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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:神はいるのか?)

神はいるのか?

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.20

No. 3です 私が現在の思索過程に至る以前、ちょうど学生時代から就職時にかけて「神様」という概念について考えたことがあります。参考になるかもしれませんので、一部引用しておきます。 >>> http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4597/nayami_main.html#sub6 6.「神」の考察。その1 人生と宗教と ---宗教に囚われても悩める人々に,さらなる悩みを---(1994.9.26の思考より) なぜ人は宗教を求めるのか、信じるのか、 なぜ人は神を信じるようになったのか、 人々にとって神とはどのような存在なのか、 全ての人にとって同一の神は存在可能なのか、 神が存在するとした場合、 その神は特定の個人のための神なのか、 特定の家族のための神なのか、 特定の国家のための神なのか、 特定の民族のための神なのか、 特定の種のための神なのか、 特定の動物のための神なのか、 特定の生命のための神なのか、 特定の宇宙のための神なのか。 生きることを越えていくことが そんなにも苦しく思えたことが つい今し方だというのに 頭の中で悟りを得たとしても 体の苦痛にたいしては なす術もなく転がりまくる。 何を考えているのだろうか、 生を越え、死を越え、全ての存在を越えた感覚に 生の中にあり、死の前に存在し、何も越えれずに考える己を見つめることが、 般若心経の無限の回転の内に、ゲーデルの不完全性定理を見出したかのように 全ての判断が人間によって考えることによって行われるゆえに、 人は人の考えから抜け出すことが出来ないというのに。 みんなが正しいと思うが故に正しい行いをしてきた人々に幸いあれ。 神も悪魔も善も悪も、全て人がそうであると判断することによってのみ人に認識されるというのに。 神と直接交信した人は考えればいい。 その対象が神であるという判断はその人がしたのだから。 その人の話しを聞いて信じる人は考えればいい。 神が存在するかどうかを判断したのではなく、その話を正しいと判断したのだから。 神が存在するならば、人は判断の対象として神を見てはならない。 存在すら判断してはならないのである。 判断の対象とした途端、その存在は神ですらなくなる。 単に人の善悪の基準に照らしだされた悪魔に対比されるべき存在としての言葉としての神でしかなくなる。 一方、判断することをしなければ神を信ずることが出来るであろうが、 その時には,人は人としての価値観を持ちあわすことが出来ないということを知るべきである。 それゆえ、神と悪魔の違いすら判断できないことを知るべきである。 ここに記述した神は、人の思考の対象としての神である。 存在するならば人が如何に考えようとも如何に思おうとも存在する。 人よ静かに考えるがいい。 いったい神とは如何なる存在をさして言うのか、 それは他人と共有できる存在でありうるのか、 言葉や、絵や、シンボルや、歌や行いによって他に知らしめることが出来うる存在なのだろうか。 軽々しく神の祝福を垂れ給う人々よ。 罪深き人々よ。 何が真実でありうるのだろうか。 あなたの判断による審判は常に人々にもたらされていると言うのに。 人は一人一人の判断の上に立って善悪を認識し、行動してゆく。 その価値判断の基準は、自己を中心として家族、 自分にかかわりのある地域、動植物、 そして民族あるいは国家、さらに地球、太陽系、銀河系、さらには大宇宙にまで及びうる。 人の思考の及ぶ限り。 しかし、自分との関係の深いものから順に価値判断に及ぼす影響は順に弱くなってゆく。 空間的な配置もさることながら、時間的な事物の価値判断に及ぼす影響も異なる。 今から自分が生きていくであろう未来に関しては多大な価値を見出すであろうが、 自分が死んでから後の未来に関してはそれ程多くの価値を見出さないであろう。 さらには過ぎ去った過去にたいしては、 価値判断の基準を修正する為に,考慮に入れる程度だろう。 人が人として生きていく限り、 争いは絶えず、民族は協力し、紛争を起こし、国家が生まれ連合し分裂し消滅してゆく。 全ての人が信じるべきものを信じたとしても個々の価値判断が異なり、境界が生じ断裂が生まれる。 現象学で説明される思考基盤の共通性は非常に重要な観点に思われる。 7.「神」の考察。その2 今、人の思考を超越した存在が、人との関りにおいて、なにがしかの利益をもたらしたとする。 人々は、喜び、称え、「我等が神よ!」と叫ぶことだろう。 そして、人の思考を超越した存在が、人との関りにおいて、なにがしかの災いをもたらしたならば、 人々は、恐れ、戦き、「我等に災い為す悪魔め!」と叫ぶことだろう。 人々に利益をもたらすものは神であり、災いをもたらすものは悪魔であると、 単純に割り切って考えることが原初の神と悪魔との概念を形作ってきたものと思われる。 この間の水不足の折り(94年秋)、日本のある農村で伝統的な水御いの儀式のTV放送があった。 人々は御神体を川につけ、「雨を降らさないなら、流してしまうぞ!」と何度も脅していた。 そこに古来の信仰の対象である農村の「神」の位置付けを見、さらに「悪」とのぎりぎりの境界で 「神」として捨てきれない心の表れをも見た。「災いを為す神は神ではない」と言いたげであった。 ある環境に住む特定の民族は、常に神の加護の元にあると信じ、災いですら「神が」試練のために もたらしたものであると信じるに至る。この強大な「神」への信仰は世界に瞬く間に広がった。 一個人の神・悪魔ですら、その人の思考パターン、価値観の変化によって、その境界は微妙に揺らぐ。 しかしながら,家族、民族、国家の形成と共に、「何に」利益をもたらすものを「神」ないし「善」と 判断するのかの明確な規定が必要になる。 一方で,「何に」災いをもたらすものを「悪」とするのかは暗黙の内に人々の心に巣食うこととなる。 場合によって,これらは法によって定義される。 神も悪魔も同じ所から来ていることにすら気付かない人々にとって、悪を排除することは当然のことである。 しかし、悪を消し去ることは決して出来ないことも、人々は気付いていた。 「悪霊」を封じ込める、あるいは退散させる儀式は存在するものの、 消滅させる儀式が,はたして存在するだろうか。 人の子は、「大いなる自然」から生まれ来て、当初,善悪の区別なく育つ。 そして、人間としての思考が始まる時、「善」「悪」の区別が必要になる。 「悪」を排除しようと苦労する時期、「善」をもっと伸ばそうと努力する時期、 しかしながら,いつの日か,人は自分の心の内に「善・悪」の両者が存在することに 「神・悪魔」が存在することに気付く。 人類は,形態学的・解剖学的・生化学的・生理学的に類型パターンを内在している。 特に大脳の類型パターンは,共通の思考パターンを生みだし, 環境因子が近いほど思考パターンは似てくる。 このことは,集団で共有しうる善悪の価値判断の基準を容易に形成する原動力たりうる。 思考パターンの類型は,「神・悪魔」の区別にも類型パターンを生じせしめうる。 すなわち、地域、住民、文化、歴史、言葉、触れ合い、戦争、協力の様々な環境によって、 「神・悪魔」の区別にも類型パターンが生じる。 哲学の領域でこの問題に解決を与えられそうなのは「現象学」であろう(と勝手に考えている)。 人と環境の両者(人をも含んだ大自然)と、それらから生じた「神・悪魔」の区別そのものとの相互作用が 現在の「宗教」とその紛争を生じせしめ、今後も永遠に続いて行くことになりうる。 良しにつけ,悪しきにつけ,地域性を無視したネットワーク上での仮想集団の形成は, さらなる従来型の「善悪」・「神・悪魔」の区別の崩壊を押し進める。 そして,新種の「善悪」・「神・悪魔」の区別を形成しうるであろう。 <<< 当時は、はじめて哲学という概念の一端(現象学)に触れた時期でもありました。 。。。あれから20年近くも経ってしまったのかと思うと、愕然としますが、個人的な神概念に関して言えば、変化はありません。

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