体罰とは?意味や問題点、最近の事件について考えてみる

このQ&Aのポイント
  • 運動部での部活動における「体罰」の意味や問題点について、経験を交えながら考えてみました。
  • 自分も体罰を経験したが、それを克服するために努力をしてきたことを紹介しました。
  • 最近の体罰事件について触れながら、皆さんの意見や感想を聞きたいと思い質問しました。
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体罰って。。。何でしょう。。。

あえて質問させて下さい。 運動部、それも強豪校と呼ばれている学校での部活動に置いて、「体罰」とはどういった意味を持つのでしょう? 自分も若い頃は、バリバリの体育会系でした。 小、中、高と、同じ部活を続けていて、その中で、監督やコーチに殴られ、蹴られてきました。 口の中が切れて血が出た事もあります。 中には竹刀で叩く先生もいたり、過酷な練習の中で過呼吸になって救急車で運ばれた仲間もおりました。 だからこそ、そうならないように、部活外でも自主練習をしたり早朝ランニングをしたりしながら克服しようとしました。 一応、インターハイ常連校でした。 教師が生徒を叩く。 そこに愛があろうが無かろうが、それは間違いなく「体罰」と呼ぶのだと思います。 今回はそれで、自殺した生徒がいるのも事実。 何と言えばいいのか分かりませんが、なんだかモヤモヤします。 皆さんは、今回の事件をどう見ているのでしょうか? 教えてください。

noname#246942
noname#246942

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回答No.19

丁寧なお礼、ありがとうございます。 > いくつになるまで、子供が歩く目の前の道の小石を除いてあげれば良いのでしょうか。 私は、一応、頭の中では「子供が親になるまで」って、割り切ってますよ。 もし自分の命より大事な存在が出来たら、その先は、自分の命を賭けて、それを守らなきゃならないワケですから、自分の命も、もっと貴重になりますからね。 逆に言えば、人間は、いずれは誰もが「自分の命より大切な存在」とか、「自分の命を賭してでも、やるべきこと」などを見つけねばならないのでは?と思います。 それを見つけるために施すものが「教育」であって、また、それを見つけるまでの間は、学校は元より企業などの組織でも、サポートすべき部分があると思いますし、そのサポートを最前で行うのが「親」ではないか?と考えています。 また私は、この事件の原因の一つは「体罰」ですが、本質は「体罰では無い」と思っています。 「体罰」とか「いじめ」などを問題の本質と捉える限り、「自殺問題」は解決しません。 「体罰」や「いじめ」を、「犯罪」とか「理不尽」などと言い替えたら簡単ですが、犯罪や理不尽は、尽きませんからね。 そもそも、悪いことを「悪い」と言うのは、小学生レベルの話しに過ぎず、またそれらを「無くす」などと言うのは、理想論に過ぎません。 現実的には、それらが「ある」と言う前提で、対処や対策を考えなければなりません。 また、「原因を悪」とする限り、原因は尽きません。 たとえば「罰としてグランド1周してこい!」と言われたとして、もしそれが言われた側にとっては「耐えがたい恥辱」などであったとすれば、やはり自殺に至る可能性になり得ますので。 たとえ生徒から、強い尊敬や信頼感を得る素晴らしい指導者が、体罰など全く行わずとも、これとて万全とは言えません。 その信頼する指導者から、厳しい言葉が発せられ、それが本人にとって「到底受け入れられない様な内容」であれば、これでも自殺原因になり得るワケです。 更に、社会に出たら、理不尽だらけです。 たとえ自分が悪くなくても、上司や客に、頭を下げねばならないのが社会です。 しかし、それが本人にとって「我慢ならないこと」であれば、それも自殺原因になり得ます。 もしそういう事件が起きれば、今度はマスコミは、グランド一周を「行き過ぎた罰」と言い、上司,客,優れた指導者を、「やり過ぎ!」「言い過ぎ」などと非難する気でしょうか? どこかまでは「我慢すべき」であって、どこかからは「我慢すべきではない」が存在します。 そもそも、物事を「学ぶ」とは、我慢を伴うものであり、教育には我慢を教えると言う側面があると言えるかも知れませんし、また「すべき」「すべきではない」の分別を教えるのも教育です。 ただ、我慢の境界や分別には、個人差がありますね。 個人差のある問題であるにも関わらず、画一的に「体罰=悪」とのみ報道するマスコミは、どうか?と思わざるを得ないし、そう言う視点である限り、こと「自殺問題」に対する解決策など出てきません。 「犯罪が無ければ、被害者は出ない」は当たり前です。 しかし「犯罪が無い社会」を実現するのは不可能です。 それにも関わらず、「社会には犯罪が存在する」と言う前提で、「では、どうする?」の議論が皆無ですから、それがモヤモヤ感が無くならない原因の一つだと思いますよ。 上述の「我慢」を教えるのも、教育であると思います。 体罰は、それを教える上で、有効な手段の一つであるとも思います。 体罰などの苦痛や苦労を、我慢で乗り越えた先に、「問題解決力」とか「成功体験」が得られますので。 他の回答者さんが、殴られたことを「許せない」と仰ってますが、それで構いませんし、普通だと思います。 ただ「殴られても生きている」が事実であって、即ち「殴られた精神的苦痛に耐える力を得た」わけです。 仮にトラウマであっても、トラウマとは、「その恐怖には耐えられないから、二度と遭遇しない様に」と言う、自分への警告が得られた経験と言っても良いです。 ただ、それが子供に対し、適している場合のみが有効であって、世の中には適さない場合も存在します。 自殺者の如く、その一つが致命的になり得るケースが存在しますので、それに対して、「備え」は絶対に必要です。 しかし、十数年に1件と言う割合で発生する事態に対し、マスコミの「それを標準にせよ」とでも言うべき姿勢・主張も、どうか?と思いますし、これもモヤモヤ感の原因かも知れません。 全く違う言い方をしますと、マスコミ的な理想論的な主張が正論とすれば、解決は非常に簡単ですよ。 たとえば学校教育において、たとえば部活などは無くしてしまえばOKです。 そしたら、「部活の顧問による体罰」は、全国的・画一的に解決しますからね。 教師には、拘束具を着させても良いし。 いじめ問題も含めて考えれば、通学などさせず、PCでもを使って、家庭で個別に教育すれば良いワケです。 ただ、そんな教育方法が正しいワケがありません。 しかし問題とか、問題の本質を履き違え、原因側のみを追及すれば、こんなトンチンカンな解決策になりますよ。 おまけに破廉恥なマスコミは、そんな解決策に対しても、平気で批判するのでしょう。

noname#246942
質問者

お礼

二度に渡りご回答頂き、本当に有難うございます! お礼が遅れ、誠に申し訳ございませんでした。 今回、質問をしていて分かった事は、「体罰は良いか悪いか」と言う事に「答えは無い」のではないか?と言う事です。 と言いますのは、ここで回答して下さった方達に、一つとして同じ答えが無かった事。 それが全てではないかと思うのです。 >人間は、いずれは誰もが「自分の命より大切な存在」とか、「自分の命を賭してでも、やるべきこと」などを見つけねばならないのでは?と思います。 その通りですね。 ただ、今の子供達は「自分の命よりも大切な存在」を見つける前に、その「自分の命」にどれだけ価値があり、どれだけ他の命に守られてきたのか?と言う事が分かっていません。 「分かっているつもり」になる時は、いつも自分の都合に良い時ばかり。 「大切にすべきもの」には、その分の「責任」も大いにあると言うのに。 あなた様の仰っている事は、ほぼ自分の考えと一緒です。 自分が他の方のご回答に対し、お礼した内容とだいたい同じです。 「体罰は良いか悪いか?」と言う答えを求めたら、それは間違いなく「悪い」と言う答えになるのは当然でしょう。 でもその前に、それを「悪い事にしない」方法はなかったのか? またそれを探そうとは思わなかったのか? それは、体罰を受ける本人、体罰を与える本人、それを周りで見ている第三者も全てに言える事だと思います。 今回はあくまで、昔の部活動内の体罰に限定して話を進めてしまいましたが、昔はクラスでいじめがあると、それを見つけた教師が、いじめをしていた生徒を殴るという体罰が普通にありました。 「人を殴れば痛いんだ。これでお前に殴られていた者の気持ちが分かったか!」 実に簡潔、実に単純な言葉と行動でした。 でも、未発達で単純な子供の自分には、大いに響き、素直に理解出来る事でもありました。 恐怖や痛みを教える事は、自分はそれ程悪い事だとは思いません。 もちろん、程度はあると思いますし、必ずしもそれを大人が子供に対し絶対教えなくてはいけないと言うる事もないと思います。 しかし、人間が本来持っている本能や感情を、自分が正しく使うためには、その本質を自分が正しく理解していなければならないと思います。 それが、相手に正しく伝わるかどうかは別にしても、です。 「形式だけの体罰推進」も、「形式だけの体罰禁止」も、どちらも似たようなものではないでしょうか。 それと、昔、教師に殴られた際に言われたことがあります。 「人を殴れば、殴った方の手も痛いんだ。その意味を理解しろ」 「痛いんなら殴らなければいいだろう。恩着せがましい」とその時は思いましたが、今ならその意味が理解出来ますね。 人の行動には必ず、その時の「本人の優先されるべき」事が存在します。 いじめで人を殴っても自分の手が痛い。体罰で生徒を殴っても自分の手は痛い。 しかし、その自分の手の痛みよりも優先されたのは「快楽」だったのか「期待」だったのか。 要は、そこまで考えるのが面倒だから、一律に規制してしまえば良いだろう?と言うのが今の社会の風潮のような気がします。 その証拠に、「体罰は単純で愚かの指導者のする事」と回答くださった方々に、再度「では愚かではない具体的な指導方法とは何か?」と尋ねても、誰一人答えてくださる方がおりません。 本当に親身になって誠意を持って相手と対峙する事が、どれだけ大変な事なのか。 それが分かっていて発言している事なのか、気になる所であります。 悪い可能性のある事は全て排除し、少しでも批判が出る可能性のある物は全て規制し、学校は教師は勉強だけを教えれば良いと言うのであれば、本当に仰る通り通信学習で十分だと思います。 それ以上、何かを望むことは、どれだけ無責任な事なのか、全ての保護者、大人にもう一度考えてもらいたいですね。 ここで質問しご回答頂いた事で、自分の持っているモヤモヤ感は、今の親も教師も周りの大人も子供も、無責任そのものに見える風潮に対しての事だと、そう理解する事が出来ました。 二度も長文になってしまい、本当に申し訳ございませんでした。 あなた様のような方からご回答頂けました事、本当に感謝します。 また何かの機会がございましたら、よろしくお願い致します。 有難うございました!

その他の回答 (24)

回答No.25

私は体罰も含めて「罪に対する罰」「規則違反(ルール違反)に対する罰はあって当然だと思います。話は長くなるので今回の「強豪校と呼ばれている学校での部活動」にだけついていえば、どこの高校に入るのも自由であるはずなのに、なぜ男子生徒がこの高校を選んだのでしょうか。又は両親のどちらかが自分の息子を無理に推し進めたのでしょうか。栄光と名誉はだれでもほしいのです。 (顧問になぐり殺されたり、監禁されたりなら話は別ですが) 私の想像では部活に入る時、顧問から「うちの部活は楽しむ以上に、勝って頂上をめざしているので、時にはびんたもとぶ」と覚悟のような内容を最初に話しているかもしれません。勝負の世界はテレビで見る華やかな世界と、地道な個人の孤独な精神力の戦いです。三四郎の歌じゃないですが、「人に勝つより自分に勝てと言われた言葉が胸にしむ」ような世界です。簡単に勝てる世界ではありません。 人には生まれ持った器というものがあります。もちろん夢は夢として持ってもいいけれども、無理なものは無理でしょう。男子生徒は顧問と両親(弱音をみせたくない)の狭間で葛藤し自分の限界を感じたんでしょうね。 人間と言うものは自分より可愛そうな人をみると弁護したくなり、有名になると「すごいね」と言いながら心では妬んだり、うらやんだりするものです。 罰は大事な事です。人間が間違った判断で他人を罰した時は、必ず何らかのかたちで天罰が下ります。聖書に「神をおそれることは知恵のはじめなり」とあります。顧問にやましい事があれば顧問自身が悩むであろうし、両親にやましい事があれば両親自身が後悔に苦しむでしょう。

noname#246942
質問者

お礼

ご回答頂き、誠に有難うございます! すいません、自分のお礼が長すぎて、もうこんなになってしまいました(汗 それにしても、確かに「天罰」も「罰」の一つですね。。。 なんだか滋賀大津の教育長が襲撃された際、それが「天罰だ」と言っては賞賛されていた事を思い出します。 この問題の続報として、他の回答者様にもお礼で伝えましたが、何でもこの学校には本来あってはならない部員宿舎があったようです。 今回、そこで何か問題があった為に、その事で校長がその宿舎を廃止にするとの決定がなされていたそうです。 その事に対し、主将である今回の生徒は非常に悩んでいたとご両親がコメントを出したそうです。 それに加え、「自分だけが叩かれる」と言った「主将としての体罰」を与えられた事により、その責任感が間違った方向へ向かってしまったのでしょうか。。。 第三者が簡単に推測できる事でも、また簡単に推測してはいけない事なのかも知れませんが、なんだかやり切れないですね。 聖書の事はよく分かりませんが、参考にさせて頂きます。 本当に有難うございました!

  • ssele-man
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回答No.24

>運動部、それも強豪校と呼ばれている学校での部活動に置いて、「体罰」とはどういった意味を持つのでしょう? 集団競技であれば、統率性が要求される場合もあるため、度が過ぎなければ指導の一環になるのではないかとは思います。 また、相当の悪童であれば、もはや手が出てしまう事もあるかもしれません。 ただ、本来無関係な人同士であれば、余程の理由がなければただの「暴行」なんですよね。 実際例えば質問者さんのお子さんが図書館で大きな声を出してしまい、通りすがりの 大人が血が出るまで殴ったとして… 多分質問者さんは「教育してくれた」とは思わないと思うんですよね。 まあ、少なくとも大部分の親は思わないんですよ。 相当の悪童に用いるにしても「自分は悪い事をしたから痛い目にあった」と学ぶ可能性もありますが、「殴ったら自分の言う事聞かせられるんだな」と学んでしまうという危険性もあります。 極端な例を出しましたが、本来は「暴行」である事を「罰」にするのは難しいわけです。 だから更に「体罰」を教育に昇華させるには相当のテクニックが必要だと思います。 最低限ある程度の信頼関係が要りますし、相応の理由も要ります。加減も要ります。 よって体罰は相当の上級テクが要求されるものではないかと考えます。 少なくとも「教育に暴力を用いるというのは相当難しい事である」と考えるくらいでないと 逆効果だったり、最悪の場合今回みたいに人死にを出すのと違いますかね。 その上で >皆さんは、今回の事件をどう見ているのでしょうか? この教師は体罰を使うに値しない教師だったという事だと思っています。 まあ「悪い事したら罰を受ける」に則るなら、大人社会のルールに則り 罰を受ければ良いんじゃないでしょうか。 後、1点気になった事があるため指摘しておきます。 ・他の回答者産とのやりとりで見かけましたが、「完璧でないが故に他者に完璧を求められない/求めるべきではない。」のであれば、子供に対して体罰を与える事も否定されなければいけないと思うのですが。 スポーツ強豪校であれば、完璧性が求められる場合もあるため、度を越さない体罰は容認されてもいいのではと私は思いますが、質問者さんの場合少なくともこれに対しては否定しなければいけないのではないですか。 何故なら質問者さんの理屈では完璧でない大人が子供に完璧を求める事はおこがましい事なのですから。

noname#246942
質問者

お礼

ご回答頂き、誠に有難うございます! >本来は「暴行」である事を「罰」にするのは難しいわけです。 だから更に「体罰」を教育に昇華させるには相当のテクニックが必要だと思います。 最低限ある程度の信頼関係が要りますし、相応の理由も要ります。加減も要ります。 >よって体罰は相当の上級テクが要求されるものではないかと考えます。 少なくとも「教育に暴力を用いるというのは相当難しい事である」と考えるくらいでないと 逆効果だったり、最悪の場合今回みたいに人死にを出すのと違いますかね。 前面的に同意ですね。 実際に、「教育に暴力を用いる」と言う事は本当に難しい事だと思います。 何が「本当に難しいのか?」と言えば、効果があったのか、それとも逆効果だったのか?と言う事は、「結果」を見なければ分からない事だから。 例えば、今回に問題になっている指導者は、今までの経緯、成績、結果から、それまでは仰られているような体罰を教育に昇華させていたテクニックのある指導者だったろうと思われます。 しかし、今回の結果は違った。 「今まで通り」の事を行った結果、最悪の事態を招いてしまった訳です。 それが、例えたった一度きりの事であったとしても、過去の全ての結果まで無にしてしまうほどの事であった。 本来、犯罪である体罰を用いてこのような結果になったのだから、 >この教師は体罰を使うに値しない教師だったという事だと思っています。 >まあ「悪い事したら罰を受ける」に則るなら、大人社会のルールに則り 罰を受ければ良いんじゃないでしょうか。 その通りになっても仕方のない事でもあると思います。 先ほど、この問題の続報がニュースで報じられておりましたが、なんでもその学校には本来あってはならない暗黙のような生徒宿舎があったとか何とか。。。 そこに問題があり、校長が廃止にすると決めた事で、何かと揉めていたそうです。 自殺した生徒のご両親の話によると、その事に対し、主将としての責任を感じ非常に悩んでいたとの事です。 そこに加えて、更に監督からの「主将として、主将ゆえの体罰」を食らったとすれば。。。 そう言った事も含めての見極め、判断する力が無かったという点では、確かに今精神に異常をきたし、自宅で塞ぎ込んでいる監督の心情も理解出来ます。 恐らく、この監督に対し、今後、情状酌量を望む嘆願書などが、生徒、OBの中から集まるのではないかと思います。 しかし、仮にそれで「社会的な罰」が軽減されたとしても、この監督が自身にかせる罰は生半可な事ではないだろうと自分は思います。 それと、ご回答者様が、自身の発言で「気になった」とご指摘された、「完璧でないが故に他者に完璧を求められない/求めるべきではない。」と言う事についてですが、よくこのように長い他人様のお礼内容にまで目を通して下さったなと、まずは感謝致したいと思います。 しかしながら、この発言の表現には少し語弊と誤解がありました。 自分が「完璧ではない自分が、他人に対して完璧を求める事はおかしい」としたのは、本来、「同じ子供を指導、教育する立場の大人、保護者の責任」に対してです。 否定し、完璧を求めるのであれば、まずは自分の責任を自覚しなければならないのではないか?と思うのです。 その上で、否定すべき事だと思えば否定すれば良いですし、完璧を求めるのであれば求めれば良い。 何度も昔の例え話を出して恐縮ですが、昔は教師が生徒に対し、「いじめを見たら止めろ」「いじめを知りながら黙って見ていた者も同罪だ」と発言する事ができました。 大津のいじめの件。あの問題以降、同教育委員会ではいじめを防ぐ対策として、「いじめを目撃した生徒がいたら、直ちに周りの大人、教師に伝える事」と言う対策案を出したそうです。 しかし、それが周りの保護者からのクレームによって白紙撤回されたそうです。 「子供に負担をかけるな」「それで子供が逆に虐められたらどうしてくれる」「それを子供にさせないのが教師の仕事だろう」 気持ちは分かりますが、大人が子供に「自分の責任」を教えずして、どうして虐めが無くなるというのでしょうか? 話を戻しますと、スポーツ強豪校では、確かに完璧を求められる為、どうしても厳しくなってしまうのは当然です。 でも、自論で言えば「教師が子供に対して完璧を求める事はおかしい」と言う事にも確かになるのだと思います。 ただ、それを求めているのは「教師だけ」ではありません。 本人も、周りも完璧でいる事、完璧になる事を求めています。 だからこそ、強豪校になれると言っても過言ではありません。 それを、「愚か、無能」と言う言葉で切り捨ててしまう事が、自分にはどうしても納得が出来ませんでした。 本当にすいません。何なんでしょう?この長文? 何を言いたいのか、最後の方では自分でもよく分からなくなってしまいました。。。 頂いたご回答は、今後の参考とさせて頂きます。本当に有難うございました!

  • jbeam
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回答No.23

丁寧なお礼を頂戴しました。 お礼6行>「活」と「愛情」の境界線は「具体的」・・・ 「活」と「愛情」は無関係です。どこをどう解釈されたのでしょう??? 15番の回答17~21行>坐禅中・・・・論外です。 のあたりは、ご理解頂いていますか? 「罰」とは罪に対してのペナルティで有り、そのペナルティを体に行うから体罰です。 「活」とは罪に対してのペナルティで無いと説明したくて禅の警策の事を書いています。 通常の警策と違い、罰策・罰警と言うのが有りこれは雲水が、その修行中に規矩を破ってしまった際、「罰」として警策で打たれることを指し、罪を犯した事に対する罰です。仰向けに寝られないほどの激しさです。 法に背いた場合裁判により刑と言う形で罰を受けます。 この罰は法に基づく裁判で量刑が決まるのです。 無能な指導者が勝手に行う体罰とは大きく差異があります。 欧米では体罰を容認している所もありますが、体罰の手順や方法が細かく規定されています。 お礼14行>自分の場合、自身が・・・・・・「活」になりました。 「暴行」と「体罰」と「活」を混同されているようですので 暴行・・・罪とは無関係で、与える側の勝手な都合(限度無し) 体罰・・・罪に対する罰で、罪は与える側が勝手に決定(限度無し) 活・・・・・罪とは無関係で、覚醒、励ます等で行う(通常1発、禅では数発) 「体罰」・「活」共に相手に怪我を負わせたら暴行傷害です。 それが日常繰り返されたら虐待と言います。 禅修行における「警策」とスポーツにおける「活」は目的が似たようなもので、分かり易いと思い例に出しましたが、かえって混乱させたようです。 できない・負けた・指示に従わない事に対する罰であれば、これは体罰です。 指示に従わせるために行うなら、これは脅迫です。 試合前に自分でほっぺたを叩く選手がいます。走れなくなった時自分で足を叩く選手がいます。これを変かわりに叩いたり、大声で一喝することを「活」を入れると言い、怪我をするほど叩くのは暴行です。 怪我をする程の暴行が日常繰り返されたら虐待です。 効果が有ったから「活」では有りません。虐待で得た効果は単に暴力よる支配下において結果を残しただけで、技量の向上には、通常の指導との差異がないと言う事と選手の自主性を阻害している事を認識すべきです。 お礼15.16行>体罰が、良いか悪いかの極論・・・・・ます。 質問者様と善悪の判断基準が違う様ですので、 体罰が良いか悪いかは関係ありません。学校教育の場では、その有効性が否定され、日本では犯罪とされています。 お礼17行>でも、なぜ全ての人間がその極論に偏る事がないのか? 日本は法治国家であり犯罪を犯せば糾弾されるのは当たり前。 お礼18~23行>理由は・・・・・・・・・・・・実に好都合です。 曖昧で判定出来ないからこそ、できない・負けた・指示に従わない事に対する罰を「体罰」として法で禁止されているのです。 お礼24.25行>あなた様は、妻子には・・・ 妻子やペットの犬に手を上げた事は皆無、「活」を入れる理由など有る訳ないでしょ。 お礼26.27行>「教師だから」「指導者だから」と言う理由だけで・・・・しょうか? 完璧でない事が犯罪を犯していい理由には成りませんよ!! お礼28.29行>教師であっても、親であっ・・・・ないでしょうか? 「成長して行く」人も居ます。成長しない人も居ます。 お礼30.31行>今回の問題は、お互いに・・・・原因はないでしょうか。 関係者全員に原因はありますが、その割合・度数は全く違いますよ。 お礼34.35行>全ての体罰」をいじ・・・・・・納得が出来ないのです。 法で定められた体罰を罪とする事が納得できないなら、法改正まで待つか運動してください。 お礼37行>あなた様方は、今後どのような・・・・・望んでいるのでしょうか? 指導者の基本姿勢 -山本五十六- 【やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ】 言葉で納得させられる技術を持ち、目標に対しPlan・Do・Check・Actionを回し、常に努力を怠らないプロ意識に徹する人。 ↑ビジネスマンや社会人としては当然の事、後は子供の手本となるよう法は勿論規則を守る事は最低限の事です。 お礼38.39行>体罰を用いる教師は愚か・・・・おりません。 欧米ではすでに確立しているスポーツ科学では「スポーツが強くなり進歩することと暴力、体罰は全く関連性がない。」「かりに即効的に効果が上がっても、その効果は持続しない」「体罰を加えるのは言葉で納得させられない指導者の未熟さを表す以外の何物でもない」。 お礼44行>絶対服従しなく・・・・・良い時もあるでしょう。 有りません。軍隊で上官の命令に従わなければ軍法会議にかけられます。場合によっては死刑です。 お礼45.46行>「未発達、抵抗できない子供」・・・でしょう? 高校生までは子供で、自立していなければ未発達です。 お礼47~50行>子供を、大人の都合・・・だと自分は思いますよ。 万引きを取り締まっても、泥棒や強盗が発生するから万引きを取り締まらないと言っているのと同じです。 万引き・泥棒・強盗は取り締まるべきです。 無能な体罰を振るわない指導者が存在する事が、禁止されている体罰を正当化する理由には成りえない。 虐待をする親はかつて自分も親から虐待を受けている事が多いのをご存知ですか? 前回も述べましたが、自己欺瞞から抜け出せず、暴力支配された自分の過去を正当化するために無能な暴力教師を尊敬する愚かしさから、指導者になった時自分も体罰が有効と思い体罰を行う→負の連鎖は続くのです。 作業を行うとき、子供に褒美として物を与え続けると褒美は次第に大きくないと成果が得られなくるのと同じで、体罰もエスカレートさせないと効果が得られなくなります。 近代日本が軍国主義に傾いてから極端に増えた「体罰」は、自衛隊を軍隊にしても、たとえ有効性が認められても、指導者の質の向上・管理の透明化・「体罰」に対する明確な基準が出来ない限り、少なくとも教育の場では無くす努力を怠っては成らないのです。

noname#246942
質問者

お礼

再度ご回答頂きまして、誠に有難うございます! >「活」と「愛情」は無関係です。どこをどう解釈されたのでしょう??? あ、いや、「そう聞いて、説明を受けなければ分からない」と言う点では、「活」も「愛情」も同じでは?と思ったもので。。。 質問では、あえて「血が出た」「竹刀で叩かれた」と言った、いかにも厳しい例を挙げて「体罰」としましたが、大抵、怪我などしない体罰の方が多かったです。 それは「活」に入るのでしょうか。 >虐待をする親はかつて自分も親から虐待を受けている事が多いのをご存知ですか? 知っておりますが、虐待など受けていない、ましてや親から叩かれた事のない子供もまた、他者に対して自己と「快楽の為に」暴力を振るうと聞きます。 滋賀、大津のいじめの加害者生徒は、少なくとも親から虐待など受けていない生徒達です。 これもまた、だからと言って虐待の無い家庭や体罰を行わない指導者を否定している訳ではありません。 ただ、あえて例に挙げさせて頂いたのは、片方の一部を否定する事は、何ももう片方の全てを肯定、正当化している訳ではないと言う事を言いたかったのです。 今、このような問題があり、体罰は暴力だ、暴力は悪だと言う風潮が広がっておりますが、その大津の教育委員長が襲撃された時、それが世間に賞賛された事も事実。 相手を病院送りにまでしたその暴力は、世間では「天罰」とされるようです。 「都合」によってその主張が変わる世間の風潮が、自分には全く理解出来ませんが。。。 >暴力支配された自分の過去を正当化するために無能な暴力教師を尊敬する愚かしさから~ 自分は愚かな人間ですが、「自身の愚かさを認めていない、気付いていない」人間を尊敬できる程、自分の過去を正当化している訳ではありません。 >指導者の質の向上・管理の透明化・「体罰」に対する明確な基準が出来ない限り、少なくとも教育の場では無くす努力を怠っては成らないのです。 非常に同意します。 何も、全ての体罰を正当化している訳ではありませんし、認めている訳ではありません。 使わないで良いのなら、使わないに越した事は無いと思います。 自分がいくら体罰を受けたと言っても、常に日常的にそういった暴力を振るわれていた訳ではありませんから。 ご回答頂きましたこと、自身に対する戒めとし、今後の参考にしたいと思います。 本当に有難うございました。

回答No.22

No.16です。 コメント、ありがとうございます。ただ、内容は、単なる堂々巡りに陥っているように感じました。 >「悪い事をすれば叩かれて当然」 >例えそこに痛みや恐怖が伴ったとしても、「それだけで終わらせる」事が、一番愚かな事なのではないでしょうか? と書かれているわけですが、さて、「悪いこと」とは何ですか? 誰が、どのように判断するのでしょうか? 今回の体罰騒動の発端となった桜宮高校の生徒。この生徒は、報道で知る限り、犯罪行為をしたわけではありません。校則違反などをしたわけでもありません。ただ、普通に生活をし、部活動をしていただけです。 部活動、スポーツをしている以上、ミスをすることはあるでしょう。それが原因で負けることもあるでしょう。それは、チーム全体にとってはよくないことかも知れません。大きな大会などで勝てなかったことで、スポーツ推薦などの形で進学が出来なくなることもあるかも知れません。しかし、それはスポーツをしている以上、仕方が無いことです。ミスなどについて注意をするのは別に構わないでしょうが、暴力行為という形でなければ是正できないことではないでしょう。そもそも、ミスしようとしてミスする選手はいませんから。 結局、「悪いことをしたら暴力を振るってよい」などと曖昧な言葉による抜け穴を作ってしまうと、何でも理由を作って暴力を振るうことが可能になるだけです。 イジメ事件などでもありますよね。「やられた方に落ち度があるからだ」と言い訳する加害者。それと同じことが出来るようになります。 無論、人間は欲にまみれた存在ですから、どんなことをしても私利私欲で動く存在が出ることでしょう。 しかし、体罰は何があっても禁止、となれば、最低限、生徒に対して教師が理不尽な理由で肉体的にダメージを与える、という行為は防げます。実際問題として、体罰によって、生徒が大怪我をした、というケースは沢山あるのですから。 そのイジメ関連で、大津のイジメ事件にも触れておられますが…… >「体罰を行えば保護者からクレームが来る」「面倒だから関わらないのが一番」 >滋賀のいじめの問題の時に、いじめをする生徒を見過ごした教師は、体罰を行う教師ではありませんでしたが、保身に走る教師でありました。 というのもおかしな話です。 体罰が認められていなければ、イジメ事件は解決できないのでしょうか? 体罰があれば防げたのでしょうか? 違いますね。 体罰が認められていても、面倒ごとに関わりたくない、という教師は沢山います。体罰をせずとも、解決を目指し、動いている教師も沢山います。体罰の有無と、指導が出来るかどうかは、別の問題です。 そもそも、学校内で犯罪行為が起きていることが明らかなら、教師がするべきことは、暴力を振るうのではなく、警察を介入させることです。 「犯罪行為をしたら、警察に捕まる」 これは、小学生どころか、幼稚園児でも知っている法治国家の基本です。 そして、これは、「悪いことをしている生徒」にとって、体罰などよりもよほど厳しい制裁となります。だって、学校内で悪事を働いて、教師に暴力を振るわれても、停学などの処分を受けても、結局、学校という組織の中での処分でしかありません。しかし、警察に突き出されれば、社会的にその処分は認知されるわけですから、厳しさは段違いです。 ちょっと話が逸れてしまいましたが、前回の回答で書いたように「愛情があれば」なんていうのは、却ってエスカレートさせてしまう危険性がある。 また、「悪いことをしたら」なんていうのも、悪いこと、の意味が曖昧で抜け道を用意しているに過ぎない。 その上で、教師が生徒に対して暴行を加え、大怪我をさせるなどという最悪の事態を防ぐためにも、理由に関わらず、体罰は禁止すべきことです。 説教や停学、退学などの方法により、教師は指導をすることが仕事であり、それを越えて、例えば、犯罪行為などが行われているのであれば、それは教師の仕事ではなく、司法の手に問題を委ねるべきことです。

noname#246942
質問者

お礼

再度ご回答頂き、誠に有難うございます! >「悪いことをしたら」なんていうのも、悪いこと、の意味が曖昧で抜け道を用意しているに過ぎない。 そうですね。 仰られている事の意味は分かります。 「悪い事をしたら叩かれて当然」と言ったのは、昔は当然のように使われてきた言葉でしたので、あえて挙げさせて頂いたのですが、恐らくご回答者様は、自分が「悪い事をしたから叩かれた」と言っているのは、「叩かれたから悪い事だった」と思い込んでいるのではないか?と言う事を言いたいのではないかと思います。 >前回の回答で書いたように「愛情があれば」なんていうのは、却ってエスカレートさせてしまう危険性がある。 例えば、自分が体罰を受けた時、その監督や教師は、当然のように「これはお前の為だ」とか「お前の事を思って叩いたんだ」とか「愛のムチだ(死語)」などと言った「愛情」を押し付けるような言葉は発していません。 >さて、「悪いこと」とは何ですか? >誰が、どのように判断するのでしょうか? >部活動、スポーツをしている以上、ミスをすることはあるでしょう~そもそも、ミスしようとしてミスする選手はいませんから。 自分が、先に「仰られている事の意味は分かります」と言ったのは、ご回答者様が仰った、ここの部分に凝縮されると思います。 確かに、スポーツをしている以上、ミスをする事は当然のようにあります。 それも、誰も好きでミスをしている訳ではありません。 そのせいで負ける事もあるかも知れませんし、そのせいで誰かのスポーツ推薦が取り消されるなど、他に迷惑をかける事もあるかも知れません。 でも、それは結果として本当に「仕方の無い事」で、決して「悪い事」ではありません。 それは、その通りだと思います。 自分は、夏の甲子園を見るのが好きです。 一戦一戦を命がけで、必死になって頑張っている姿に毎年感動させられます。 でも、中にはミスをして、そのせいで負けてしまう試合もありますね。 試合の結果を決めたそのミスは、決して悪い事ではありませんし、本当に仕方の無い事でもあると思います。 でも大抵、そのミスをした子は「自分のせいで」と責任を感じて泣きますよね。 それを見て、周りのチームメイトにその事を責める生徒はいないとも思います。 むしろ、そのミスがあっても、それを補う事が出来なかった、それをカバーする事が出来なかった。 そう思うのだと思います。 自分の言っている「悪かった事」とは、それと同じようなものです。 「犯罪など犯していない事は分かっている」分、何も曖昧な事はありません。 ただ、それは、同じ場所に居た者、同じ時間を同じ結果を求めて過ごして来た者にしか、恐らく分からない事だとも思います。 曖昧な愛情を盾に、体罰を用いる監督や指導者でも、「最後の試合」で体罰を振るう者は滅多におりませんよ。 しかしながら、そんな事を言っては見た所で、現実にある法や仕組みを利用する程、利口な手は無いとも思います。 ただ、これだけは分かって頂きたい。 仮にも、本当に愛情を持って生徒に接している教師や指導者達に、生徒の問題をすぐに警察に介入させようと思う者はいないと思います。 今の愚かな教育者のように、自分の保身や学校の評判を気にする者は別として、例え学校側が警察に介入依頼をしても気にならないような環境が、社会に整備されたとしても、です。 「体罰は禁止にすべき」と考えるご回答者様のご意見、ご意思は、尊重し参考とさせて頂きます。 再度長文になり本当に申し訳ございませんでした。 とても有意義な時間を過ごせましたこと、感謝します。 有難うございました!

  • jk4
  • ベストアンサー率20% (5/25)
回答No.21

外の人とは意見が違いますが。きっとスポーツ業界関係と公務員にお金が絡む からでしょう。見返りがなかったら人を叩いてまでも指導しないと思います。就職でイジメのような面接があったり、職場でパワハラがあったり金が絡むと人間性が失われる現場を見ました。体罰とは人間性のエゴそのものだと思います。体罰やハラスメントで、社会復帰できない人がたくさんいます今回の事件をきっかけに体罰やパワハラ、イジメ被害者を救済する法律が出来ればいいとさえ感じます。 

noname#246942
質問者

お礼

ご回答頂き、誠に有難うございます! >きっとスポーツ業界関係と公務員にお金が絡む からでしょう。 お金ですか。。。 なんと言いますか。。。 自分が体罰を受けた事に、お金が絡んでいたと思えば、なんとも言えないものがありますね。 金や利権の問題は、自分にはよく分かりませんが、少なくとも自分に体罰を与えた指導者の中に「人間性を失った」と思える指導者はおりませんでしたが。。。 有難うございました!

回答No.20

体罰に意味はありません。体罰は暴力であり、現在の日本の公立学校では禁止されています。体罰を振るわなければ生徒を指導できないほど能力の低い先生にも困ったものです。 こういう先生は学力が低いのに、運動部の実績や賄賂で採用された教師である場合も少なくありません。教員採用にはわいろやコネが横行しており、時々ばれて問題になっています。 ★教員採用試験で一人当たり200万円のワイロ、教委幹部・校長を収賄容疑で逮捕 http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/local/oita_education_corruption_scandal/ ★教委の元高官(61)が講師の採用で便宜、見返りにわいろ・30万円の高級スーツ http://www.logsoku.com/r/newsplus/1139648067/ ただ体罰(暴力)で練習を強制すれば一定程度強くなるのも事実で、強豪校で体罰が黙認される場合も少なくありません。しかし指導する教師が体罰で指導すれば、その生徒は後輩にも体罰で接します。その悪循環は断ち切るべきです。 「法律違反の体罰で指導し優勝しても意味はない」と、世間の人たちも厳しい目で見つめるべきでしょう。

noname#246942
質問者

お礼

ご回答頂き、誠に有難うございます! お礼が遅れ、大変申し訳ございませんでした。 ふむ、 >「法律違反の体罰で指導し優勝しても意味はない」と、世間の人たちも厳しい目で見つめるべきでしょう。 そのような考え方もあるのだな、と思いました。 ただ、自分は「体罰があったから強くなった」とは思っていません。 また、 >指導する教師が体罰で指導すれば、その生徒は後輩にも体罰で接します。その悪循環は断ち切るべきです。 とありますが、自分は体罰を受けましたが、一度も同じような体罰、暴力を後輩に振るった事はありません。 「なぜか?」と聞かれれば、すぐに答える事は出来ませんが。。。 そうですね、改めて考えれば、自分がその時に監督から受けた体罰と、万が一自分が後輩に振るったとする体罰とでは、その質が「同じものだとは思えないから」とでも言いましょうか。 恐らく、回答者様は、自分より上の権力者から体罰を受けた者は、「(自分は下だから上の者から)体罰を受けても当然」と言う根底があるのだから、自分が受けた体罰と同じように、それを正当化しては自分よりも立場が下の者に対してその力を使うだろう、と考えているのですかね? 失礼ですが、そのような経験がおありなんでしょうか? だとすれば、そう仰る事の意味も分かります。 確かにそのような悪循環は、どこかで断ち切らなくてはいけません。 ご回答者様には、自分が問題にしている事の本質を、どうか理解して頂きたいのです。 本来、人間の持つ感情で「最も根源的な感情」とは何か? ご回答者様はご存知でしょうか? 人には喜怒哀楽と言った代表的な感情がありますが、その中で最も強く、一番原始的かつ本能的な感情は「怒り」とされるようです。 それを、人間だけが持っている「理性」によって制御しているそうです。 確かに何をどう言い訳しても、体罰は暴力以外の何者でもありません。 そして、今の日本社会では「体罰」は原則禁止され、犯罪とされています。 体罰を行う教師、指導者の全てが、本当に「体罰を振るわなければ生徒を指導できない能力の低い教師」とお思いですか? 今のような風潮の社会の中で、一番スマートに波風を立てないように過ごすには「その風潮に合わせた指導をすればいいだけ」です。 それで良いと思うのであれば、それ以上の事は何も望んだりしないでしょう。 通常、強豪校と呼ばれる学校がなぜ強いのか? それは、必ず体罰があるからでも、法律違反をしているからでも何でもありません。 「チーム全体の目指す志が非常に高いから」 これに尽きます。 自分が体罰を受けたからと後輩に対しても体罰を振るうような輩は、そもそもそのような志など持っていないか何も理解などしていないのでしょう。 元から殴る値もない人間。 学生時代、教師が生徒に対して目標を達成するために力を貸したり、その為の指導をしたりする時間は非常に短いのです。 その中で、「犯罪だから」「問題になっちゃうから」と言う理由で、一人の生徒に対してそれを教える為に、一体どれだけの時間を費やす事が出来るのか? また、その間に他の生徒に対する対処やフォローはどうするのか? どんなに理想を掲げても、その理想を実現する為の具体的な現実対策が、全く議論されていないのはなぜでしょうか? 自分には、そこが分からないのです。 ご回答、本当に有難うございました!

  • kon77
  • ベストアンサー率70% (83/117)
回答No.18

ご質問の答えにはなっていないかも知れませんが、興味を惹かれたので少しだけ書かせて下さい。 私は中学の頃、ある一人の教師から指導による暴力を受けました。 それは、教師の側から見れば、私(生徒)が悪い事をしたから叩いたのでしょう。 しかし、自分自身には、自分の中での理屈なのですが、筋の通ったものをしっかりと持っており、叩かれたことに納得出来ずにいました。 当時、その教師の事はとても嫌いでしたが、月日が流れればその気持ちも変わるのかと思いきや、10年以上経った今でも、その教師のことが大嫌いで、恨みに思っています。「よくも殴りやがったな」というような気持ちです。 指導による暴力を受けた子供の中には、その事で成長でき、素晴らしい人間へと成長していく人もいるのかも知れません。 しかしそれは、私のエピソードで書かせて頂いた通り、全ての人間が「先生、殴ってくれてありがとう。おかげで成長できました。」とはならないという事を、頭に置いておいて欲しいと思うのです。 仮に、教師から指導による暴力を受けた人間のうち、90%が成長して教師に感謝し、9.99%が嫌な思い出になったり、恨みを持ったりし、0.01%の子供が自殺してしまうとします。 「指導による暴力は、悪い面もあるけれど、それで成長出来ることもあるんだし、完璧に目指して危険性のあることを排除するんじゃなくて、これからも使って行こうよ」と、もし言われたら、残りの9.99%の人間や、0.01%の人間からすれば、「ふざけるな」という気持ちがあると思います。 自分は、指導による暴力が、良いか、悪いかはわかりません。 ただ、人に、嫌な思い出、恨み、として残ってしまう場合もあるのだ、という事を頭に置いておいて欲しいというのが、私の願いです。

noname#246942
質問者

お礼

ご回答頂き、誠に有難うございます! お礼が遅れ、大変申し訳ございませんでした。 なんと言いますか。。。 今までのご回答に対する自分のお礼をざっと見ても分かるように、自分はどうしても長文になってしまう傾向があります。 以前、違う事で質問させて頂いた時も、それを指摘された経緯があり、今回はあえて質問を手短に簡略的に書いてしまった部分があります。 あなた様のご意見、お気持ちは、実際とてもよく分かります。 あなたのすぐ後に投稿されたご回答者様も仰っておりますが、それで良い、それが普通だと、自分もそう思います。 例え、悪い思い出や感情が残ってしまったとしても、あなたは今生きているのだから、それを「次に生かす」事は出来る。 今のあなたが、自身の経験から「体罰は良いか悪いか分からない」と言う考えを持った故に、あなたは「次の自分の行動の意味」を考える事が出来るのではないでしょうか? それが、「あなたの本当の答え」なのだとしたら、その体罰の意味はあなたに取って間違いなく存在したのだと思います。 まぁ、聖人君子のような事を書いていますが、元々自分は根が粗暴な人間です。 実際、あなたと同じように思う教師も中にはおりますよ。 「なんで悪い事なんかしていないのに、自分が叩かれなくてはいけなかったんだ?」 「理不尽すぎる、いつか殺してやる、糞野郎」 そう思った教師もおりますし、未だにそれは嫌いな教師のままですしね。 「教師に感謝」している? 違いますよ(笑 別に「叩いてくれた」事に感謝している訳でもありませんし、別にこれと言ってそう言った教師を尊敬している訳でもありません。 感謝しているのは「そういった環境に自分が身を置いた」こと、尊敬しているのは「それを乗り越えた自分に対して」なんですよね。 「体罰を受けて良かった」と思ったのは自分であって、だからと言ってそれを全ての体罰を受ける子供に対して押し付けるつもりは、始めから毛頭ないのです。 「答えを出すのはいつも自分自身」でしょう? それは、体罰を受ける方も、体罰を与える方も、それを見ている方も、全てに取っていえる事ではないでしょうか? 別にいいんですよ、体罰を良いと思おうが悪いと思おうが。。。 その答えに「自分の責任が伴っていれば」ね。 自分が懸念しているのは、そういった責任も考えず、始めから全てのその可能性を奪おうとする今の風潮です。 包丁は、食べ物を切る為に使うのであって、人を殺す為に使うのではありません。 物には全てに正しい使い方が存在するのに、それを使う全ての者がみな正しい使い方をするとは限りません。 では、元から包丁を全て規制してしまえば良いのか?となれば、それは果たして正しい決断なのでしょうか? 例えが極端過ぎましたね(笑 ただ、その規制が広まる事で、滋賀のいじめで見ないふりをした保身に走る教師ような指導者が、今後も増えなければ良いのですがね。 余談ですが、たまにふと考える事があります。 昔自分を叩いていた教師は、今の教育現場でどのような指導をしているのだろうと。。。 変わらざるを得ない事は今の風潮を見れば分かりますが、もし変わっていないのであれば、その時こそ心の底から尊敬すると思います。 案の定、長文になり失礼致しました。 親切で誠意のあるご回答頂けました事、本当に感謝致します。 有難うございました!

  • 27club
  • ベストアンサー率15% (72/456)
回答No.17

戦後生まれだから、軍隊のこと知りませんが、映画などで見る軍曹が威張り腐って、新入隊員を殴っているシーンを思い出しました。でも、その軍曹、下士官には、ぺこぺこしてます。これと、一緒でしょう。未だに、その風潮が続いて居るみたいです。  逃げられないから、逃げられないようにして、殴る、蹴る、これは、人間の世界ではありません。教育界であれば、なおさらです。教師とは、何か、もう一度、教師は考えるべきです。それよりも、教師は、それを理解している者がなる職業です。

noname#246942
質問者

お礼

ご回答頂き、誠に有難うございます! お礼が遅くなり、大変申し訳ございませんでした。 他のご回答者様の中にも、「上官の命令に対し絶対服従が原則の軍隊のようだ」とのご回答を下さる方がおりましたが、あなた様は、ではなぜ「上官の命令に絶対服従しなくてはいけないのか」と言う事が分かりますか? 仮にも軍隊です。 上官の命令に逆らう奴が一人でもいれば「隊全体の命が危険に晒されるから」です。 それでは、本来の任務が遂行できない。 もし、あなたが上官ならば、その意味も分からずヘラヘラしている新入隊員がいたら、どう指導するのでしょうか? それを理解してくれるまで、とことんその隊員に愛情を持って話をして教えますか? それでも分からないような相手ならば、ここには必要ないと切り捨てますか? それとも「自分は上官ではないから分からない」と答えますか? >教師とは、何か、もう一度、教師は考えるべきです。それよりも、教師は、それを理解している者がなる職業です。 体罰を行わない教師であれば、それらを全て理解しているのでしょうか? 自分には、それが分かりません。 今回の質問で、自分は自身が受けた体罰の件で、あえて今回の問題と同じ部活動内での体罰を例に挙げました。 それをあなたは「軍隊のようだ」「人間の世界ではない」と仰る。 よくこの手の話をする際に、「昔は違った」という表現をします。 それに対し、「今と昔とでは時代が違う」との回答を頂く事があります。 例えば、昔からいじめはありますが、昔はいじめを見つけた教師が、いじめていた生徒をぶん殴るという事が多く見られました。 「人を殴れば痛いんだ、これで分かったか!」 そう言って叱り飛ばしていたものです。 滋賀のいじめの件では、いじめに気付いても知らないふりをしていた教師は、体罰を用いる教師ではありませんでした。 今回の問題で、その結果として体罰を加えた指導者を庇うつもりは一切ありません。 ただ、元々目には見えない「愛情」と言うものに対し、「それを教師なんだから考えて表現しろ」と言ったようなご意見は、あまりに漠然とし過ぎて無責任なように思えます。 全ての責任を他の者に押し付け、自身の責任を考えようとしない今の風潮は、指導者達の逃げ場を狭め、いずれ滋賀のような保身に走る指導者を増やしていく事でしょう。 ご回答、ありがとうございました。

回答No.16

体罰は、禁止されねばならない犯罪行為である、と認識しています。 よく「愛情があれば」と擁護する人がいるのですが、愛情がある、というのは却って歯止めの利かない暴力への加速装置となりかねないからです。 というのは、例えば、「あいつを痛めつけてやろう」とか、そういう悪意による暴力と言うのは二つの歯止めが存在します。 一つ目が良心の呵責。よほどの悪人でもない限り、「悪いこと」と認識してやっているうちにそれを感じるものです。 もう一つが、利害の計算です。相手が見るだけでわかるような大怪我をする、とか、死んでしまう、というところまでいくと、凶悪犯罪となってしまいます。そうなったら、相手も自分に対してとことん対抗してくるでしょう。それでは損です。ですので、利害計算により歯止めが掛かります。 しかし、「愛情」などという自己正当化の理由がある場合はそうなりません。 相手に暴力を振るうことが、「愛情表現」となってしまうのですから。 しかも、ここまでは純粋に「愛情」だけ、という前提で書いてきましたが、指導者も人間です。欲やらなにやらもあるでしょう。 部活動で好成績を残す。これは確かに、その部活で食べて生きたい、というような生徒のためになっています。しかし、同時に、指導者自身の利益にもなっています。単純に「名監督」などと呼ばれる、というだけでも名誉欲を満たしてくれるでしょう。でも、それだけでなく、そういう形で指導者として名を残せば、現在の職場を定年などで去ったとしても、私立校などから「指導者としてきて欲しい」と誘いが来るようになります。金銭的にも大いなる利益があります。 そういう欲もごちゃ混ぜになるはずですが、しかし、「生徒のためになっている」「生徒への愛情だ」という自己正当化の理由があれば、自分自身への利益は無かったこととして話を進めることが出来ますから、歯止めがきかなくなります。 しかも、強豪の運動部、なんていうのは、さらに歯止めが利きづらい環境が揃っています。 まず、運動部員たち、です。今回の桜宮高校バスケ部というのは、全国大会の常連です。学校自体が、体育科を儲けるなど、スポーツで名を売っている学校であると言って良いでしょう。 当然、部員の方も、将来、バスケットボール(スポーツ)で食べていきたい、というスポーツエリートが揃います。そうすると、指導者にとっては、「勝つこと」が選手に対する最大の愛情表現ということになり、そのためには何でもあり、という錯覚に陥ることがあります。 次に、指導者というのが絶対権力者である、ということです。 部活動で試合に出ることが出来るのは、限られた選手だけです。それを決めるのは指導者です。つまり、選手の生与奪権を握っているわけです。 指導者の機嫌を損ねたら試合に出ることが出来なくなるかもしれません。そうしたら、全てが無駄になります。そのため、文句などが言えなくなります。 また、学校としても、部活動の活躍が、学校そのものの宣伝になるわけですから、指導者に対して及び腰になってしまいます。結果、まともな調査が出来ない、などという状況を作り上げます。 同様に、連帯責任制度、という現在の学校スポーツで採られている制度も、隠蔽を促します。 部活動で何か問題があると、学校そのものが試合に出ることが出来なくなります。被害者が、自分の受けた被害を公表すると、被害者自身が試合に出られなくなる、という矛盾した状況が出来ているのです。 そうすると、被害者が被害を訴えることができません。犯罪行為が行われていても、試合に出るためには我慢を強いられるからです。結果、取り返しのつかない状況までエスカレートすることになります。今回のような教師による暴力事件だけでなく、上級生の下級生に対する暴力事件なども同じ構図です。 そういう状況が揃った中で、これはおきるべくしておきた事件である、と考えます。

noname#246942
質問者

お礼

ご回答頂き、誠に有難うございます! お礼が遅れ、本当に申し訳ございませんでした。 とても冷静で客観的、かつ細部に渡って実に的確な分析であると思います。 ご回答者様は、どこかの強豪校で部活をされていたご経験のある方でしょうか? 質問にも書きましたが、自分自身もある程度名の知れた強豪校の部活動に所属していた経験があります。 実は、質問で自分は、血が出るなどの体罰を受けたと記載しましたが、実際体罰を主に受けていたのは、その当時は自分だけであります。 自分以外の他の部員に対して、監督が体罰を振るうなどと言う行為はほぼありませんでしたね。 狙われていたのでしょうか(笑 ま、あながち冗談でもありませんが、ご回答者様が分析してくださったような事は、強豪校に所属していた経験のある生徒の大半は、恐らく分かっている事なのではないかと思います。 例えば、自分が小学生の頃の部活動は、それ程有名ではなくどちらかといえば弱小と呼ばれる所であったと思います。 そこでは、チームワークの大切さ、努力する事の大切さ、成功する喜びや失敗する事の悔しさなど、基礎的な事を学んだように思うのは、「全ての部員を平等に扱った」事によるものだと思います。 上手い人でも下手な人でも、最高学年になればほぼ平等にユニホームはもらえる。 いつか努力は報われる。 そこには、もちろん表面的な試合の勝ち負けは存在しますが、それでもあまりそれに対する「こだわり」は強くなかったような気がします。 中学の頃は、練習内容も厳しく、時代の流れで体罰こそあったものの、結果を残せるようなチームではありませんでした。 そこでは、俄然厳しくなった指導内容と練習内容に対し、耐える、我慢すると言う事を経験し「続けていく事の大切さ」を学んだと思います。 高校ではどうでしょう? その道での強豪校。厳しい、つらい、苦しい、大変なのは当たり前。 そこで自分は、部活を始める前に「それを選択するかどうか」と言う事を経験しました。 小、中学校のように学校区が決まっている義務教育と違い、高校からは自分自身で物事を選択する事が出来る。 つまり、今までのように「与えられた」環境とは違う。 それは、自分の考えていた想像よりも、もっと厳しかったと言う「現実」を知る事で初めて感じた「自己の責任、立場」だったのかも知れません。 そこで改めて、自分はその環境を選んだ。 それだけの話です。 あなた様が仰った、体罰を行う指導者の卑怯で愚かで計算高い部分。 自分には分かりますが、それでも「それは体罰を行う指導者に限った事ではない」のではないでしょうか? 「体罰を行えば保護者からクレームが来る」「面倒だから関わらないのが一番」 滋賀のいじめの問題の時に、いじめをする生徒を見過ごした教師は、体罰を行う教師ではありませんでしたが、保身に走る教師でありました。 「悪い事をすれば叩かれて当然」 例えそこに痛みや恐怖が伴ったとしても、「それだけで終わらせる」事が、一番愚かな事なのではないでしょうか? 子供は大人が考えている以上に、色んなものを見ていますよ。 長文になり本当に申し訳ございませんでした。 ご回答頂き、ありがとうございました!

  • jbeam
  • ベストアンサー率41% (85/204)
回答No.15

スポーツ歴は中高と空手、大学ではJライト級のプロボクサーで8回戦まで経験していますが、運動部には一度も所属してません。 血の気の多い私は、暴力による目的達成は否定しません。(送検された事は一度も無いですが) 暴力の目的はあくまで、服従させる事・痛い思いさせる事・傷を負わせる事・屈辱を与える・見せしめで、動機は自己顕示と悪意と征服欲で愛情など一欠も有りません。 知り合いや再会の可能性が高い場合は傷が残らない様しますよ。 但し、妻子は基よりペットの犬にだって暴力など振るった事は皆無です。 愛情を持って体罰?たとえ犬相手でも躾けと称して叩くなど変態でしょ。単なる虐待ですよ。そんな躾しか知らない人は犬を飼う資格など無い。 ましてやプロの教育者たるものが、暴力を指導方法にするなど論外。 今回の事件や質問者様や回答者の方達の受けた体罰は明らかに暴行傷害です。 学校教育の場に於いて暴行傷害は如何なる理由が有ろうとNGです。 質問者様は理由が有れば、学校教育の場に於いて、心身ともに未発達で抵抗できない子供に、暴行し傷害を負わせる事が許されると考えているのですね。 上官の命令に対し絶対服従が原則の軍隊みたいです。 坐禅中、肩を叩くことを「警策を与える」 と言い、悟入の手助けとして「活」入れる為で、警策は決してしごきや処罰の類では無く、寝ていたり、姿勢が悪いから使用するものでは有りません。 当然叩く訳ですが、相手を従わせる為に叩くのではなく、傷害を負わせるほど叩くのは論外です。 沢村投手に阿部捕手がポカリ・・・これは体罰では無く「活」を入れたのです。 同様に練習中や試合中に冷静にさせる・自分を取り戻させる・アドレナリンを分泌させる等の目的での「活」を入れるのは有りでしょうが、怪我をする程、何発も、しかも試合の後でなどと指導者として無能を曝け出しているだけ。 親から虐待を受けている子供は、親は悪くない、自分が悪いと言います。 親から保護されないと生きて行けない為、親は自分を愛しており、自分が悪いから罰を受けたと考える事で自己を保っています。 ストックホルム症候群は恐怖と生存本能に基づく自己欺瞞的心理操作により犯人にシンパシーを持ちます。 これと同じで、教師から体罰を日常的に受けていた人たちは、暴力教師を尊敬する事で理不尽な体罰に対し抗議も反抗も出来ない自分を正当化し、時が経っても当時の自分の行動や人格を守る為、無能教師と過ごした時間があたかも有益だった・意味が有った・役立ったなどと自己欺瞞に陥っているのです。 自分の過去を正当化したり美化するのは勝手ですが、血が出たり痣が残るような「暴行傷害」を「体罰」などと称して現代の子供たちを虐める事は許されない行為です。 自己欺瞞が出来ず将来を悲観し、わずか17歳で自らの命を絶った少年を評する言葉は見当たりません。 ただ周りが無知・無見識だった事の不運を残念に思うだけです。

noname#246942
質問者

お礼

ご回答頂き、誠に有難うございます! お礼が遅れ、大変申し訳ございませんでした。 ご回答の冒頭から、なるほどと思いながら拝見させて頂きましたが、途中からなんとも納得の出来ない部分がございました。 自分が疑問に思った事を、改めて質問させて頂きたいのですが、そもそも、ご回答者様の仰っている「活」と「愛情」の境界線は「具体的」にどこなんでしょうか? >沢村投手に阿部捕手がポカリ・・・これは体罰では無く「活」を入れたのです。 >同様に練習中や試合中に冷静にさせる・自分を取り戻させる・アドレナリンを分泌させる等の目的での「活」を入れるのは有りでしょう 例えば、今回の自分の質問に対し、「体罰を受けて良かった」と思う回答者様方と「体罰はどんな理由があろうが駄目だ」と言う回答者様方がおります。 あなた様の仰っている「活であれば良い」と言う自論を、「後者の回答者様達が見れば」どう思い、どう判断するのか、それも知りたいです。 自分の場合、自身が受けた体罰、暴行は、どちらかと言えば「活」になりました。 体罰が、良いか悪いかの極論で考えれば、「悪い」とみなされる事ぐらい分かってます。 でも、なぜ全ての人間がその極論に偏る事がないのか? 理由は、そこには「目に見える事実」と「目には見えない気持ち」が混同しているから。 血が出ない、怪我をしない程度であれば、「目に見える事実」として認めるのは難しいですよね。 「ちょっと叩いただけ」「証拠はあるのか」「奮起してもらおうと思っただけ」 あやふやで曖昧な事実は、「都合の良い解釈」をするには実に好都合です。 あなた様は、妻子には暴力を振るった事はないと言いますが、では「活を入れる目的」で、仰られているような行為をした事はあるのでしょうか? 「教師だから」「指導者だから」と言う理由だけで、一人の人間に完璧を求められるほど、我々は完璧な人間、保護者なのでしょうか? 教師であっても、親であっても、子供であっても、人は日々「成長して行く」ものではないでしょうか? 今回の問題は、お互いにその成長を促せなかった、促そうとしなかった事が原因ではないでしょうか。 もちろん、今回このような結果をもたらした指導者を庇うつもりはありませんし、結果を見れば間違っていたと認めざるを得ない事です。 しかし、だからと言って「全ての体罰」をいじめと称したり、それを排除しようと言う今の風潮は、自分にはどうも納得が出来ないのです。 最後に、これだけは質問させて下さい。 あなた様方は、今後どのような教育者を、我が子に対して望んでいるのでしょうか? 体罰を用いる教師は愚か、無能とは言いながら、ではどう教育するのが良いのか?と言う具体的な事が一切書かれておりません。 自分のような馬鹿な生徒もいれば、合理的に考える事の出来る頭の良い生徒もいるでしょう。 >上官の命令に対し絶対服従が原則の軍隊みたいです。 なぜ、「絶対服従しなくてはいけないのか?」を考えて頂きたいのです。 絶対服従しなくてはいけない時もあれば、そうでなくても良い時もあるでしょう。 「未発達、抵抗できない子供」とは、一体いくつの子供を指すのでしょうか? また、いつになったらそれは完全発達し抵抗できるとみなすのでしょう? 子供を、大人の都合の良いように解釈しているのは、何も体罰を振るう指導者に限った事ではありません。 その子供本人を、本当に見ようとしなければ、たとえ体罰を振るわなくても、それは本当に愚かで無能な指導者だと自分は思いますよ。 長文になり失礼致しました。 ご回答頂き、本当に有難うございました。

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    今回の高校生の自殺の件ですが、今の日本の世論は体罰を振るった教師一人をA級戦犯にしたて、事態の巻く引きをはかろうとしていますが、本当にそれでいいのでしょうか!? そもそもあの教師はなぜ、体罰を振るったのでしょうか? そして、自殺した生徒は体罰という暴力を振るわれながら、なぜ、部活を辞めなかったのでしょうか? 自殺した生徒が通っていた高校はスポーツ強豪校です。 体罰を振るった教師は学校、大阪市、地域社会からも全国大会で好成績を残す事を期待され、教師自身も期待に応えなければならないというプレッシャーを感じていた事だと思います。 自殺した生徒自身も期待に応えなければなければというプレッシャーを感じていたでしょうし、好成績を残さない限り大学進学も難しい、その上、就職の事までも不安に感じていたかもしれません。 学費免除のスポーツ特待生ならばなおさらそう思うでしょう。 これはある意味、社会、学校、家庭を含めた日本社会全体が体罰教師を生み出し、生徒を自殺に追い込んだのではないでしょうか? 今回は体罰で自殺とメディアが大きく報道しましたが、体罰がなくても、スポーツ特待生がケガなどで競技が出来なくなり、夢を失う事で自暴自棄となり自殺という事も普通にありえる事だと思います。 これはスポーツに限らず、受験に失敗し自殺する場合も同じようなものです。 このような場合は、メディアの扱いも小さく、社会的問題にもならないでしょう。 高校野球などもそうですが、日本の社会は素人である、たかが子供のスポーツをまるで国民的関心事のように大々的に扱い、全国大会で活躍した生徒をスター扱いしすぎだと思います。 高校生の子供の活躍に過度の期待をしなくならない限り、生徒の自殺は無くならないと思います。 事情通のみなさん、どう思いますか?

  • 体罰 ユーチューブ

    顧問の教諭がバレー部員を平手打ちする動画が You Tube に公開された高校で、こうした体罰が日常的に行われていた疑いが出ている。 ユーチューブに(告発)された高校バレー部での41歳のド変態教諭による平手打ちの連発。こうした体罰はこの時だけではないらしい。 「練習試合に絶対殴られる。週に必ず練習試合があった。一日30回ぐらいはやられた」と元高校バレー部員は言う。また他校の生徒も体罰の光景を目にしていた。 高校では 「体罰が日常的に行われていたという認識はない」と話しているが、今後、さらに部員から聞き取りなどをしたうえで、教諭の処分などを決める予定だ。 ・・・強くするためなら殴ってでも、というのであれば、より多く殴った学校が全国上位になりやすくなる。教師から理性が失われた場合、日本全国でバレーの練習よりも、ビンタの方が盛んになるだろう。投稿された動画のレベルまでビンタすると、(顔が原形をとどめていない)と思われる。 それほどまでにドーピングなビンタではなく、練習だけで強くする方法はないのか、誰か教えてください。 https://www.youtube.com/watch?v=kXhy7ZsiR50

  • これって、体罰ですか?

    ぼくは、中学2年です。                                                       ぼくは、自分で、言うののもなんなんですけど、やんきーです。                    ぼくは、前から、万引きや自転車を盗んだり、ズル休みをしたりして、                        生徒指導室や先生たちが着替えるとこで、よく殴られたり、蹴られたりして、             たまには、顔を殴られたりしています。でも、泣かないから、たくさん殴られます。             早かった日は、10分、長かった日は、5時間くらいです。                            まぁ、自分が、悪い悪いと、おもってるんですけど、さすがに、やりすぎだと、思います。         一回だけ、ベルトで、くびを、しめられた時もありました。     あと、先輩が、後輩を殴ったり蹴ったりしたときも、     先生方は、その先輩方を同じように、殴ったり蹴ったりしていました。                    そして、あげくのはてには、強制で、ハンド部に、入れられ【ぼくも、ハンド部です】              罰【ずっと走る、タイヤ押し、スックワット、階段ダシュ】                                     など、させます。                                             ぼくは、強制で入ったので、あと1年間やらないといけません。                        こんな部活、いらない、休めば、家に来る。                                    もう、やめたくてたまりません。                                           体罰の訴え方と部活の辞め方を教えてください

  • 体罰でしょうか、指導の範囲内でしょうか?

    中学1年生の男子生徒が学校の部活動の最中に、 監督(顧問教諭)から次のような行為を受けました。 1) 監督が椅子に座ったまま、生徒を蹴り上げ、 2) よろけた生徒の顔面を監督が椅子から立って平手で叩き、 3) 倒れた生徒の胸部から腹部を握り拳で数発殴った。 というものです。 こうした監督の行為は、上級生(3年生)にも及ぶことがあり、 部員(生徒)間では、「今回は●●君がやられた」として、 主に携帯メールなどを通じて大半の部員が認識しています。 しかし、一部の保護者やOBなどからは、 「入学前に、『殴られて鼻血が出ることもある』と言っただろ。 お前はそれを覚悟して入学したんだろ」 などと、暗に行為に関する事実の口封じを強要したり、 上記のような行為を受け入れさせたりするような言動も見受けられます。 私は、「練習中には水を飲んではいけない」とか、 さらにはビンタとか、いわゆる尻(けつ)バットが当たり前の時代を 経験した世代なので、多少叩かれるくらいは容認できますが、 今回の事案は、監督が蹴って、さらに握り拳で殴るにまで至っていることから、 行き過ぎた行為、すなわち体罰に該当する行為ではなかろうか、 と考えています。 上記の監督による一連の行為は 「体罰でしょうか、指導の範囲内でしょうか?」 ご回答をお待ちしております。

  • 体罰は統制を取り、士気を高めるので用いる?

    兵庫県の高校のソフトボール部でユニフォームを忘れた女子部員に 顎が外れる様な体罰を行い、問題に成って居ります。 顧問である教員は何故その様な体罰を行使したのでしょうか? ① 統制を取る、士気を高める為? ② 報道はされていないが、何かがあった? 授業妨害をするとか酷い苛めを行うと云う様な事での体罰までも 問題にするのはどうかと思いますが、 私の学生時代一部の体育会系部活動では 「挨拶代わりに殴る→それを受け容れられない者はそれだけで価値無し」 と云う風潮がありました。 そうやって統制は取れ、士気は高められており、強豪な部だったと 思いますが、部外者には失礼な態度、(苛めや暴力(言うなれば顧問や先輩からされた事をぶつかている)を取る人も居り、彼等が健全かと云うと疑問に思いますが、 統制を取る、士気を高める、そしてそこで残った者が認められると云うので、この方法は今でも後を絶たないのでしょうか? 昭和50年代にとある強豪野球部の監督が 「不良に成るか野球に打ち込むかぎりぎりの処でしてる子が可愛く、 非道はせず、やる事はやっても(さぼっておらずこなしていても) 「待てよ」と思う子をどう扱ったらよいか解らない」と 云う様な事を云っていたと思います。 今回の事件をはじめ体育会系部活動の体罰の問題が起きても、 それを「有り難い」と受け容れ、部外者にぶつけ、苛め等を行うが、 学校の部活動と云う枠組みに囲い込めるので、それで正しくは無いが 上手く行っている処があります。 (自衛隊の訓練とは別の寮内の暴力事件での自殺者、  ヨットスクールでの苛め推奨を説く、田母神俊雄氏や戸塚宏氏は 「被害者が弱いから悪い」と云います) つまり、監督や怖く力のある先輩に従い、 自分より弱い立場の者を苛めるが、怖い存在があるので纏まると云う事なのでしょうか?   その様な縦社会を造るにはこの方法が良いのでしょうか? 又、野球にしろスポーツは「記録を出す」事が大事ですが、 その中に「暴れてみたい」「支配したい」と云う人がおり、 その思いを発揮できる様な処でこの様な組織に成ってしまうのでしょうか? 御回答御願い致します。

  • 学校での体罰

    30代女性です。 遠い高校生だった時、こわぁい生活指導の先生がいました。 私は小中学校とも遅刻はしたことがなく一応真面目な方でした。 高校に入ってから初めて遅刻をしてしまいました。恥ずかしながら成績は中の下の下…。いわゆる不良(まっきんきんな茶髪にするのが多い…)の多い学校でした。 私は普通な方(それでも中には分からないように濃いめの茶髪はするけど、やはりバレて生活指導いき…私は染めなかったけど)でした。 やはり遅刻する生徒が多いんですね。普通な子も遅刻常習者がいました。 いつもは教室から見てて遅刻する生徒には男女関係なく一例に並ばせて順にケツバット……なのを見て私は遅刻しないぞと改めて思うほど気がゆるむんでしょうか……。 遅刻しちゃったんですよ…。 うわぁ…バット持って待機しとるぅ…チャリ止めて先生に『並べ!!』と怒鳴られ、順にバシッバシッ……まあ、女だし、緩めにしてくれるだろうと思ったが、まったくそんな事はなく、おもっきしバシッとやられちゃいました。 暫く席に座るのも出来なかった苦い記憶がありますが…。 今は体罰問題とかで、やはりこのような体罰はないんでしょうか? 現役の小中学生、高校生の方々、ケツバット経験者います? 成人された方々もケツバット経験者の苦い記憶があればどうぞ。 私は体罰はありだと思うし、自分の子供が世間一般的に思われる悪いことをしたら先生だろうと叱って欲しいし、それでも聞かないならケツバットはありだと思いますが、今はもうこういう体罰ってまったくなくなったのかな? ちなみに娘は4歳ですが、悪さしたり、危ないことしたり、行儀の悪いことしたら、お尻、手足をバチンと叩きます! 頭と腹は叩かないです。 人前でもちょっと遣りづらい(虐待かという眼差しを受ける)けどバチンとしますが、それでも中々、頑固なくらい謝らないし。 曾祖母(80)も娘が行儀悪かったりしたら注意するしお尻をバチンとするけど、やはり頭や腹は叩かないんですね。しかも豪快なバッチーンだから、娘も泣きながら素直に謝る…。それでも曾祖母になついてます。

  • 戸塚宏氏の体罰の論理とは?

    戸塚宏氏は体罰は心身を鍛える為に不可欠である それをしないから今軟弱な人間が増えたと云っております 先日、テレビ朝日のテレビタックルで 酷い虐めや悪質な行為をした生徒を止める為に体罰を行使する事までが問題になるのは可笑しいと現役の教師の方が申しており、これは同感でありますし、昔から悪い事をすれば時には体罰があっても良いと云うのが私の認識何ですが、 戸塚宏氏の体罰論はそれとは違う様です チャンネル桜の討論番組で保守的な層の意見 非行少年と桜宮高校の生徒を同一に扱うのは止めませんか と云う意見や 引きこもりにも色んなタイプがいるので一緒に扱うのは無理があるのでは?と云う意見にも お前ら現場知らん癖に色々云うなと一括しておりました 戸塚宏氏の意見を整理すると 1 幼少時から体罰の日常により鍛えろ 問題をおこしていない人間も、桜宮高校の被害者の生徒、もヨットスクールで死亡した生徒や運動部の不祥事の被害者も体罰により鍛えられていないから弱いと云う意見 2 善悪より強いから従うのが良い 戸塚宏氏自身は屈強なコーチ陣の頂点にいるから誰も逆らわず、尊敬されていると云っておりました 3 戸塚宏氏の教育方針なら強くなる事が第一でいじめなども肯定している この辺りの事をご回答戴きたいと思います

  • 教育現場から体罰教師をエグザイル

    教育現場から体罰教師をエグザイル(国外追放!)するには どうしたらいいですか? どんどん裁判を起こして 先生たちをびびらせたほうがいいですか? 読売は社説で 桜宮高校の顧問の懲戒免職を 当然と言ってます。 ↓ 桜宮高教諭免職 暴力許す風潮の一掃を急げ (2月17日付・読売社説) 教育現場から暴力を一掃する契機としたい。 大阪市立桜宮高校の男子生徒が、所属するバスケットボール部の顧問教諭から暴力を振るわれ自殺した問題で、市教育委員会が教諭を懲戒免職とした。 教諭が指導者としての適格性を著しく欠いているのは明らかだ。厳しい処分は当然である。 市教委は、弁護士で構成される外部監察チームがまとめた、暴力と自殺との因果関係を認定する報告書を基に判断した。 報告書によると、教諭は生徒が自殺する直前、練習試合のプレーを理由に、何度も平手で顔をたたいた。「人前での暴力が肉体的・精神的苦痛を与えた。正当化する余地はない」と指摘している。 さらに、この教諭が複数の部員に対して恒常的に平手打ちや足蹴りなどの暴力を振るっていた事実も挙げた。報告書が、体罰ではなく暴力という言葉を使っているのは、指導を逸脱した行為だったことを物語っている。 この教諭は、「生徒への暴力は指導の一環で効果がある」との考えを持っていたという。桜宮高の保護者の中には、この教諭を熱心な指導者と受け止める人もいた。寛大な処分を求める嘆願書も市教委に提出された。 だが、そうした考え方が、執拗(しつよう)で理不尽な暴力を容認する背景にあることを、教育現場も保護者も重く受け止める必要がある。 市教委は、2年前に体罰を理由に停職3か月の懲戒処分とされながら、昨年11月に体罰を繰り返した桜宮高男子バレーボール部顧問の教諭を停職6か月とした。 校長も更迭した。バレーボール部での再度の体罰を把握していながら、市教委に報告しなかったことを重視した措置だ。 学校の再生には、人事の刷新とともに、教諭が体罰を二度とせぬよう、再発防止の研修を充実させていくことが求められる。 桜宮高以外にも、全国で部活動に伴う体罰が次々と発覚している。愛知県立高校の陸上部や京都府立高校のレスリング部のように、強豪校の名門部も目立つ。 勝利を得るためなら少々の体罰は許されるとの誤った認識が、指導者の間に根強く残っていることの証左ではないか。これを放置しては、体罰を受けた生徒が指導者になった時、再び体罰を行う悪循環を断ち切ることはできまい。 文部科学省の指示を受け、全国の教委は体罰の実態調査を進めている。徹底的に洗い出し、体罰の根絶を図らねばならない。 (2013年2月17日01時26分 読売新聞)