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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:高句麗の好太王の石碑)

高句麗の好太王の石碑が存在する意味とは?

このQ&Aのポイント
  • 高句麗の好太王の石碑が中国吉林省にあることは、日本が朝鮮半島を攻略したことを示す証拠とされています。
  • 白村江の戦いによって百済が滅亡し、百済の王族や貴族は日本に亡命したことから、百済が日本の朝鮮半島支配下にあった可能性が指摘されています。
  • しかし、専門家の調査では百済の国王は日本の天皇家の分家であり、百済の貴族も日本人であったことが明らかになっています。このことから、日本が朝鮮半島に援軍を送ったり、王族や貴族が亡命したりすることはなかったとされています。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.8

ちなみに竹内文書みたいな偽書を読んでも意味はないですよ

mt53s6e
質問者

お礼

ありがとうございました。

その他の回答 (7)

回答No.7

>中国吉林省(満州)には、高句麗の好太王の石碑があります。 石碑には、4世紀末に、倭国(日本)が、攻めてきて、戦ったことが、刻んであります。 日本から、朝鮮半島を飛び越えて、満州を攻めたとは、考えられません。 当時は、朝鮮半島全体が、全部、日本の支配下だったんじゃないでしょうか? それはないでしょうね。 朝鮮南部が日本の勢力下だったとは思いますが、北部にまで進出した形跡はなかったはずですし、 そもそも日本に旨みがないですよね。 それに石碑だと高句麗が勝ったことを誇ってるので、日本が攻め込んだのは朝鮮中部~満州の秩父まで勢力下においていた高句麗だとおおわれます。 朝鮮半島全部を支配するとなると、高句麗が敗北しているはずなので、碑文の内容と矛盾していしまいますね。 >朝鮮半島攻略に成功して、次に、高句麗をも攻めた、というのが、歴史的事実なんじゃないでしょうか 高句麗は朝鮮半島の国なので、朝鮮半島攻略に成功したら高句麗は滅んでいるのでは?

mt53s6e
質問者

補足

高句麗は、中国ではないんですか?

  • reflector
  • ベストアンサー率7% (37/491)
回答No.6

話は、まずここから屈折しています。 >古事記を読むと、新羅、百済は、日本の朝貢国として書かれています。 日本史を語るのなら、竹内文書を良く読むように。 武内宿禰ちゃんが記述した「宇宙~」の話をフィルターリングしながら読んでいけば、日本史の構成が手に取るように解ります。

回答No.5

#3です 良くわからないので簡単に補足の回答。 あぁそうですか。そういうことなら、どうでもいいですよ。 研究がんばってください

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.4

No.2です。補足をいただきましたが、話がかみ合いそうにないことが確定しましたので、一部のみお答えします。 >石碑があるのは、満州です。 >戦争をした場所に、石碑を建てたんではないんですか? 石碑は広開土王の功績をたたえて作られたものです。倭との戦闘はその一部にすぎず、倭との戦闘を記念して作られたものではありません。碑のある場所は王の墓所に近いと考えられています。 よって満州まで倭が侵攻したとする史料的根拠はありません。 >なんのことでしょうか? >高句麗の好太王の石碑は、歴史的資料です。 その史料をろくに読みもせず、勘違いして評価していたのでは、史料の裏付けがあるとは言えません。 朝貢=支配下かどうかは平行線でしょうから、もはや言及しませんが、満州まで倭が攻め込んだということが、ただの勘違いであり、史料に基づかないことはご理解いただけたでしょうか? >「親百済」なんて、国際関係を知らないんですね。 百済は日本人の国と信じ込んでいるのですからそうでしょうね。 まあ、百済と日本が親密な関係で、唐・新羅に滅ぼされた時に支援を隣国の仲良しの日本に依頼するというのは、自然な流れですから、そういった見方もあるということを知っておいてはいかがでしょう? >ほかのサイトで、誰かが、書いていました。 >ネットは、内部告発に向いているんです。 どこのだれかもわからない人間が発言した内容を、その科学的方法に疑問も持たずに信用するわけですね。ところが自分の考えとは違う意見には耳を傾けない。 >朝鮮は、一度も、中国に侵略されたことがない」と、いまだに、思い込んでいるんですか? >朝鮮学校(北朝鮮の学校)で、そう教えているんでしょうが、日本人の言うことが信じられないなら、>外国で、勉強しては、どうですか? >世界中で、自国の歴史を知らないのは、朝鮮人だけだそうですよ。 意味不明なんですが、私は朝鮮人と思われているのでしょうか?勘違いも甚だしい。不愉快です。 そもそも「朝鮮は、一度も、中国に侵略されたことがない」とどこに書いたのでしょうか? 百済の滅亡後、朝鮮南部に所在する国はありません。つまり、中国王朝に攻められても、日本は隣国ではないため、援軍を依頼するという発想がなかったのでは?と言ったのです。日本語を理解できないのですか? ちなみに、末期の三別抄は日本に近かったため、支援を求めていますね。 最後に一度、朝貢関係を基軸にした国際関係について勉強してみてはいかがでしょうか?

mt53s6e
質問者

補足

>石碑は広開土王の功績をたたえて作られたものです。倭との戦闘はその一部にすぎず、倭との戦闘を記念して作られたものではありません。碑のある場所は王の墓所に近いと考えられています。 よって満州まで倭が侵攻したとする史料的根拠はありません。 高句麗は、朝鮮半島北部にありました。 日本からだと、朝鮮半島を北上した位置にあります。 日本には、「高句麗が攻めてきた」という史実も、資料もありません。 当時は、日本には、文字がないですが、古事記を読んでも、日本列島が、異民族の侵略を受けた様子はありません。 でも、高句麗の石碑には、「日本が攻めてきて、戦争した」と書いてある。 日本が、高句麗まで、攻め込んだんではないですか? とすると、朝鮮半島は、全体が、日本の支配下にあったと考えられます。 >朝貢=支配下かどうかは平行線でしょうから、もはや言及しませんが、満州まで倭が攻め込んだということが、ただの勘違いであり、史料に基づかないことはご理解いただけたでしょうか? 朝貢は、異民族に対する間接統治の形態です。 シナが、有史以来行ってきたやり方です(現在のチベットやウイグルの支配形態は、直接統治です。シナにとっても、初めての方法で、リスクが高く、コストがかかりすぎるそうです) 満州まで、攻め込んだということが、史料に基づかないというのなら、「攻め込んでいない」という回答者の意見の根拠は、史料に基づいているんですか? 私は、石碑の文章から、推定しているわけで、回答者は、何を根拠にしているんですか? ”朝鮮人の民族感情”は、歴史の根拠になりませんよ。 >まあ、百済と日本が親密な関係で、唐・新羅に滅ぼされた時に支援を隣国の仲良しの日本に依頼するというのは、自然な流れですから、そういった見方もあるということを知っておいてはいかがでしょう? 「仲良し」という言葉を使うなんて、国際常識を知らないんですね。 白村江の戦いのとき、日本は、朝鮮に、4万人も兵隊を出しました。 以後、日本が、朝鮮に援軍を出したことは、ただの一度もありません。 今だって、第二次朝鮮戦争が起きた場合、日本が、南朝鮮を支援するか、というと、反対する人が多いでしょう。 朝鮮総連は、もちろん反対するでしょうが、それ以外にも、「南朝鮮のために、日本人を死なせるのは、嫌だ」という意見が出てきます。 「なんで、南朝鮮なんか、応援しないといけないんだ」という人も多いでしょう。 古代だと、今より、輸送の手段も限られています。 物資の補給も、大変です。 今なら、飛行機で、1時間で行けても、昔なら、船と徒歩で、何十日もかかります。 遠くで、戦争するために、日本人を兵隊に出すのは、コストも、労力も大変なんです。 それをあえて、負ける可能性もあるのに(実際、負けていますが)、兵隊を出すということは、それなりの、理由があったはずです。 戦争後の、百済の王族・貴族の日本亡命を考えると、「この王族・貴族は、日本人だったんじゃないか?」と思うのは、自然な発想なんです。 歴史上、朝鮮の王族・貴族の日本亡命なんて、これ一回きりです。 いまも、在日朝鮮人が、大勢日本にいますが(密入国者やその子孫ですが)、日本人が亡命を受け入れたわけでもなく、「なにかあったら、助力してあげたい」なんて、露ほども思いません。 日本人じゃないからです。 在日朝鮮人は、北朝鮮の同胞を、「日本に受け入れたい」と思っているようですが、とんでもないことで、亡命者は、こりごりです。 日本人の感情を考えても、百済王族・貴族に対する大和朝廷の姿勢は、朝鮮人に対するものじゃないんです。 >どこのだれかもわからない人間が発言した内容を、その科学的方法に疑問も持たずに信用するわけですね。ところが自分の考えとは違う意見には耳を傾けない。 朝鮮学校では、嘘っぱちを教えているそうですね。 伝説の英雄・金日成と、北朝鮮初代の金日成は、別人ですよ。 大体、伝説の英雄は、1920年ころには、有名だったから、1912年生まれの金日成は、年齢も、完全に合いません。 朝鮮学校で教わった内容を信じている人に、とやかく言われる筋合いはありません。 >百済の滅亡後、朝鮮南部に所在する国はありません。つまり、中国王朝に攻められても、日本は隣国ではないため、援軍を依頼するという発想がなかったのでは?と言ったのです。日本語を理解できないのですか? ちなみに、末期の三別抄は日本に近かったため、支援を求めていますね。 >最後に一度、朝貢関係を基軸にした国際関係について勉強してみてはいかがでしょうか? おかしいことを言いますね。 百済は、日本に援軍を求めたのに、それ以後の王朝が、日本に援軍を依頼しないのは、「援軍を依頼するという発想がなかったのでは?」と言うんですか? 過去の王朝がしたことは、真似するのが、普通です。 日本列島の位置は、移動していません。 「朝貢関係を勉強しろ」という言葉は、そのまま、回答者にお返しします。 朝鮮は、シナに、1300年間も、朝貢しました。 日本統治以前は、朝鮮には、軍隊もなく、外交権もなく、貨幣鋳造権もありませんでした。 独立国とは言えない状態です。 シナには、1300年間も属国にされ(ほとんど一地方)、蹂躙されながら、ただの一度も、謝罪や賠償を要求したことはありませんね。 日本にばかり、なぜ、謝罪や賠償を要求してくるんですか? 「侵略されたから」というのが、謝罪や賠償を要求してくる理由でないことは、確かですね。 シナが怖くて、何も要求できないんですか? なら、シナの何十分の一しか、侵略していない日本に、謝罪や賠償を要求しないでください。 ベトナム戦争で、南朝鮮の兵士が、多数のベトナム女性を強姦したり、ベトナム人を虐殺したことは、謝罪も賠償もしてないそうですね? 日本に何か要求する前に、朝鮮人が、手本を示しては、どうですか? ベトナムに行って、謝罪したり、賠償金を払ったり、私生児のための育児費を払ったり。 そうそう、日本にいる在日朝鮮人も、日本人に迷惑ばかりかけているから、扶養料や、迷惑料をもらわないといけませんね。

回答No.3

少し耳の痛い話かもしれませんが、質問者様自体がもう一度「好太王碑」を検証することは必要だな。とは思います。 というか、好太王碑の研究の蓄積はかなりの量がありますので、まずは先賢の意見に耳を傾けるといった謙虚な態度も、歴史を学ぶ上で不可欠な素養でしょうから、がんばって読んでみてください。 それらを実践していただけることを前提として、特に学者に注目される、俗に第2部における、王の勲積顕彰「百残」や「倭」の部分ですが ※()内、shirokuro1533注 ※「×」解読不能 「?」新であろうと予測される 「百残(百済)・新羅は旧是(これもと)属民にして、由来朝貢す。しかるに倭、辛卯の年(391年)を以って来たりて海を渡り、百残××?羅を破りて、以って臣民となす。 どうでしょう。そのまま読めば質問者様がおっしゃるそのままですよね。 ですが、それらの事実をそのまま容認することも当然できませんよね?たとえば、その時点で滅ぼされたはずの国が、後世に堂々と存在している。しかもそれらの国を滅ぼし支配したはずの日本の正史『日本書紀』にも独立した国と伝えられます。古墳が似ているというお話ですが「どこが?」というくらいで、当時の倭国統治を裏付ける積極的な材料に乏しいですよね。 そして、5世紀初頭において、ほぼ100年ぶりに、東アジア地域の歴史に倭国(日本)が登場しますが、宋は倭国が要求する百済に対する倭国の指揮権は認めず、将軍号も高句麗や百済より下位の物しかくれません。 もちろんこれらは、南北朝の南とされる「南宋」の基本的な外交方針が、北朝「北魏」を抑えることが目的でしたから、戦略上、海を越える倭国は、半島の付け根や半島の中心に位置する高句麗や百済より、倭国を重視することはできない、という部分もあるのですが。それにしても、数十年前(約30年前※413年遣使はなかったとして)半島諸国を支配した国であったのであれば、その部分は配慮されるべきところ、そんなこともなく…ですから支配はしていなかったのだと思いますよ。 それらをふまえて、戦後においては「この侵略の主体は倭ではなく高句麗のことをいっている」や「倭の部分はヤマト王権とは別の伽倻である」などの解釈に始まり、「この碑文は帝国陸軍が改鋳したものである」など、さまざまな憶測が飛び交います。 これらの経過については、様々な学問的蓄積がありますので、ご自身でお調べいただかないことには、ちょっと理解しにくいかとは思います。 いずれにせよ断片的に説明すれば、文章自体の「倭」の銘については、文章自体が倭でなければ成り立たない。ということで、碑文自体には質問者様が指摘された内容が書かれていた。という事ですが、それらが史実か?という部分では、先に述べた「陸軍改鋳説」は否定されたものの、その内容自体は浜田耕策氏の論説により、「高句麗王の支配に対する撹乱者”倭”の排除を正当化するために、その前段階にある不当・不利な状態を極めて誇張して表現している」ということなんですね。391年時点との碑文の記載は、399~404年におけるヤマト王権の高句麗に対する敵対行動に対し「かつてから不当かつ不適切な行動があった」と誇張し、かつ年代についても391年とすることにより、404年現在に至るまでの、倭の対外関係の矛盾の淵源を391年とするといった、高句麗側から見ての数々の戦闘についての総論的立場に立ち391年と書かれたものである。というのが一般的な解釈です。 そして、一番の問題は、100歩ゆずって倭国が半島を支配したとしましょう。でどのように終焉を迎えるのでしょうか?百済や新羅として生き続けたという主張であれば、なぜそのような手の込んだ偽装工作をする必要が倭国にあったのでしょうか? 大胆な仮説は、その当否は別として、後の学問発展の段階を形成する場合もあります(騎馬民族征服王朝説など、同説の否定・肯定により学問的発展があった) ただし、やはり理性的な根拠を伴いながらでなければ、それは珍説・奇説との批判は免れえなくなってしまいます。特に気になった部分ですが (専門家の調査で判明したそうですが、専門家が隠しているそうです) 『東スポ』や雑誌『ムー』であれば「またか…」ですむのでしょうが… ただ、今回のような質問。僕は嫌いじゃないですよ。また色々わかったら教えてください。

mt53s6e
質問者

補足

>ですが、それらの事実をそのまま容認することも当然できませんよね?たとえば、その時点で滅ぼされたはずの国が、後世に堂々と存在している。 当時は、「支配」というのは、朝貢国にすることなんですよ。 近世まで、アジアでは、異民族支配は、間接統治で、朝貢国にするんですよ。 (今の中国がやっている異民族に対する直接統治は、コストとエネルギーがかかりすぎて、長続きしないそうです。) >391年時点との碑文の記載は、399~404年におけるヤマト王権の高句麗に対する敵対行動に対し「かつてから不当かつ不適切な行動があった」と誇張し、かつ年代についても391年とすることにより、404年現在に至るまでの、倭の対外関係の矛盾の淵源を391年とするといった、高句麗側から見ての数々の戦闘についての総論的立場に立ち391年と書かれたものである。というのが一般的な解釈です。 つまり、倭(大和朝廷)が、高句麗と戦争したんでしょう? 倭が、満州まで行って、戦争した、ということは、朝鮮半島は、倭が、好きなように、利用できたんでしょう? >そして、一番の問題は、100歩ゆずって倭国が半島を支配したとしましょう。でどのように終焉を迎えるのでしょうか?百済や新羅として生き続けたという主張であれば、なぜそのような手の込んだ偽装工作をする必要が倭国にあったのでしょうか? 「支配」というのは、「朝貢国にした」ということです。 朝貢国は、反乱を起こすこともあったわけで、古事記にも、九州や東国の反乱のことが書いてあります。 終焉は、倭から離脱して、中国の支配下に入ったわけです。 百済は、日本人の王朝だったので、王族・貴族は、日本に亡命しました。

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.2

当時の朝鮮半島全体が日本の支配下だったとは言えません。 そう考えたあなたの根拠それぞれに以下のような問題点があるからです。 ・高句麗と倭が戦闘したのは帯方郡では?満州まで侵攻したのですか? ・朝貢国=支配下ではありません。勘合貿易の時の日本は明の支配下ですか? ・神功皇后の新羅征討で、朝鮮を支配できたのですか? ・歴史的事実としていますが、史料の裏付けがありません。推測に過ぎません。 ・百済は白村江の戦い以前に滅亡しています。遺民に再興の支援を要請されたから援軍を送ったのです。百済が日本人の国なら、660年の滅亡前に援軍を送るのでは? ・百済王族・帰属が日本に亡命した理由は、隣国で日本以外に親百済の国がなかったからでは? ・古墳の共通性は、当時の技術の伝播の結果では? ・専門家が隠しているのなら、どうやってあなたは知り得たのですか? ・その専門家はどんな方法でそれを判明させたのですか? ・百済滅亡後に日本に隣接する朝鮮半島南部の国が滅亡の危機に陥ったことがないのですから、援軍派遣のしようがないのでは? ・新羅も日本の支配下だったと読み取れますが、それでは新羅が唐と結んで同じ日本の支配下にある百済を滅ぼしたことを説明できないのでは?

mt53s6e
質問者

補足

>高句麗と倭が戦闘したのは帯方郡では?満州まで侵攻したのですか? 石碑があるのは、満州です。 戦争をした場所に、石碑を建てたんではないんですか? >朝貢国=支配下ではありません。勘合貿易の時の日本は明の支配下ですか? 支配していなければ、その国を通って、高句麗を攻めることはできません。 >神功皇后の新羅征討で、朝鮮を支配できたのですか? 古事記には、詳しいことは書いてありませんが、新羅から、朝貢してきていることは、書かれてあります。 征伐して、朝貢国にしたことは、間違いないと思います。 わざわざ、神功皇后が、新羅(朝鮮人)の血を引くことを強調して書いてあり、その神功皇后(天皇ではなく)が、軍隊を率いて、戦争に出かけたことを書いてあります。 実際は、天皇の妻が、戦争に行くなんてことは、ありえません。 新羅を攻めたことを、正当化するための文章です。 >歴史的事実としていますが、史料の裏付けがありません。推測に過ぎません。 なんのことでしょうか? 高句麗の好太王の石碑は、歴史的資料です。 古事記も、少しは、歴史的価値があります。 日本書紀は、日本の歴史書です。 考古学者が、いろいろ発掘して、調査しているそうですが、日本の歴史学者は、赤いので、朝鮮人の嫌がる真実を、隠してあげているそうです。(本に書いてました) >百済は白村江の戦い以前に滅亡しています。遺民に再興の支援を要請されたから援軍を送ったのです。百済が日本人の国なら、660年の滅亡前に援軍を送るのでは? 百済は、白村江の戦いで、最終的に滅びました。 その後、百済の王族・貴族が、日本に亡命したことは、小学校の歴史の教科書にも書いてあります。 百済の王族・貴族が、日本人だったことは、それ以後の、朝鮮の歴史から、推測できます。 中国から、何度攻め込まれても、日本に亡命した朝鮮の王族や貴族はいませんし、日本から、援軍を送ったこともありません。 日本史全体を見ても、朝鮮に援軍を送った7世紀は、異常なんです。 百済と日本との関係が、それ以後の朝鮮とは、違っているんです。 >百済王族・帰属が日本に亡命した理由は、隣国で日本以外に親百済の国がなかったからでは? 「親百済」なんて、国際関係を知らないんですね。 大和朝廷は、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に敗れた後、唐が、日本に攻めてくるんじゃないかと、恐慌をきたしています。 当時は、中大兄皇子や、大海人皇子の時代です。 大急ぎで、国防体制を整えています。 唐の役人が、和睦のために、日本に来たときも、沿道沿いに、兵隊を並べて、軍事力を誇示しています。 百済の王族・貴族が、日本人じゃなかったら、亡命させていません。 >古墳の共通性は、当時の技術の伝播の結果では? 私もそう思っていましたが、百済の王族が、日本の天皇家の分家であることに気がつくと、古墳の作り方は、先祖を真似るものだから、血筋を示すことに気がつきました。 >専門家が隠しているのなら、どうやってあなたは知り得たのですか? ・その専門家はどんな方法でそれを判明させたのですか? ほかのサイトで、誰かが、書いていました。 ネットは、内部告発に向いているんです。 >百済滅亡後に日本に隣接する朝鮮半島南部の国が滅亡の危機に陥ったことがないのですから、援軍派遣のしようがないのでは? 「朝鮮は、一度も、中国に侵略されたことがない」と、いまだに、思い込んでいるんですか? 朝鮮学校(北朝鮮の学校)で、そう教えているんでしょうが、日本人の言うことが信じられないなら、外国で、勉強しては、どうですか? 世界中で、自国の歴史を知らないのは、朝鮮人だけだそうですよ。 CNNで、「自国の歴史を知らない国 朝鮮」という番組まで、やったそうですよ。 その後も、朝鮮は、中国に新しい王朝が出来るたびに、攻め込まれて、隅々まで、侵略されています。 明が滅んだ後、清に攻め込まれたときは、日本(徳川幕府)に、援軍要請しています。 ときの徳川家光は、その気があったそうですが、豊臣秀吉の失敗を考えて、幕臣がとめたそうです。 「朝鮮は、中国に攻め込まれたことがない」と思い込みたいのは、なぜですか? いまだって、地図を見たら、中国がどれくらい怖いか、わかりそうなものです。 日本より、朝鮮のほうが、ずっと、危ないです。 >新羅も日本の支配下だったと読み取れますが、それでは新羅が唐と結んで同じ日本の支配下にある百済を滅ぼしたことを説明できないのでは? 新羅は、大和朝廷の朝貢国でしたが、朝貢国は、安定したものではなくて、しょっちゅう反乱を起こすんです。 日本国内の九州や東国も、しょっちゅう、反乱を起こして、鎮圧されています。 新羅も同じです。 新羅が、九州や、東国と違うところは、外国(唐)の力を借りたことです。 それで、大和朝廷からは、離脱できても、唐の朝貢国に成り下がった、ということです。 百済を滅亡させて、朝鮮半島を統一しても、唐の朝貢国であることは、変わらなかったわけです。

  • poomen
  • ベストアンサー率34% (784/2278)
回答No.1

 いくらアマチュアの歴史好きの想像といっても、ここまでぶっ飛んだ妄想は初めて聞きました。ならば、中国の史書にもきちんと書かれていることでしょう。  この時代に関連する倭の王が史書に出てくるのは「倭の五王」くらいです。  たとえば、「武」は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称しています・・・『宋書』倭国伝  ところが肝心の日本書紀にも古事記にも倭王武どころか「五王」に関するなんの記述もありません。  また、記紀ともに朝鮮半島全体体を制圧したとの記事も何もありません。  日本書紀編纂の理由はいろいろありますが、一つは倭が日本と名を変え、中華帝国からの離脱をはかって「対等の帝国である」ということを対外的(特の当時の中国王朝)に主張する目的がありました。  なのであちこちに粉飾、ねつ造があるわけですけれども、それでも「一度は朝鮮半島全体を制圧した」とは書いていません。  妄想にも程度がありますよ。 >紀元1~2世紀に、内戦の末、日本を統一した大和朝廷が、その勢いのままに、朝鮮半島に侵攻します。  あなたが学者なら大学を解雇されるというか、大学院生に馬鹿にされるレベルです。使用している語句がまたひどい、「日本」、「大和朝廷」  ウリジナルの日本版ですね。お隣の国の悪いところをまねしちゃ駄目ですよ。

mt53s6e
質問者

補足

高句麗の好太王の石碑のことは、どう説明するんですか? 石碑に書いてあることは、嘘だと言うんですか? >たとえば、「武」は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称しています・・・『宋書』倭国伝  ところが肝心の日本書紀にも古事記にも倭王武どころか「五王」に関するなんの記述もありません。 「倭王武」というのは、雄略天皇のことらしいです。 もしくは、ヤマトタケルの尊(みこと)のことらしいです。 日本人が、「倭」なんて言葉を、使うはずがありません。 「倭」は、日本の蔑称です。 >日本書紀編纂の理由はいろいろありますが、一つは倭が日本と名を変え、中華帝国からの離脱をはかって「対等の帝国である」ということを対外的(特の当時の中国王朝)に主張する目的がありました。 「日本が中華帝国に組み込まれていた」という主張こそ、捏造です。 中国の歴史書に、「日本を侵略し、朝貢国にした」なんていう記述がありますか? 日本には、古代から、天皇(エンペラー)がいます。 中国の朝貢国には、エンペラーは、いません。 国王しか、許されません。 だから、中華帝国からの離脱を図ったことなんかありません。 古事記や日本書紀が、記された理由は、氏姓制度が乱れたことだそうです。 現在も、在日朝鮮人が、日本名を名乗って、混乱をきたしていますが、古代にも、大勢の人が勝手に、氏素性を詐称して、混乱したそうです。 古事記を読めばわかりますが、氏姓制度は、天皇家との関係を軸にしていて、古事記の中で、すべての氏姓を体系づけています。 誰それの姓は、某天皇の子孫だとか、誰それの姓は、天皇の先祖の時代から、家来だったとか。 天皇を絶対視していて、すべての日本人は、天皇の子孫扱いです。 >なのであちこちに粉飾、ねつ造があるわけですけれども、それでも「一度は朝鮮半島全体を制圧した」とは書いていません。 中国の歴史書よりは、日本書紀の方が、信憑性が高いです。 古事記にも、百済や、新羅が、大和朝廷に、朝貢していることが、書いてあります。 古事記にも書いてありますが、大和朝廷は、ほぼ、日本全部を、かなり早い段階で、征服していますが、征服した後、しょっちゅう、地方が、反乱を起こすんです。 制圧したからといって、後、服従し続けるわけではなく、よく、反乱を起こしたわけです。 朝鮮半島も同じだと思います。 朝鮮半島を制圧しなければ、満州まで、戦争には行けません。 古事記には、「神功皇后の新羅征伐」が書かれています。 日本が、最終的に、朝鮮を手放したのは、白村江の戦い(664年)で、負けてからです。 それ以前には、朝鮮半島全体を制圧し、満州まで、攻めたこともあったわけです。 イギリスも、100年戦争で負けて、フランスから撤退しますが、それ以前は、フランスに広大な領地がありました。 島国が、大陸に、領土を保持するのは、難しいんです。 朝鮮の歴史教科書には、「朝鮮は、半万年の独立国」だとか、「日本以外には、侵略されたことがない」とか、嘘ばかり書いてあるそうですね。 嘘を信じたい気持ちはわかりますが、歴史は、客観的事実であり、科学的に実証されるべき学問です。 まず、朝鮮の教科書の嘘を正してから、議論に加わりましょう。 ネットを、嘘を広める場として、利用してはいけません。 工作員にしか見えませんよ。

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