ですが、哲学的(私は哲学に関しても無知ですが)な思考としては、頂けませんね。 あれ、火に油を注いでしまったかな(笑。 長々書いてしまいましたが、最後に一言いわせてください。 知識が多すぎる、知識が専門的に分散しすぎている、知識と知識の繋がりに欠けている。 最新の研究で捏造が行われても、検証する知識が不足しているような気がします、ただ、捏造が発覚していると言うことは、何とか検証の機能は維持されているような気がしますが。 テレビ番組の捏造に関しては、話もしたくないですね。詰らない物を見て、詰らないと怒ってもしょうがないでしょう。最後まで読んでいただけたでしょうか、お怒りが少しでも収まれば幸いです。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 ブラウン運動からは、エントロピー増大の法則が必然的に導かれます。覆水盆に返らず。これが物理学の一番の基本法則になっている。マンドヴィルの言葉からは複雑系の経済学の萌芽があるように感じました。ただ、彼の本はプレミアが付いているようなので、しばらく未読になると思います。 自己組織化の駆動力はエントロピーです。北朝鮮のように、それまでの社会秩序を破壊して、一からつくることは容易なことではありません(覆水盆に返らず)。社会主義国のように、極めて人工的に建設された国家は、絶えず人為的なエントロピーの減少が求められます。市場経済の強みは、人の利己心とか弱さを駆動力として、自生的秩序に任せるところにあるのかもしれません。 不二家でも、一度失墜したブランドイメージを取り戻すのは大変なことです(覆水盆に返らず)。それは、ブラウン運動と同じく、不可逆過程になりましょう。捏造も同じことです。 私は、フロイトやマルクスらの業績を全否定するつもりはありません。全てを否定してしまったら「もったいない」という思いがあるからこそ、腑分け作業という面倒なことを主張しています。 「もったいない」の精神は、これからの社会のカギになると思います。資本主義による成長の限界は早晩来るでしょう。地球のパイには限界があります。地球は有限であり、いつまでも成長に耐えられるものではない。 だから、いつかは分捕り合戦をしなければならないときが来るかもしれない。そのときに「もったいない」の精神がみんなに行き渡っていなければ、戦争や餓死による人工調整からは逃れられないことなのかもしれません。捏造は信頼を裏切る行為だから、みったいないなあと思う。ただ、それだけです。怒りよりも、もったいなさですかね。

anima-mundi
質問者

補足

中途ですが所感を述べます。ポル・ポト政権は、「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と号して、政治的反対者に弾圧を行いました。 腐った学問である哲学と社会学もまるごと捨てた方がいいのだろうか。腑分け作業を行うよりも、当たらしい学問分野で出直した方がいいのだろうか。 私の質問が分かりづらかったようなので質問を言い換えましょう。ソーカル事件について改めて問いたい。ソーカル事件に対するみなさんの意見を教えて欲しい。それだけです。

回答No.4

お久しぶりです、過激なご質問ですね。 最近、確かに、マルクスもフロイトも評判が悪いようで。 デカルト合理主義も、俎上にあがって、捌かれる始末。 優生学とヒットラーの関係も科学史の汚点でしょうね。 原子爆弾の発明者もやはり静粛が必要でしょうか。 所で、えせ科学、とはどんなものでしょう。 ホパーは、科学自体を批判したと記憶していますが 例えばシャーマニズムや迷信、まったく非科学的な事柄ですが、 歴史の時代の中で、人々が共同して何かを成すためには 当時としては、理にかなっていたのではないでしょうか。 何が問題か、それがもう一つ、理解できませんので、 補足を要求すると言う大げさな事になりました。 再回答がもし出来たとしても、週末になります。とりあえず。

anima-mundi
質問者

補足

ありがとうございます。 フロイトの捏造が許されるのならば、あるある大辞典の捏造も、寛大な心で許さなければなりません。私にはそんなこと無理です。みなさんはどうですか。学問の世界も捏造や疑似科学で溢れかえってしまうようならば、そんな学問に対して私は魅力を感じることも信頼することも出来ないと思います。 せっかく、ポパーやソーカルが科学と疑似科学の線引きとなる規範を作ってくれたのに、それを蔑ろにする風潮があるとしたら、もはや哲学や社会学には期待できないなという思いから、そんなことないよ、しっかり検証して疑似科学を排除してますよ、という回答を期待して質問しました。

  • tyr134
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回答No.3

#2です。 もう一度、回答してみます。 >疑似科学的な言説を腑分けする作業などは行われているのでしょうか? これは、カール・ポパーの理論に乗っ取ってという意味でしょうか? だとするなら、まだまだこれからだと思います。 というのも彼は現代哲学者なので、その哲学はこれから研究が成される対象でしょうから。 もし、ボバーに拘らないのであれば、色々な基準で色々な腑分け作業は行われていると思います。 「科学」という言葉は曖昧であり、なにをもって「科学」とするかは難しい問題です。 が、先の回答にも書きましたとおり、「科学」は大きく分けて二つに分けられます。 「自然科学」と「人文科学」です。 「自然科学」は「実験による実証」が容易であり、またこの手続きを踏まなければ「科学」とは見なしません。 しかし、「人文科学」では「実験による実証」が困難なため、曖昧であることは否めません。 故に、「人文科学」を「科学」と認めたくない人は単に「人文学」と区別して呼びます(その場合、別にその学問を否定しているわけではありません)。 カール・ポパーは、これに一定の論理として「反証可能性」を唱えたのだと思います。これは、現時点ではまだまだ「狭義の科学」です。 なので、何をもって「科学」と認めるかは人によってマチマチであり、まだまだ曖昧なのだと思います。 昨今のニセ科学の蔓延は、「科学」と名がつくものに無批判に飛びつくことと、商業ベースに乗ることが原因だと私は考えています。 我々消費者がもっと「科学と謳われてるモノ」を疑う目が必要だと思います。 >未だにマルクスやフロイトを崇拝している新マルクス主義者たちの巣窟とかしている印象を一部の学派から受けています。 たしかに無批判な崇拝や信仰は、学問ではありません。 ですが、「結果」だけを見て「悪」と断罪することも同じくらい学問的ではないと私は考えています。 マルクスが自由主義経済の問題点・矛盾点を指摘したことで、それを解決するために様々な試みが行われるようになりました。 同じく、フロイトが精神分析という学問を始めなければ、今の精神分析学の発展は無かったかもしれません。 重要なのは、彼らがそれを始めた事です。 それを批判したり検証しながら、学問は前進していくのですから。 (※「重要」というのと「偉大」というのは、また別問題です。) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%96%87%E7%A7%91%E5%AD%A6

参考URL:
http://www.valdes.titech.ac.jp/~fumihiko/Popper1.htm
anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 ある仮説・学説が科学的かどうかは、「検証が可能か」あるいは「反論を許すか」で、簡易的には十分だと思います。例えば、「この星の住人は働くことに取り付かれている。」でお馴染みのトミー・リー・ジョーンズの缶コーヒーのCMがありますね。 「宇宙人が地球人になりすまして潜伏している」という仮説の場合、事実なのか事実でないのか検証できませんし、論理的に「そんなものはいない」と反論することもできません。 >我々消費者がもっと「科学と謳われてるモノ」を疑う目が必要だと思います。 その言葉は、まさに、科学的社会主義のマルクスや、科学的世界観のフロイト、さらには科学用語を濫用したポストモダンの哲学者や社会学者にも向けられているようにも聞こえました。

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.2

現代哲学は、ある種ほとんど古代ローマから近現代の哲学者が考えたことを批判することで成り立っています。 そういった意味では、常に検証作業が行われていると言えます。 間違えてならないのは、批判=非難ではないということです。 学問世界では、批判とはそれが真実かどうかを検証する作業です。 つまり、様々な批判の結果、どうにも否定できないモノが「真実」(に近い)モノとみなされるわけです。 因みに社会学というのは、現代に入って発展した学問です。 そして、今現在の社会がよりよくなる為にはどうしたらいいかを考える学問です。 現在といっても近過去も含まれるので、現代史と言ってもいいかもしれません。 まだまだ、出来立てホヤホヤに学問分野といえるでしょうね。 さて、「科学」と呼ばれるものは普通(狭義的)は「自然科学分野」をさします。 これは、「自然の法則」を見つけ出そうとする分野です。 自然の法則なので、「1+1=2」などのように一般化しやすい分野です。 これに対して「人文科学」というのは、「社会」を観察する分野です。 「社会」というのはなかなか捉えにくく、「1+1=10」になることもあれば、「1+1=0」の場合もある(その裏には不確定要素が多く含まれる)。 つまり、自然科学に比べて不確定要素が多く一般化しにくい分野だといえます。 哲学はこれら二つを内包した学問です。 実は、自然科学も人文科学も哲学から分離していきました。 この二つに専門家されたのは近現代に入ってからです。 それ以前は、すべて哲学でした。 そしてこれからも、より専門化され細分化されていくでしょうね。 >いくらマルクスを正当化しても、社会主義国において粛清された人の命は帰ってきません。それを最大の功績と褒め称えることは、人間として健全なものなのなのでしょうか。 これは、後代から見て、社会主義国の惨状を知っている我々だから言えることです。 マルクスが生きていた当時は、自由主義経済による貧富の格差が深刻化していました。 その時に、マルクスが「私有財産を形成することに腐心する事が、貧富の差を拡大させる」と言うことに気づいたのだと思います。 ここに気づいた事が重要であり、これは「コロンブスの卵」でもあるのです。 フロイトについても同じ事が言えます。 >発見すれば何でも偉いという発想は少し幼稚すぎる考え方だと思います。新しい殺人方法や詐欺の方法を考えた人も偉いというわけでしょうか これらを、「偉大だ」とするか「間違った思想を広めてけしからん」とするかは後世に生きる我々の主観の問題であり、学問ではありません。 また「間違った思想」であった場合でも、本人がワザと「詐欺をしてやろう」とした場合と分けなければなりません。 マルクスもフロイトも、その根っこにはこの世の中を良くしたいという思いがあったはずです。 カエサルの言葉に「いかに悪い結果に繋がったとされる事例でも、それが始められた当時までに遡れば、善き意志から発していたのであった」と言っています。 マルクスもフロイトも、まさにこの通りだったのではないでしょうか? 昨今のエセ科学の蔓延は、商業ベースに乗ることで一気に広まることと、その「考え」が「仮説」の段階であるにも拘わらず飛びつくことです。 また、「科学的に実証された○○」と謳うだけで売れるという現状があります。 我々大衆が無批判に飛びつく結果であり、哲学や社会学がエセ科学を蔓延させているわけではありません。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 少し脱線気味なのでもう一度言いますが、私が問うているのは最低限度の検証作業はなされているのかということです。学問的に誠実な態度であるのならば、腑分け作業は必要なことだと私は考えています。残念ながら、社会学におきましては、未だにマルクスやフロイトを崇拝している新マルクス主義者たちの巣窟とかしている印象を一部の学派から受けています。 マルクスは暴力革命を手段として認めていますが、それを善意ととらえる感性は、残念ながら私には持ちえていません。フロイトも知的誠実さが少しでも残っているのなら捏造をする必要もなかったと思います。マルクスは「科学的」社会主義を謳い、フロイトも自らの思想を「科学的」世界観と呼びました。彼らは、昨今のエセ科学の蔓延の魁かもしれませんね。

回答No.1

マルクスの最大の功績は資本主義の的確な批判です。 フロイトの最大の功績は無意識の発見です。 これらの功績を真っ向から覆した批判があるのでしょうか。 これらの思想をさらに押し広げることによって、 革命的な発想をもたらしている人がいるのでしょうか。 思想の欠陥を指摘するだけでは指摘止まりってことですよ。 他に取って代われる思想がない以上、 近代の思想として今もなお議論の余地がある哲学であり、 だから批判家が批判するわけですよね。 (フロイトの学説は無価値になっていますが。) "発見"と"批判"を天秤にかけたら、 "発見"の比重が重いということでは。 哲学はあらゆる学問の根本を成すわけですので、哲学が似非科学ではなくて、ただ似非科学に捉えられる科学がある、ということではないでしょうか。科学だから万能というわけではなく、これまでの常識が別の視点から日々覆られていくのは当然の理。"哲学"はあらゆる学問の探求を抽象化した言葉(包括した言葉)です。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 いくらマルクスを正当化しても、社会主義国において粛清された人の命は帰ってきません。それを最大の功績と褒め称えることは、人間として健全なものなのなのでしょうか。 発掘あるある大辞典のように、「抑圧された無意識」を捏造してまで発見したフロイトは詐欺師でしかないと思います。フロイト一族といえば今では大富豪です。インチキでも、もうかれば何をやっても良いという考えには、学問に対する知的誠実さも良心のかけらも感じられません。 発見すれば何でも偉いという発想は少し幼稚すぎる考え方だと思います。新しい殺人方法や詐欺の方法を考えた人も偉いというわけでしょうか。

anima-mundi
質問者

補足

>他に取って代われる思想がない以上 マル経に対して近経があります。森嶋通夫の1964年の論文『マルクスの経済学』によって、マルクスの『資本論』は理論経済学によって包括的に理解されるようになりました。サミュエルソンにはじまり森嶋が手がけた仕事によって、近経によるマル経の数学的表現が与えられ、マル経は最終的に葬られることになったのだと思います。 その他にも、置塩信雄も、近経の手法を用いて、マルクスの価値論を数学的に厳密に定式化しています。日本人には犬猿の仲であったマル経と近経を統合するような優れた学者がいます。「他に取って代わる思想がない」という発言は少し勉強不足だと思います。

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