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663年 白村江の戦い

tanuki4uの回答

  • tanuki4u
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回答No.4

614年 第4次隋の高句麗遠征。 618年 隋滅ぶ 626年 唐、中国本土をほぼ制覇 630年 東突厥、唐に屈する 642年 高句麗淵蓋蘇文がクーデター 643年 日本 山背大兄王殺害 644年 第1次唐の高句麗出兵。 645年 日本 乙巳の変 648年 羅唐同盟。 650年 新羅が独自の元号を廃し唐の元号を用いる。 660年 唐と新羅が百済を滅ぼす。 661年 第2次唐の高句麗出兵。 663年 白村江の戦いで唐・新羅連合軍が倭国・百済遺民の連合軍を破る。 668年 唐と新羅が高句麗を滅ぼし、唐は平壌に安東都護府を設置 唐による旧満州~朝鮮半島~日本列島まで征服のドミノ倒しの真っ最中であると、日本の支配層は認識した。 救援要請が来たから救援に行ったなんて余裕をかましていたのではなく、ここで防がないと次は自分たちだと考えていたと思います。 飛鳥時代の人口が450万程度 秀吉の時代の人口が1200万人程度 農耕社会での、近接地への動員は 5%程度で、遠征ですと1~2%程度の動員が最大値になります。 秀吉の朝鮮出兵が 14万~15万ですので、飛鳥時代の5万は同程度の経済負担になり、遠征としてはほぼフルフルの動員になります。 そのくらいの、真剣味で白村江に軍勢を送っていると思われます。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >救援要請が来たから救援に行ったなんて余裕をかましていたのではなく、ここで防がないと次は自分たちだと考えていたと思います。 なるほど。 660年に唐・新羅連合軍が百済を一蹴していますので、日本は、唐・新羅の実力を知っていたはずですね。 にも拘わらず、木の葉のような舟で3次にわたり、5万弱(Wikiによる)の兵を送り込んだわけですから、<ここで防がないと>の必死の決意が伝わってきます。

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