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因果?
仏教に明るい方に質問なのですが、 仏教は一神教ではありません。でも因果の法則を考えると原因の原因…、つまり第一原因の存在がみちびかれるような気がします。にもかかわらず一神教の立場をとらないのはなぜでしょうか。 第一原因=唯一神ではないと言いたいのでしょうか。 般若心経でいう「すべては一つなのだ」のひとつの事を仏教では神とは定義していないのでしょうか。 教えてください、お願いします。
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3です。 すでに自分なりの考えができてしまっているようにも見えますが、一度、中村元の『般若心経・金剛般若経』(岩波)でも読んでみてください。どうも先入観があるのではないかという気がしました。 仏教と言っても、広いですけど、すべては一つというような仏教の考え方は般若系経典は基本的にしないです。龍樹という代表的般若思想家などは、激しく否定するところです。これも「中論』(レグルス文庫か?)に翻訳がありますから、一度読んでみてください。「すべては一つ」というのは、梵と我の合一を説くバラモン哲学の流れですね。これ自体を釈迦が攻撃した箇所を知りませんが、前記龍樹は否定しています。本体論と言われるものは、空を説く仏教では説きません。yuutokuさんの出発点を否定するようで申し訳ないですが、それは仏性を説いた経典や密教など、大乗仏教の後期の教えです。ないものについては、あまり見つかりませんが、前記龍樹などは、激しく攻撃していますから、読んでみてください。また無因論とか自然外道と言いまして、沙門果経などに、造物主などは、否定されています。あらゆるものに原因があるからです。これなどは、原始仏教の考えをかなり忠実に反映しているでしょう。九十六(種)外道とか、言います。翻訳は忘れました。第一原因はない、と言う私の答えもこれらに基づいています。因果思想の厳密な適用からしてもおかしなことになります。外道については、釈迦の解説の一冊も読めば出てきますでしょう。 それともう一つ言えば、釈迦の在世当時は、因果論は、人間の意識や苦悩する状態のメカニズムに限られていて、全ては一つというあなたの「すべて」が何を指しているのか知りませんが、世界全体を説明する気などはあまりなかったように思われるということです。もう少し時間が経ってから大系化されたとされています(『縁起の思想』三枝、法蔵館など)。釈迦にこだわるなら、ない思想です。無関心であったようにも思います。 釈迦の思想内容については、『ダンマ・パダ』(中村元、岩波)、『スッタニパータ』等、中村元の本・・・全部岩波文庫・・を読めば、大体分かります。 もちろん、経典は、釈迦後世の編纂物ですから矛盾や不純物はあります。それについては、研究社で意見の相違はありますが、ネットで無責任な意見を聞くよりあてになります。 それから、「神」とひとくくりにおっしゃいますが、神の位置づけが宗教で、全然違います。仏典では、神は迷える存在です。人間の一歩先輩の存在くらいのレベルです。人間も良い人は、死後に神に転生しています。キリスト教では神に転生するなんて、ありえませんね。それに、原始仏典では、神はほとんど説法を聞く人として登場していて、神であることの特性はほとんど関係ありません。ですから、仏典制作者の飾りとさえ言う人もいるくらいです。大乗仏典では、神や仏の素晴らしい特性ばかりが延々とのべられる経典もありますが、ここは原始仏典は違います。釈迦がいわゆる神の存在をどこまで認めてみたかも明確ではありません。「受け入れなかった」ではなく、「正しい梵天の生き方」として、説教に利用していることはありますし、「生天」の思想といいまして、良い人は死後天に生まれる=神になることです、と言っています。この点からすれば、単なる否定論者ではないです。どこまで神の認識をしていたかは明確ではないです。これらは、すべて岩波の中村元などを見てください。 いっぱいご質問があって、書きにくいのですが、最後に。 >仏教とは『空』による一神教ともいえるのではないかということです。そして、そのあたりの事を釈迦はどのように考えていたのかぁと…。 一神教・・ですか? 一神教というものをどう考えておられるのか知りませんが、釈迦はそんなことには無関心なんじゃないですかね。 見てる限りでは、苦しみからの解脱しか頭になさそうです。後世の大乗仏教を指して、そういう表現をするのは出来なくもないかもしれませんが、信仰の形態を説明してそういう表現は可能かもしませんがね・・・、哲学からは導くのは難しいかもしれない・・。 >こうも考えています、多神(教)も突き詰めると一神(教)になるのではないのかと。どんなんでしょう…。 一神教とは違うでしょうけど、密教でいう大日如来などは、一神教に近い性格も持っているとは言えますね。もちろん、密教はいろいろな神々や仏を取り込んですべて大日の化身としてしまいますから、そこは大きく違うとも言えますけども。突き詰め方が、違うのでしょうね。
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>でも因果の法則を考えると原因の原因…、つまり第一原因の存在がみちびかれるような気がします。 その考え方自体が、西洋哲学(アリストテレスでしたっけ?)の考え方だと思います。 というのも、あなたの仮定する「第一の原因」とやらは、因なくして成立してるわけですよね? 仏教では、そういうもの(固定的なもの、変化しないもの、実体)の存在を基本的には認めないのではないかと思います。無常、変化しないものはない、(大乗では、だから空)というのが基本的な教理です。基本的というのは、哲学思想としては、あらゆるものは変化しているという仏教者も、信仰のレベルで、阿弥陀仏や大日如来という神と概念的に重なる存在を建ててしまうと、原則は崩れるように思うからです。しかし、それでも因果を否定して何か第一原因を建ててしまうことには、基本的には否定的とされます。 般若心経にあるという「すべては一つなのだ」というのは誰の解釈かしりませんし、そういう解釈を個人的に言う人は聞いたことがありますが、般若心経は学問を踏まえた読み方では、そんな解釈では通常は読めないと思います。中国仏教では、そういう解釈をする祖師もいそうですが・・。。 >第一原因だろうがなんだろうが、ゼロでもいいのですが、法則だろうが、なんだろうが原因の原因となった存在?を想定していなかったのだろうか、どうなのかを思わせる教典なりを知りたいのです。 ですから、「ない」が答えだと思います。 ただし、解釈で、仏性を第一原因に措定したり、法性をその意味に近い意味に捉える向きは東アジア仏教にはありますが、それでも固定的な意味で仏性が存在するのではないと但し書きがついていることも多いです。 第一原因がないので、どこまでも時間をさかのぼれますので、印度(仏教)的な時間論では、「無始時来」といい、「始まりもない昔から」と言います。キリスト教みたいに、あるときに出来るのではなく、昔から転変を繰り返しつつ、因果の流れの中で変化していくわけです。 第一原因を建てる考えは、仏教の立場からは、「外道」として否定される立場です。
お礼
おっしゃるとおり仏教では第一原因を立てる考え方はしていないと思います。(これも教典で確認したわけではありませんが…というかどこにかいてあるのかもわかりません。原始仏教というか、釈迦がこういったよ、という箇所を知っていましたらぜび教えてください。僕自身もはっきりしますので) この般若心経の全ては一つなのだ、という解釈からすると 矛盾と言うか、そこはどうなんだろうと疑問が出てきます。舎利子は釈迦から聞いたよという形をとっていますので本当はどうか知りませんが、釈迦が全ては一つなのだといっていると理解できます(方便かな?)。ただし すべてはひとつなのだという解釈がただしければ…そこが僕の疑問の発端なんですけどね。舎利子は釈迦の十大弟子の一人なので、限りなく釈迦に近い存在と言えますから、あとから発達した仏教の考え方よりもより釈迦の考えに近いとおもわれます。 あとは般若心経の解釈が問題になってきますけどね。 >般若心経は学問を踏まえた読み方では、そんな解釈では通常は読めないと思います。 学問を踏まえた読み方ではどういった読み方をしているのでしょうか、興味あります。僕は知りませんので、教えていただけないでしょうか、もしくはそれが分かる本などでも構いません。 >ですから、「ない」が答えだと思います。 ですから、といわれても困るのですが、それはさておき、少なくともバラモン教には神と言う概念がありました。 リグヴェーダにもでてきます(原文を読んだわけではありませんが)釈迦にも神と言う概念はあったと予想されます。釈迦はそれを受け入れなかったのでしょうけど。 otorisanの書かれているように、またranxさんのいわれているようにいろいろな解釈・体系があって、混乱してきます。はたして純粋に釈迦はどう考えていたのかをしることは出来ないものなのでしょうかね。 釈迦のみぞ知るといったところなのでしょうか。 まぁ、原始仏教関係に触れてみようといういいきっかけになりました。 しかし、イスラームのアッラーもキリストのヤーヴェも時間を超えたもともとあったもととしてあるはずなので、そういった意味では仏教の無始時来に似ていると思ったりもします。 まだよく分かっていません。 ありがとうございました。
補足
もう一言なんですが、僕が何をいいたいのかというと、 仏教とは『空』による一神教ともいえるのではないかということです。そして、そのあたりの事を釈迦はどのように考えていたのかぁと…。 こうも考えています、多神(教)も突き詰めると一神(教)になるのではないのかと。どんなんでしょう…。 ちなみに僕は一応、無神教に近い仏教徒です。
- netcatme
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一神教とは、唯一「人格神」が存在する宗教、と言う意味です。 人格神がいない仏教は、神がいない宗教と呼べるでしょう。仏教における仏、如来、神とか呼ばれるものは、キリスト教での天使や使徒に該当します。「法」を、いわゆる「神」とは呼びません。仏教でも「神」と呼ばれる存在が登場する場合がありますが、便宜上の例え話に近いものであり、あまり重要なものではないと思います。(キリスト教でのミカエルとかの天使の物語と似たようなものではないでしょうか) キリスト教では現在、神の「人格」が失われつつありますから、事実上はキリスト教と、日本仏教は近づいてきている気はします。
お礼
人格神…なるほどと思いました。 そういう見方をすると、仏教にはそういった概念がないでしょうね。(僕自身でそういった教典の箇所を確認したわけではありませんが…) でも、そうなんですか?よく絶対者とか超越者とかいう表現がありますので人格的なイメージをしてしまいますが、 はたしてアッラーは人格神なんでしょうか、天使はともかく。 アッラーやヤーヴェなどと同じくみられるイェッラーミールそのものには人格的なイメージがないはずなので…。 でも人格神という切り口からいろいろ調べてみるのもいいなぁと思いました。ありがとうございました。
- ranx
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詳しくはありませんが、 ゼロの概念を生み出した民族ですからね。 第一原因の前には第零原因があって、 ひょっとしたら、マイナス一原因もマイナスニ原因も・・・ と考える方を自然と考えたかもしれませんね。 「かみ」は日本語、「神」は中国語、いずれも英語の 「God」の概念とは異なりますよね。「God」に相当する 古代インドの語があったかどうかは知りません。 (まあ、概念が無ければ言葉も無いでしょうけれど。) 仰るような「一」が神に相当するという解釈は成り立ちうると 思います。ただし、後代に生きる我々だからこそできる解釈です。 あるいは、大乗仏教の大日如来がそれに相当するという解釈も できると思います。 仏教を確定した宗教思想体系と考えて答えを出そうとするのは 無理があると思います。一つの宗教思想の流れの中に様々な 考え方があり、その全体が仏教という世界を形作っている、 そんな風に考えた方がよいと思います。
お礼
リグヴェーダには神の事をしっかりと書いてありますよ。 ですから釈迦も知っていたと思われます。 >仏教を確定した宗教思想体系と考えて答えを出そうとするのは 無理があると思います。一つの宗教思想の流れ>の中に様々な 考え方があり、その全体が仏教という世界を形作っている、 そんな風に考えた方がよいと思います。 全くそう思います。なるだけ今は釈迦と言うところに焦点を当てて考えていきたいと思います。 こんかいはありがとうございました。
補足
ご即答ありがとうございます。 第一原因だろうがなんだろうが、ゼロでもいいのですが、法則だろうが、なんだろうが原因の原因となった存在?を想定していなかったのだろうか、どうなのかを思わせる教典なりを知りたいのです。 大日如来だって後から出来たものでしょう。 釈迦は想定していなかったはず。 要するにお釈迦様はどのように考えていたのかとか、でなければ大乗仏教ではどう考えていたとか、密教ではどうかとか(ある程度)具体的に知りたかったのです。もしくは知る道しるべが欲しかったのです。(お釈迦様は死後の世界について知らないといってたはずだし…) 一番知りたいのは因果の法則を唱えたお釈迦様がそのあたりをどのように考えていたかですね。 質問には言葉足らずがあったようですね。 しかしお釈迦様と書くと熱心な仏教徒みたいですが、ぜんぜんちがいます。
お礼
どうもご親切にありがとうございます。 >yuutokuさんの出発点を否定するようで申し訳ないですが いえいえ、そんなことは全くありません。自分の仏教(ほかの宗教にもいえますが)に対するごちゃ混ぜになった認識を、ある一つの仮説を立て、それを検証していくことで正しくしていこうと思っていますので、全然気にしていないですよ(でも、ちょっとくやしいかな(笑)) 原始仏教、大乗仏教、密教、日本仏教など結構自分の中でごっちゃになっていますしね。 般若心経の解釈ですべてはひとつなんていうのもネットで堂々とかいていましたから、それも自分の中で調べるポイントとなりました。 この質問をした後からなんですが、中沢新一さんの本を今読んでいます。中村元さんの本はこの後にでも読もうと思っていましたが、勧めていただいた本を先ず読んでみたいと思います。 回答ありがとうございました。