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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本史って難解だと思われませんか)

日本史の難解さと面白さについて

TANUHACHIの回答

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.15

 こんばんは夜分に失礼します。純朴な回答をいただいて、少し考えさせられました。 >社会以外の教科、化学や物理、英語や国語なんかは「掘り下げていくと」と考える場合、切りがあると思うんですね。学校で習う事にテストを受けるために勉強しても、これだけ勉強すれば大丈夫だと思われる境界があると思うんですね。そこが違うと思います。  これが第一の不幸な部分です。少なくとも貴方は点数を獲ること=勉強すること、と矯正されてきたのでしょうね。本来ならば中学生以降の段階で、教科書や教員の説明に対して「疑問符」を投げかけたりすることがしばしばあるはずですが、貴方のメッセージからはそれが一言として感じられないのです。厳しい言葉を使えば、貴方は親や教員の前で「学校秀才や良い子を演じていた」にすぎない、それも自身を押し殺す形で。それが歪んだ認識に繋がってしまったともいえます。  国語や英語そして数学で答の出し方には幾通りもの表現形式があって、それは何よりも生徒自身の物の考え方を具体的に反映している結果です。  そうした本質的な部分を差し置いて、教員や教科書に書いてあること以外は全てダメな答と判断する根拠がどこにあるのでしょうか。これこそが「本質的な病状」であるといえます。  確かに「模範解答に従うこと」は一番楽な方法ですが、「学ぶことの本質」が読書したり、様々な議論を闘わせる中で「別な考え方」に接し、それによって議論そのものをアウフヘーベン(高次の内容へと止揚させる)し同時に認識も深化させるとの意味からすれば、「鋳型にはめられた工業製品」の様に画一的な思考様式ほど「非学問的姿勢」は他にありません。この意味で、貴方は本質的な勉強を何一つ経験もしていないことと同じです。      >もしかしたら「年貢」と「耕作地」の関係を混同していませんか?  僕はこの、年貢と言う仕組みが嫌いなのです。お百姓さんから、「土地は俺の物だからそこを借りているお前らは米を収めなければならない」と武士にとって非常に都合のいい仕組みを考えて、出来た米の半分以上を納めさせたのでしょう?こんなのずるいと思います。ま、歴史というものは奪い合いから始まって、勝った方が取ると言う経緯を経なくては進めないものですから、現代の様な「福祉」と言うものが存在する世になるまでの過程だと思うしかないのですが、それでも良くない仕組みだと思います。  「現代の仕組みや概念」をそのまま「過去」に適用することは学問として適切な姿勢ではありません。そうした「御都合主義」の姿勢を歴史学では「プロクルーステースの寝床」などと呼び、厳に誡めています。  こうした部分で「歴史小説」を読んだり、紛い物に接することは危険でもあり、その典型は司馬遼太郎であり井沢元彦といった通俗読み物で懐を潤わせている輩です。彼等は「歴史物語しかも悪質な捏造と大衆受け狙い」にし終始しますが、歴史学に携わる者は決して懐を潤わそうなどとは考えもしません。「事実に対する深い掘り下げ」を史料と歴史理論を駆使して模索しようと苦闘する。たった一つの小さな事象を完璧に解明できた人物などは過去においても一人としていないのはこうした積み重ねがあり、その積み重ねは新たな問題の提示へと繋がる糸口でもある。  租税制度を対象とするなら、税制の前提にある経済構造の問題があり、同時に納税者と徴収権の問題もあります。これは日本史でも世界史でも共通部分です。日本の法制度も元々は中国の律令システムを緩用したものであり、中世に至って新たな階層として台頭する武家にのみ通用する武家法や庶民の自検断を宣言する地下法(じげほう)など、階層毎の法令群も登場します。こうした事例一つを見ても、細切れ型の知識を習得することが歴史学習の意義であるとはいえないのです。ここまでは政治史の分野、ここからは社会経済史の分野、あるいはここからが「中世」でありここからが「近世」であるとのソリッドステートな形でスパッと一直線の線引きなどすることが必ずしも適切ではないことなどが、高校までのテキストにはスッポリと抜け落ちてもいます。  端的にいえば、税とは権利を買うための対価ということもできます。こうした「物の見方」を学ぶことが歴史学を学ぶ醍醐味であるともいえましょう。現代を基準にして「全てを判断する」とのことであるなら、これから先には何の展開もないとの話になります。これは少なくとも社会科学および自然科学を包括する「科学としての認識のあり方」からすれば相当に問題もあります。ここから先には何もないのであれば、将来は現在と変わらない形になり、現代の矛盾なども持ち込まれたままの形になります。  尚、福祉にこだわっているご様子ですので「官制福祉事業の実例」ならば、古くは奈良時代の施薬院があります。これは光明皇后の発願により設けられた癩病(らいびょう、現在はハンセン氏病と呼ばれている)患者等を治療救済する目的で設立された機関です。そして中世の寺院も病者や卑賤の民を自らの領域内で保護し、彼等はそれに対する代価を支払う形の契約行為で生計を維持していたことも知られています。つまり寺社自体が社会福祉法人としての性格を持ち合わせていたともいえます。  また江戸時代でも、現在の東京大学小石川植物園にその面影を遺す「小石川療養所」などもあります。こうした事例を見ますと、必ずしも質問者様がお持ちの知識が妥当な内容ではないことも明らかになりますので、一般向けとしては現在もなお評価の高い『中公文庫版 日本の歴史』全巻を通読されることをお薦めします。中世編の部分を執筆している担当者は何れも日本の中世史学界を常にリードしてきた先学ばかりであり内容も折り紙付きです。なお余談ですが、この中には僕の恩師も何人か含まれています。  >そして「武士が威張りくさっていた」なども、戦後の教科書にはその様な記述があるなどとはにわかに信じることもできません。  僕は、武士の中でも貧乏でないある程度上流の武士の事をいっているのです。威張り腐っていたと言うのは、武士ならばそれ以下のものを殺しても咎められない、簡単な例で言うと、参勤交代のときは農工商以下のものは道端で土下座をして通り過ぎるのを待たされる。「下にー、下にー」と。そういう所が威張り腐っているという証拠ではないでしょうか。  これも間違いです。「士農工商」との職業区分も実際には社会構造を示す制度ではありません。常民と非常民の区別はあっても、それは卑賤観念に基づく問題であり儒教道徳それも朱子学を基盤とする幕藩体制の本質とは意味も異なります。  徳川による幕藩体制は経済力のある島津や伊達といった有力大名の経済力を削いで疲弊させる目的で、様々な嫌がらせを行ってもいて、参勤交代や江戸詰、城普請や治水感慨事業のための負担などといった形で微に入り細に入りする形で人的および金銭的要求を次々に行うある種の独裁権力でもある。  >最後にもう一度だけ言っておきますが、僕は勉強嫌いではありません。勉強は大好きでした。そのピークの中学の頃は学年でトップでした。5教科9教科も問わず全体でも男女別でもクラス別でも全て成績表は1番が入っていました。勿論社会も含めてです。社会も中学の頃は地理、歴史、公民全て理解できました。  この部分が先程にお話しした「勉強しないことの意味」です。「テストで高得点を得ること」や「クラスや学年で成績上位になること」が勉強することの意味ではないこともお話ししました。  僕らからすれば、あんなモノは点取りゲームでしかなく、それも「結果としての意味」など持たないほどのツマラナイ存在でしかありません。  今後は本質的な勉強をしていただければと存じます。

noname#245555
質問者

お礼

 返事が大変遅れました。誠に申し訳ありません。 > これが第一の不幸な部分です。少なくとも貴方は点数を獲ること=勉強すること、と矯正されてきたのでしょうね。   違います。僕は勉強をやる時は、人生に教養(教訓)を身につけよう、学校で習う事も町で出会う事も何でも知って教養と知識を身につけよう、折角このような素晴らしい地球という惑星に生まれて来たのだ。生きて行く以上何でも知っていたほうが人生豊かになる、という事も含めまして、好奇心旺盛に知識を深めようと思っていたのです。 >本来ならば中学生以降の段階で、教科書や教員の説明に対して「疑問符」を投げかけたりすることがしばしばあるはずですが、貴方のメッセージからはそれが一言として感じられないのです。      これは99%合っています。僕は中学生の頃教師に「疑問符」を投げかけた事は、ほっとんどありませんでしたね。 >厳しい言葉を使えば、貴方は親や教員の前で「学校秀才や良い子を演じていた」にすぎない、それも自身を押し殺す形で。それが歪んだ認識に繋がってしまったともいえます。   そうです。その通りです。 >確かに「模範解答に従うこと」は一番楽な方法ですが、「学ぶことの本質」が読書したり、様々な議論を闘わせる中で「別な考え方」に接し、それによって議論そのものをアウフヘーベン(高次の内容へと止揚させる)し同時に認識も深化させるとの意味からすれば、「鋳型にはめられた工業製品」の様に画一的な思考様式ほど「非学問的姿勢」は他にありません。この意味で、貴方は本質的な勉強を何一つ経験もしていないことと同じです。   そうかも知れません。 >「現代の仕組みや概念」をそのまま「過去」に適用することは学問として適切な姿勢ではありません。そうした「御都合主義」の姿勢を歴史学では「プロクルーステースの寝床」などと呼び、厳に誡めています。   そうですか。そのような既成概念がすでにあった訳ですね。  しばらくはフムフムといった感じで、 >こうした事例を見ますと、必ずしも質問者様がお持ちの知識が妥当な内容ではないことも明らかになりますので、一般向けとしては現在もなお評価の高い『中公文庫版 日本の歴史』全巻を通読されることをお薦めします。   えーと、僕にとってはこの中央公論的な書物は一番苦手というか退屈なジャンルの本です。お解りになるでしょうか、僕の気持ち。こういった本を読むのはもっと歳をとったら読む気になるかも知れません。が中央公論ではなく、文庫版 日本の歴史なので読もうと思ったら読めるかも知れません。 >この部分が先程にお話しした「勉強しないことの意味」です。「テストで高得点を得ること」や「クラスや学年で成績上位になること」が勉強することの意味ではないこともお話ししました。  僕らからすれば、あんなモノは点取りゲームでしかなく、それも「結果としての意味」など持たないほどのツマラナイ存在でしかありません。   しかしですね、公の義務教育の中の学校でやっている事、先生も親も子供の学校の成績を上げるため、というのは教養を得るために、子供の仕事は勉強して成績を上げる事だと言って、大々的に全子供が学校へ行き、全国で皆がやっている事です。それを[あんなモノは点取りゲームでしかなく、それも「結果としての意味」など持たないほどのツマラナイ存在でしかありません。]と言い切るのはちょっと言い過ぎの感がありますが。 >今後は本質的な勉強をしていただければと存じます。   その本質的な勉強と言うのは、『中公文庫版 日本の歴史』全巻などを読むことも一部に入っているものだと思われますが、ずっと戻って >国語や英語そして数学で答の出し方には幾通りもの表現形式があって、それは何よりも生徒自身の物の考え方を具体的に反映している結果です。  そうした本質的な部分を差し置いて、教員や教科書に書いてあること以外は全てダメな答と判断する根拠がどこにあるのでしょうか。これこそが「本質的な病状」であるといえます。   の部分の、前の部分はおいといて、[「本質的な病状」であるといえます。]という部分はかなり当たっているのかも知れません。前の部分の「国語や英語そして数学で答の出し方には幾通りもの表現形式があって、それは何よりも生徒自身の物の考え方を具体的に反映している結果です。  そうした本質的な部分を差し置いて、教員や教科書に書いてあること以外は全てダメな答と判断する根拠がどこにあるのでしょうか。」という部分は僕にはあまり当てはまらないと思うのです。なぜなら教員や教科書に書いてあること以外はすべてだめな答えと判断はしていないからです。  でも、本質的な勉強とは一体具体的にはどういう勉強の事を言うのかという疑問も少なからずはあります。  長文になりましたが、御回答有難う御座いました。

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