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人が生きる意味は何ですか。

こんばんは。 いつもお世話になっております。 今回は、「生きる意味は何か。」という質問です。 人は何のために生きるのでしょうか。 人間以外の他の生き物は、子孫を残していくために愚直に生きていますよね。 生きる意味として、私にははっきりとわかりませんが、より良い子孫を残していくために生きているのかなと思っています。 課題に取組み自己の能力を上げること、引き籠って心身を守ること、多くの人とコミュニケーションを図り多量の情報と仲間を得ること…etc これらはすべて、より良い子孫を残していくためだと思いませんか。 そして、もしそうだとするなら何故それをやっていくのでしょうか。 宇宙の真理でしょうか。

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noname#175120
noname#175120
回答No.17

生きることに意味なんて無いですよ。 生きることに意味があるのものは家畜とか位でしょう。 彼らは食われる為に生まれて来ます。 明確な目的を持っていますね。 生物の目的は後世に子孫を残し生命の流れを絶たないようにすること。 人も基本は一緒です。 ただ、良い子孫では無いのです。 良い悪いって判断はありません。 一見「悪いもの」が環境に適応して生き延びる事もあります。 良い悪いの判断は誰にも出来ないんです。 単に生き残った物が「良いもの」です。 知能が高い事が生き延びる理由ともなるし、その逆もありうる話です。 これはありとあらゆる可能性に対する為に生物自体に多様性を持たせるためです。 人間とかいう種族ではなく、生物全体としてですが…。 ただ、人は余計な知能を持った為に生物としての目的以外に自分で存在理由を見出そうと模索してます。 これは知能を持った故のジレンマとも言える物でしょう。 この答えの無い問いに答えるために人間だけが持つ「哲学」や「宗教」が生まれたんだと思います。

noritama12
質問者

お礼

>>単に生き残った物が「良いもの」です。 知能が高い事が生き延びる理由ともなるし、その逆もありうる話です。 これはありとあらゆる可能性に対する為に生物自体に多様性を持たせるためです。 凄く納得しました。 回答ありがとうございます。

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  • yuniko99
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回答No.19

人が生きるのも 存在するためです 存在しない事には 話にもなりません そしてアイデンティティを持って存続し 未来の存在を実現する為です それが子孫を残すという人もいるでしょうし それ以外にも何かするという人も多いです 子供のない人等は 自分なりの生きがいを持って 未来の何かより良いものを実現する為に生きるのがいいと思います。 未来 遠い未来はもう人は少なくて 人工物や人工物がつくたもの そんな存在が多いかもしれません しかし我々は未来にたすきを渡すべく走っているのです それが生きる意味です。 ただしそう思わない人 それに気づかない人も多いでしょう。

noritama12
質問者

お礼

>>未来にたすきを渡すべく走っているのです それが生きる意味です。 明確な回答ありがとうございます。 この場を借りてまとめさせていただきます。 今回の質問で、「こういった意味がある、意味はない、そもそも答えはない。」等、色々な考えに触れさせていただきました。 簡単にまとめると次の3点のようになるのかと感じます。 1.生きる意味にまず答えはない。 2.それによって意味の有無も不明。 3.意味の有無や意味付けは人それぞれの考え方、経験、ものの見方によって変わる。 私なりの結論としては、「後世に自分の信じる良いと思える子孫を残していくこと。その過程で悩み楽しみ成長し、欲求を満たしていくこと。それが生きる意味なのではないかと思います。」 今回お礼が遅くなり申し訳ございませんでした。 数多くの方から回答いただきまして、本当に勉強になりましたし、考えを深めることができました。 本当にありがとうございました!

回答No.18

生きる意味の真っ直中に生きているのに生きる意味を問うている・・・ 床も壁も天上も真っ赤な部屋の中に生きる人からで赤ってどんな色?と質問されている感じ。 宇宙の真理はあなた自身が今、身をもって体験中なんです。 だって、見るもの全てが赤いんですから。

noritama12
質問者

お礼

いまこうしていること、こうすることが生きている意味であるということですね。 生きることに悩むことも、ある意味悩むために生きているということですね。 回答ありがとうございます。

回答No.16

生きることに意味なんて必要ありません。 あなたはなんのために生まれてきたんですか?ってことになりますよね。 正直知らないです。 だって、人間として生まれて、      生まれた上に、この身体に、自分っていう個体を認識する脳をもっていて      人間として営むっていうのはこういうもんだよーって家族や、学校から教育されて、      生きている意味なんて、生まれた瞬間から不明ですよ。 死んだら、もう一回人間の個体として認識できるように作られるのか、 はたまたもう終わりなのか、そんな事もわからないのにね。 今生活している中で、自分hはこのために生まれてきたのかな?って自分が自分で 納得できるものをみつければ、それが存在理由なんじゃないですかね。

noritama12
質問者

お礼

>>今生活している中で、自分hはこのために生まれてきたのかな?って自分が自分で 納得できるものをみつければ、それが存在理由なんじゃないですかね。 自分なりに理由を見つけるしかないですよね。 回答ありがとうございます。

noname#189751
noname#189751
回答No.15

>人が生きる意味は何ですか。 >人は何のために生きるのでしょうか。 人は誰でも自分と向き合わねばならない、というか、そんな時があるように思います。 そして人生の選択をし進んでゆくのだと思います。 終わった人生よりも、これからの人生に生きる意味はあるように思います。 これからの人生という未来に 確かな生きる意味はあるのではないでしょうか。 未来の展望を切り拓く時においてこそ、過去に対する意味も与えられるのだと思います。 ただ生きている意味と、前向きに生きる意味とでは違うと思います。 生きてゆかねばならないのと、どう生きるのかでは違うと思います。 生きる意味とは、どう生きるのか、で決まってくるのではないでしょうか。 生きる意味とは、人それぞれが掴み取るものだと思います。 人生の選択に前向きであるところに、生きる意味が現れてくる そのように思います。

noritama12
質問者

お礼

>>どう生きるのか、で決まってくるのではないでしょうか。 生きる意味とは、人それぞれが掴み取るものだと思います。 生きることについて、ポジティブな面から見るか、ネガティブな面から見るか、そのどちらでもないところから見るかによって意味は変わってきますよね。 どう生きるか、考えてみようと思います。 回答ありがとうございます。

  • lpgjr
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回答No.14

生きる意味とは、あなたがどう生きてきたか、あなたのご先祖様がどう生きてきたかで変わっていくはずです、人が生きる意味は、人によって異なります。そして、これからどう生きていくかもしかり

noritama12
質問者

お礼

人それぞれということですね。意味付けの仕方は人によって違いますものね。 回答ありがとうございます。

回答No.13

人間も、他の生物と同じ進化の原動力の上に発生した種であり、人間にだけ特殊な目的があると考えるのは、無理があります。 そもそも、我々を構成する物質に、「目的」はありません。 しかし、原理的には無目的であるがゆえに、現象的に二次的に必然的に生じる目的というのもあるのです。 物質としての「無目的」は、現象的には淘汰(エントロピー増大)となり、二次的に存続する能力の増進=進化を導きます。 「いやオレは違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わって種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするように収束するのです。 一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、これも「オレの生きる目的は意志の充足じゃない!」と主張したところで、それも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。 その結果として、生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。 上記の“式”に「認識」やたらに出てきて、認識の深まりが充足感の追求において重要である事が分かります。 「精神的充足感のため」は、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、認識の深まりにおける、最大限の大きな目的、最大限の愛を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。 であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。 生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。 しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう? 人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。 原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。 お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。 本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。 要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。 (「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)           存在すること             ↓ 生きること(体)    +    認識を深めること(心)     ↓                ↓ 組織化(分業=助け合い)の追求:精神的充足量の追及     ↓                ↓ 自律的社会行動(生産)×社会生命的自覚化(愛) (エントロピー増大の反力としての反エントロピー) =生きること自体による充足=人生を通算した最大充足

noritama12
質問者

お礼

難しいです。 原理的には無目的であるがゆえに、現象的に二次的に必然的に生じる目的がある。 そして、物質としての「無目的」は、二次的に存続する能力の増進=進化を導く。 厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わって種の形質となる事はなく、進化は常に「生きる事」を目的とするように収束する。 つまり淘汰されず、生き残るために生きることを目的とするということですね? 一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、精神的充足の追及を意味する。 その結果として、生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)にに収束するということですね? 申し訳ないです。何となくはわかるのですが、理解ができません。 回答ありがとうございます。

回答No.12

みんないろいろ自分の考えや思いを述べていますね、何が正解なのでしょう? 私も自分なりに考えてみました。 >人は何のために生きるのでしょうか。 たぶんこのような問いかけをする動物は人間だけでしょう、 なぜ人間だけが生きるとか死とかを考え、思いをめぐらすのかと言うと、 その情報が遺伝子DNA設計図に書き込まれているからです。 人間の設計図はたまたま出来上がったものでは在りません、下記を参考に http://www5c.biglobe.ne.jp/izanami/iihanashi/murakamikazuo.html 書き込まれた情報にしたがって存在している人間が生きるということを知るには 人間を造った創造者にその答えを求めるべきでしょう。

noritama12
質問者

お礼

>>書き込まれた情報にしたがって存在している人間が生きるということを知るには 人間を造った創造者にその答えを求めるべきでしょう。 やはり誰にも真実はわかりませんね。(当たり前ですが) でも、皆様の回答をもらって自分なりの答えは出せそうです。 回答ありがとうございます。

回答No.11

 感想としての連投です。  生きることの目的を問うまえにすでに生きているという答えにあっては おそらく《生きることが 最終目的である》とも決めないでしょうね。   いやあ最終の目的ですって? それなら まだ取って置きのものがあるんですよ じつは。  と返して   でも それは言わない。  ってなこともありでしょうね。  言ったってどうってこともないのでしょうけれど 言っても始まらないし 大事なことであってもいちど聞いたときにはつまらないとすれば ひとは言わないでしょうね。

noritama12
質問者

お礼

>>生きることの目的を問うまえにすでに生きているという答えにあっては おそらく《生きることが 最終目的である》とも決めないでしょうね。 んー確かに。 難しいですね。 回答ありがとうございます。

noname#221368
noname#221368
回答No.10

 感想です。  おこがましいですが#9さん、良い事言いますね!(^^)。  自分も愚直に生きてます(と思ってます)。というか、気持ち良いから子孫を残しちゃいました(言い過ぎか・・・(^^;))。 >生きることが最終目的であると言う事実においては、人間も人間以外の動物も何ら相違が無いんですよ。  その通りだと思いますし、けっこう泣けます(自分は)。でも人間は不要に賢いところがあって、その最終目的の意味を問い出したりもする。それが生の哲学の始まりのような気もするし、不要に賢い人間の宿命のような気もします、#8さん・・・。

noritama12
質問者

お礼

>>人間は不要に賢いところがあって、その最終目的の意味を問い出したりもする。それが生の哲学の始まりのような気もするし、不要に賢い人間の宿命のような気もします 確かにそう思います。 感想回答ありがとうございます。

回答No.9

まずは手段と目的を区別しなくちゃあなんねぇなぁ。 目的がより大きな目的の手段になっている場合は多いのですが、何の手段にもなっていない目的ってものもある。最終目的ですね。 人が生きるとか、人を愛するなんてのは、典型的に最終目的の一つですね。 これが存在の最終目的であることを理解でないと、「最終目的は何のため?」という目的と手段を混同した質問が排除できない。 自分の人生を生きるという最終目的を全うするためには、自らの死を持って人生を規定するってな武士道の美学が生まれることもある。自決するというのは、死が目的ではなくて、自分の生をよりよく全うすると考えないと理解できないでしょう? 生きることが最終目的であると言う事実においては、人間も人間以外の動物も何ら相違が無いんですよ。

noritama12
質問者

お礼

生きることを最終目的と置くということですね。 ただ、何かするには理由がいると思いますが、その前に事実として「生きている」のですね。 難しいです。 つまり、自分の生をよりよく全うすることが最終目的であるということですね。 回答ありがとうございます。

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