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中大兄王子(後の天智)の対応・改革への評価

以下の文は「内戦の日本古代史」(倉本一宏著)の一節です。 国際情勢と壬申の乱  そしてもう一つ、壬申の乱と密接に関連しているのが、「大化改新」以来の北東アジア国際情勢であった。そもそも、中大兄王子(後の天智)が百済復興をめざして救援軍を派兵したことの目的は、中央集権国家建設のために対外戦争を起こして、国内の統一をはかるということであった。  たとえ倭国が敗北してしまった場合でもなお、中大兄王子は、あたかもこれから唐・新羅連合軍が倭国に来襲してくるという危機感を国内に煽り、国内の権力を集中して軍国体制を作るために、むしろ敗戦は好機と捉えていたのではないだろうか。  天智七年正月に正式に即位した天智は、国内改革を推進して、甲子の宣による支配者層の再編成と、天智九年に造られた庚午年籍に代表されるような地方支配の徹底をめざした。特に戸籍を造るということは、在地における地方豪族の権力に対する中央権力の介入につながり、その反発を招いたことであろう。これが壬申の乱における地方豪族層の行動基軸につながっていくという意見もある。  倭国の中央・地方の支配者層は、天智の作戦に見事に乗せられ、いつ果てるとも知れない戦時態勢のなか、自己の伝統的な権益を放棄し、天智に協力して、中央集権的な国家体制建設への道を歩みはじめたのである。……以下略 以上 質問を読んでいただいた皆様のご意見を伺いたいと思います。お願いしたいのは以下の3点です。どれか一つでも構いません。 1 「百済復興をめざして救援軍を派兵したことの目的は、中央集権国家建設のために対外戦争を起こして、国内の統一をはかるということであった。」ということについて。 たしかに、外交とか、対外戦争というのは、国内を統一するための手段として使われる例は少なくないとは思いますが、この時の百済遠征が、本当に国内統一を目指してのことなのか、疑問に思っています。 2 「むしろ敗戦は好機と捉えていたのではないだろうか。」ということについて。  ちょっとうがちすぎという印象を、私は持ってしまうのですが、どうでしょうか??? 3 「天智の作戦に見事に乗せられ、」ということについて。    白村江の戦い以降の天智の危機感を煽った対策や改革が、「天智の作戦」であり、中央・地方の支配者層は、「見事に乗せられ」のだろうか???という疑問です。私は、天智にはやはり、白村江の戦いの敗戦は大きな痛手であり、唐や新羅に対する恐怖心はあったと思う。とても「作戦」というほどの余裕があったとは思えないのですが。

みんなの回答

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2315/5154)
回答No.2

>この時の百済遠征が、本当に国内統一を目指してのことなのか、疑問に思っています。 当時の大王は、直接各地域の王を支配していませんよね。 あくまで、連合国家の代表でしかありません。 中臣鎌足(百済国の王子)が進言した通りに「百済を救済しないと、新羅が攻めてくるぞ!」 反対派の筆頭(全方位外交推進者)であった蘇我氏は、暗殺。 「一致団結しないと、王の立場が危うくなる」 と、各地の王は考えるでしようね。 中大兄皇子・鎌足は、策が成功した事に喜んだ事でしよう。 >「むしろ敗戦は好機と捉えていたのではないだろうか。」ということについて。 これは、敗戦によって中大兄皇子の立場は弱くなっていますね。 「新羅・唐が攻めてくるぞ!」と宣伝していながら、一向に攻め込んで来ないのですからね。 「土地・人民を大王に差し出したのが、失敗だった」と、各地の王は考えたはずです。 >とても「作戦」というほどの余裕があったとは思えないのですが。 余裕は、無かったでしようね。 大海人皇子は、この失敗の責任を負う事を嫌って吉野に逃れました。 天智大王の後継者になると、失敗の責任を負わされます。 「天智とは、一線をひかなければ」と、考えた訳です。 結局、天智は各王の指示を得る事が出来ませんでしたよね。 各地の王は「天智憎し」でまとまり、大海人皇子側につきます。 天智の息子は、結局大王になる事が出来ず自害していますよね。 天智には、まったく余裕がなかった証拠です。 結果として、白村江の戦いは「大海人皇子に有利な状況」を造っただけですね。 大海人皇子は、天智大王とは全く関係のない権力者として「天武天皇」として即位。 ※史上初めて、天皇と名乗る。 ここに、中央集権が完成しました。

5555www
質問者

お礼

ありがとうございました。 中大兄皇子・鎌足は、策が成功した事に喜んだ事でしよう。……分かりました。 敗戦によって中大兄皇子の立場は弱くなっていますね。……そうですよね。「好機」ととらえるほどの余裕はなかったと思うのです。苦肉の策ということはあるかも知れませんが。うまく表現できないのですが、後醍醐だったか???のように、不屈の精神みたいなものはあったのかも。 「土地・人民を大王に差し出したのが、失敗だった」と、各地の王は考えたはずです。……中大兄皇子にとっては、たんに「結果オーライだった」だけだと思うのです。 大海人皇子は、この失敗の責任を負う事を嫌って吉野に逃れました。 天智大王の後継者になると、失敗の責任を負わされます。…… 大海人皇子は、なぜ吉野に逃れたのか???という疑問を持っていたのですが、ひとつのヒントを得ました。 結局、天智は各王の指示を得る事が出来ませんでしたよね。~~「大海人皇子に有利な状況」を造っただけですね。……この辺の因果関係を、私は理解していません。大きな疑問は、「天智は、そもそも次を誰にと考えていたのか???、子か???弟か???」……常識的には、「子」だと思うのですが。「内戦の日本古代史」では、「弟」だとなっています。「壬申の乱の構図」をどのように理解するのか???一冊の本を読んでいるだけでは、疑問は尽きないです。 ここに、中央集権が完成しました。……日本の歴史の中でも、「長い旅」のひとつだったのでしょうね。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11170/34723)
回答No.1

1 私は朝鮮への派兵は、国内にいた「百済派」を体よく一掃するためだった説を支持したいですね。 当時朝廷に百済の王子である扶余豊璋がいましたので、朝廷及び国内には百済に派兵すべきだという勢力が少なからずいたと思います。 中大兄皇子(天智天皇)は「唐と戦争になったら勝てるはずがない」と思っていたと思いますが、こういうときに主戦派を抑えつけるほど難しいものはありません。 それだったら剣を掴んで荒っぽいことをいう連中は、お望み通りに朝鮮半島に送ってしまえと思っていても不思議はないなあとは思います。 2 中大兄皇子の本心を知る術はありませんが、文字通りに主戦派が一掃されたことで「やれやれ。これで過激なことをいう勢力はいなくなった」とホッとしていたとしても不思議ではないと思います。 そういう意味では好機と思ったかも。 3 そこまでの深謀遠慮があったのかというのはありますね。しかし、乙巳の変を起こし白村江の戦いによる国難(唐は日本に攻めてくる気は毛頭ありませんでしたが、日本側の危機感は相当だったと思います)もどうにかこうにか乗り越えてきた人ですから、相当に「政治家」だったとは思います。 けれど彼がなかなか即位しなかったのは、即位「しなかった」のではなくて「できなかった」からだと思うので、そういう点では権力を安定させるにはかなり苦労があっただろうとは思います。

5555www
質問者

お礼

ありがとうございました。 私は朝鮮への派兵は、国内にいた「百済派」を体よく一掃するためだった説を支持したいですね。…… そんな背景もあったのですか。もう一度読み返してみます。「中国は戦争をしたがっている。国内の反体制派を前線に送り出せるから」というのを何かで読んだ記憶があります。統治者の立場に立って考えないと分からないこともありますね。 こういうときに主戦派を抑えつけるほど難しいものはありません。……「歴史を見る目」、「世の中を見る目」のひとつを学んだような気がします。 そういう意味では好機と思ったかも。……分かりました。 けれど彼がなかなか即位しなかったのは、即位「しなかった」のではなくて「できなかった」からだと思うので、そういう点では権力を安定させるにはかなり苦労があっただろうとは思います。……私の能力では到底ここまでの考え方に至りませんが、少し当時の背景が見えてきたように思います。ありがとうございました。

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