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神はいるのか?
- キリスト教の教会で育ち、神という存在に畏れを抱いていた私。しかし、宗教に対する疑問や不信感から離れてしまった。そんな私にとって、今の段階では神は不必要な存在となってしまったが、過程は重要だったのか、また神は実在するのかについて考えてみたい。
- 私は敬虔なキリスト教徒として育ち、神の存在に畏れを抱いていたが、宗教の欺瞞や異端の実態を知り、信仰心を失ってしまった。今では自由な気持ちで生きているが、神の存在やその意義について考える時もある。私の過去の信仰心はどのような意味を持っていたのか、そして神とは何者なのか、それを考えることが大切だと感じている。
- 私はかつて教会に通い、神への畏れを感じながら生活してきた。しかし、宗教の不条理や信者たちの矛盾に疑問を抱き、信仰心を失ってしまった。現在では神という存在に対しては無関心であるが、過去の信仰の過程や神の実在について考えることは重要だと感じている。私の心の中での神への思いとは何だったのか、それについて考えたい。
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No.21です。 >昔から私は終わりのないことに対して非常に恐怖心を持っており、永遠に終わらない時に置かれ、あまつさえ意識はハッキリしているという状況は地獄以外の何者でもないというのがありました。 私の場合は逆でした。キリスト教を知る以前でしたが、小学2年ぐらいの時、自分の死、つまり自分という存在がいつかこの世界から消えてなくなってしまう、ということに不安を感じ悩んだことがあるのを覚えています。 永遠に生きるという場合、それが苦痛ではなく、むしろ楽しい平和な日々というのであれば、それは今までの日常と何も変わりはないでしょう。(ちなみに、私は天国でではなく、この地球上の楽園(エデンの園のような)で永遠に生きると考えています。) 死ぬにしても、永遠に生きるにしても、普段の生活でずっと先のことを意識することは時々しかありませんよね。 「その人が自分の命の日を覚えることは度々あることではないからである。なぜなら,まことの神はその人をその心の歓びに専念させておられるからである。」伝道の書5:20。 ところで、そもそも、恐怖とか不安という感情が生じるのは、その対象がはっきりしない得体のしれないものだからです。それがどんなものかがはっきり分かれば「なあんだ」という感じになるでしょうね。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということ。ですから、聖書をひも解き、その永遠とはどんなものなのか、神がどのような意図を持ってそうなさるのか、「はっきり理解する」なら、その不安な気持ちは解消されることでしょう。
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- booter
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過去に私が行った回答から引用して書いてみました。 ↓ アメリカの心理学者・スキナーはスキナーボックスという実験装置を使って、ある実験を行いました。 http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20100201 より ---- アメリカの心理学者スキナーの開発したスキナーボックスは、動物の学習を研究できる装置である。通常は、スイッチをつつくと餌(報酬)をもらえるような仕組みにしておく。このスキナーボックスに入れられたハトは、スイッチをつつくことを学習する。「虹の解体」では、特殊なスキナーボックスによる研究を紹介している。 ---- 実験室に話を戻すと、スキナーは、それぞれ異なった目的をもつありとあらゆる種類のスキナーボックスを作り出して、膨大な研究集団を組織し研究を進めた。そして一九四八年、スキナーボックスの基本は踏襲しつつも、ある天才的な仕組みを考案した。彼は、行為と報酬の因果関係を完全に切断してみたのである。彼は、鳩が何もしていなくとも、時々「報酬を与える」ように装置を設定した。こうなると実際に鳩に必要なことは、くつろいで報酬を待つことだけである。しかし実際には鳩はこのようにはしなかった。そのかわり、八例中六例で、鳩は、まるで自分たちが報酬を受けられる動作を身に付けているかのように、スキナーが「迷信行動」と呼ぶものを作りあげたのである。正確に言うと、こうした行動の内容は鳩によって異なっていた。次に「報酬」がもらえるまで、一羽は独楽のように回転し、二、三羽は反時計回りに回った。別の鳩は箱の特定の上方の角に向かって繰り返し頭を突き出した。また別の鳩は頭で見えないカーテンを持ち上げるかのように、「ぐいと持ち上げる」行動を示した。二羽は別々に、頭や体を周期的に左右に「振子を揺らす」ような動作を開発した。この最後の動作は、たまたまではあるが、何羽かのゴクラクチョウの求愛ダンスにかなり類似したものに見えたに違いない。スキナーが迷信という言葉を使ったのは、鳩が、本当はそうでないのに、まるで自らの一定の動作が原因となって、報酬のからくりに影響を及ぼしていると考えているかのように行動したからである。(P221) ---- この実験から分かる通り、人間においてもその主観から完全に逃れる事はできません。自分がおこなった事はよく分からないけれども、外界に影響を及ぼせたんだ、という事例はあまたに昇ります。雨乞いやゲンかつぎ、ジンクスを守ったり、あるいは七五三や初詣に行ったりなどなど・・・。こうした、「哲理的理解を伴わない、主観のみによる行動原理」が体系的に集合したのが宗教なのだと私は理解しています。 そうした中、「哲理的理解を伴わない、主観のみによる行動原理」の体型集合の中、共通認知として見出されたのが神なのではないか、と私は作業仮説を立てて考えています。 しかし、だからといって神様がいないものとして人間から切り離す事ができるのでしょうか。答えは否だと私は考えます。 1. 88年ポーランドのテレビドラマ「デカローグ」第一話。 http://www.amazon.co.jp/dp/B0009OA5IE 人は物理を選択すべきか、宗教を選択すべきか。 ※以下ネタバレです。結構脚色しましたが、ほぼこんな感じです。 物理学者で合理主義者の父親と、その息子、そして信仰深い叔母の三人の物語。 冬になり、息子は池に氷が張った後のスケートを楽しみにしていた。 とある朝、愛する飼い犬が寒さで死んでいるのを見つける。 父親は「生命活動をしなくなったのだ。天国は無い。」と息子に言うが、叔母は「神様のもとへ行ったのよ」と息子に言う。父は叔母に「息子に変な事を吹き込まないでくれ」と抗議する。 父は神を信じない。物理を信じる。教会は不要だと断ずる。蝋燭に火をともすのは意味が無い。全ての事象は言葉で説明できる。思考と理解ができる。人は合理的に生きる事ができる。 父は息子と一緒に自宅のコンピュータで池に何センチの氷が張ったのかをシミュレートした。息子が乗っても十分な厚さがあり、安全であるという計算結果が出たので息子を池にスケートに行かせた。 冬の日常が過ぎていく筈だった。 夕方になった。息子の帰宅時間になった。 しかし、息子は帰ってこない。どういう事なのか。不安になりながら息子が行った先へ向かう。 息子は氷の張った池へスケートをしに行ったのだ。 池に到着した。周囲は大騒ぎだ。喧騒の原因は分からない。まさかと思い確認するが騒いでいる人間の中に息子を確認する事ができない。 池の中心にいびつな穴がある。 救急隊が池に駆けつけた。救急隊が向かった先は氷が張った池だ。池の中央に開いた穴へレスキューのはしごが伸びる。救急隊は苦闘する。だが時間だけが過ぎる。何時間も経ったと思われた頃、動く事のない小さな影が、池の中心の割れた大穴から無機質に水面上へと引き出された。 男は教会へ行った。全ての事象は言葉で説明できる筈だった。思考と理解ができる筈だった。人は合理的に生きる事ができる筈だった。 息子は不合理に死んでしまった。 教会へ入った。火のついた蝋燭が並べられている。火のついた蝋燭など不要の長物、の筈だった。 息子が死んだやり場の無い悲しみに、男は火のついた蝋燭を倒した。 かつて、自分は息子の愛する飼い犬が死んだ時に天国は無いと言った。 それでは、私の愛する息子が死んだ時に、私は何と思えば良いのだろうか・・・? ~~~~~~~~~~~~~ 2. 佐藤優氏の「自壊する帝国」によりますと、次のように描かれています。 当時のソ連は共産主義でモスクワ大学には哲学部無神論学科なるものがあります。これはいかに神がこの世にいないかを究明する学問になります。 このモスクワ大学で試験シーズンになると学生がロシア正教会に出向き、教会へ火のついたローソクを一本立てて合格を祈願するんだそうですが、哲学部無神論学科の生徒は二本立てます。何故一本ではなく二本ローソクを立てるのかと言うと「神が存在しないという事を証明する学問をやっているからには神様が怒っていらっしゃるのではないか」という事で他の学生よりも一本余計にローソクを立てる、との事です。 この他、色々なエピソードがあって大変面白いのですが、これも哲学(理解)よりも宗教(信仰)を優先した例でしょう。 世界とは人間の感情に納める事のできない不合理性で納められています。 それをひとの心の内に納める。この為に神や運命などの宗教的理解が必要になるのではないでしょうか。 神に関しての現在における私の理解は以上です(薄っぺらで恐縮ですが)。 神の在・不在に関して、これは非常に大切な問題です。 出来うる事ならゆめゆめ忘れうぬ事です。
ペットボトル1本分のお金で救える命があります。 という お知らせの脇にある子供の写真 大きくて黒い瞳が訴えかけてくるもの・・・ 誰の胸にもあるのでしょう。 普遍的な愛や慈悲を神と呼ぶならば 神はいると思います。 そうした普遍的な人間性を否定した宗教は 宗教ではないと思います。 宗教や信仰は排他的な要素をもつ面があると思います。 そうした面を見ると嫌気がさしてきます。 その嫌気こそ 普遍的な人間性が備わっている証拠でしょう。 超越者へのこだわりを捨てて、尚且つ残るもの それを神と呼ぼうが、何と呼ぼうが、大切にすべきものだと思います。 普遍的な人間性に、常に照らされ、試されている ということは事実だと思います。 「ペットボトル1本分のお金で救える命があります。」 どうやら神の言葉のようです。 黒い大きな瞳を見ると、もうダメです、負けてしまう 負けていいのでしょう。
- onaraonara
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神がいるか? それは、どの次元の質問だ? いるかいないかの真実は1000%いない。小難しい論調や屁理屈など一切不要でいない。 犬にも虫にも魚に聞いても皆、神などいないというぞ。お前ら頭おかしいんじゃねえかとうちの犬に言われそうだ。笑 人間だけ存在を感じる特別な生物か? なわきゃねえだろ。少なくとも神からすりゃそんあ扱いしねえ。 人間界につくられた存在に過ぎない。 それをいるかどうかと聞かれるなら、いるだろ。存在する定義づけした奴がいるんだからいるわ。 人間は、存在しえない特別な存在を設定し、それを有効利用すると都合がいいことが多いってこった。
- amenhotep2000
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回答者様、皆さんの知識の深さに、私も負けじと学ばねばと思って、毎日を過ごしてます。 未熟者ながら回答をしますが、私は神様が存在するということは、目に見えませんから、信じるか信じないかは個人の信仰問題であると思います。 しかし、私、個人としては、神の存在を信じております。なぜなら神を信じることで、希望が生まれるからです。 現在、遠藤周作の「私にとって神とは」と言う本を読み終えました。この本を読んで、遠藤周作とまったく同じような、考え方の神の認識は私はできず、肯定するところと、受け入れないところがあり、自分自身にとっての神とはというのを思索してます。私は遠藤周作でないのであたりまえですよね。 受け売りになりますが、肯定できるところを、私の主観も入れて記述します。 遠藤周作によると、イエス・キリストが十字架上で「わが神わが神、なぜ、私をお見捨てになったのですか」というところから宗教は始まると書いてます。 人間誰でも、人生の中で八方ふさがりで、神も仏もないという絶望感に襲われることは、必ずあるのではないでしょうか。私もありました。 しかし、父なる神はイエスを復活させ、それまでの旧約聖書の律法を遵守しようとしても、完璧に守ることの出来ない不完全な人間に対し、厳格な存在として罪に対する罰という応報思想ではなく、憐れみをしめされ、キリストが示された愛の精神が本質だという、新約聖書の時代になりました。 遠藤周作は神は存在でなくて働きのほうが大切である。あなたは神様を問題としてなくても、神様があなたを問題にしているのだ、問題にしている以上は、形を変えて神様はいいほうに向かわせてくれるから信頼感があると書いてます。そこから希望が生まれます。 神を畏れるとは、神様にへりくだると言う意味で、罪を犯したことに対し、罰を受けることを恐れることではない。すなわち、自信過剰になっておごり高ぶることが人間がもっとも犯しやすい罪であると私は考えます。 自然による、天災、震災がいい例ですが、ちっぽけな人間には、たちうちできない。 神様は、愛してくださるが、試練も与える。しかし、神は乗り越えられない試練は与えないと聖書では説いてます。 現在の先行きの見えない世の中、私も試練を抱えてますが、回答者皆様方と手を携えこり越えて行きたいものです。 天国とは、現世における試練を終えた安息の地であると私は思ってます。 ちなみに、私は洗礼を受けたクリスチャンでないので、間違った解釈かも知れませんので、参考までにしてください。
神に関する疑問を抱いた時、どうするかは人それぞれだと思います。 しかし、その疑問を(神を信じている時点で)神ご自身に向けて尋ねる人々がいました。本当に神がいるなら、何らかの「答え」があるはずでしょう。実際に、そのような「答え」を得ることができた、と考える人たちが大勢います。 といっても、その「答え」とは、何か霊感と幻とか、そういうものではありません。私の場合、特に、聖書の中からその答えを得ることができました。神はそのような正しい理解に達するよう導くことができます。 golden000appleさんはご自分の疑問を神に尋ねましたか?
- 来生 自然(@k_jinen)
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No. 3です 私が現在の思索過程に至る以前、ちょうど学生時代から就職時にかけて「神様」という概念について考えたことがあります。参考になるかもしれませんので、一部引用しておきます。 >>> http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4597/nayami_main.html#sub6 6.「神」の考察。その1 人生と宗教と ---宗教に囚われても悩める人々に,さらなる悩みを---(1994.9.26の思考より) なぜ人は宗教を求めるのか、信じるのか、 なぜ人は神を信じるようになったのか、 人々にとって神とはどのような存在なのか、 全ての人にとって同一の神は存在可能なのか、 神が存在するとした場合、 その神は特定の個人のための神なのか、 特定の家族のための神なのか、 特定の国家のための神なのか、 特定の民族のための神なのか、 特定の種のための神なのか、 特定の動物のための神なのか、 特定の生命のための神なのか、 特定の宇宙のための神なのか。 生きることを越えていくことが そんなにも苦しく思えたことが つい今し方だというのに 頭の中で悟りを得たとしても 体の苦痛にたいしては なす術もなく転がりまくる。 何を考えているのだろうか、 生を越え、死を越え、全ての存在を越えた感覚に 生の中にあり、死の前に存在し、何も越えれずに考える己を見つめることが、 般若心経の無限の回転の内に、ゲーデルの不完全性定理を見出したかのように 全ての判断が人間によって考えることによって行われるゆえに、 人は人の考えから抜け出すことが出来ないというのに。 みんなが正しいと思うが故に正しい行いをしてきた人々に幸いあれ。 神も悪魔も善も悪も、全て人がそうであると判断することによってのみ人に認識されるというのに。 神と直接交信した人は考えればいい。 その対象が神であるという判断はその人がしたのだから。 その人の話しを聞いて信じる人は考えればいい。 神が存在するかどうかを判断したのではなく、その話を正しいと判断したのだから。 神が存在するならば、人は判断の対象として神を見てはならない。 存在すら判断してはならないのである。 判断の対象とした途端、その存在は神ですらなくなる。 単に人の善悪の基準に照らしだされた悪魔に対比されるべき存在としての言葉としての神でしかなくなる。 一方、判断することをしなければ神を信ずることが出来るであろうが、 その時には,人は人としての価値観を持ちあわすことが出来ないということを知るべきである。 それゆえ、神と悪魔の違いすら判断できないことを知るべきである。 ここに記述した神は、人の思考の対象としての神である。 存在するならば人が如何に考えようとも如何に思おうとも存在する。 人よ静かに考えるがいい。 いったい神とは如何なる存在をさして言うのか、 それは他人と共有できる存在でありうるのか、 言葉や、絵や、シンボルや、歌や行いによって他に知らしめることが出来うる存在なのだろうか。 軽々しく神の祝福を垂れ給う人々よ。 罪深き人々よ。 何が真実でありうるのだろうか。 あなたの判断による審判は常に人々にもたらされていると言うのに。 人は一人一人の判断の上に立って善悪を認識し、行動してゆく。 その価値判断の基準は、自己を中心として家族、 自分にかかわりのある地域、動植物、 そして民族あるいは国家、さらに地球、太陽系、銀河系、さらには大宇宙にまで及びうる。 人の思考の及ぶ限り。 しかし、自分との関係の深いものから順に価値判断に及ぼす影響は順に弱くなってゆく。 空間的な配置もさることながら、時間的な事物の価値判断に及ぼす影響も異なる。 今から自分が生きていくであろう未来に関しては多大な価値を見出すであろうが、 自分が死んでから後の未来に関してはそれ程多くの価値を見出さないであろう。 さらには過ぎ去った過去にたいしては、 価値判断の基準を修正する為に,考慮に入れる程度だろう。 人が人として生きていく限り、 争いは絶えず、民族は協力し、紛争を起こし、国家が生まれ連合し分裂し消滅してゆく。 全ての人が信じるべきものを信じたとしても個々の価値判断が異なり、境界が生じ断裂が生まれる。 現象学で説明される思考基盤の共通性は非常に重要な観点に思われる。 7.「神」の考察。その2 今、人の思考を超越した存在が、人との関りにおいて、なにがしかの利益をもたらしたとする。 人々は、喜び、称え、「我等が神よ!」と叫ぶことだろう。 そして、人の思考を超越した存在が、人との関りにおいて、なにがしかの災いをもたらしたならば、 人々は、恐れ、戦き、「我等に災い為す悪魔め!」と叫ぶことだろう。 人々に利益をもたらすものは神であり、災いをもたらすものは悪魔であると、 単純に割り切って考えることが原初の神と悪魔との概念を形作ってきたものと思われる。 この間の水不足の折り(94年秋)、日本のある農村で伝統的な水御いの儀式のTV放送があった。 人々は御神体を川につけ、「雨を降らさないなら、流してしまうぞ!」と何度も脅していた。 そこに古来の信仰の対象である農村の「神」の位置付けを見、さらに「悪」とのぎりぎりの境界で 「神」として捨てきれない心の表れをも見た。「災いを為す神は神ではない」と言いたげであった。 ある環境に住む特定の民族は、常に神の加護の元にあると信じ、災いですら「神が」試練のために もたらしたものであると信じるに至る。この強大な「神」への信仰は世界に瞬く間に広がった。 一個人の神・悪魔ですら、その人の思考パターン、価値観の変化によって、その境界は微妙に揺らぐ。 しかしながら,家族、民族、国家の形成と共に、「何に」利益をもたらすものを「神」ないし「善」と 判断するのかの明確な規定が必要になる。 一方で,「何に」災いをもたらすものを「悪」とするのかは暗黙の内に人々の心に巣食うこととなる。 場合によって,これらは法によって定義される。 神も悪魔も同じ所から来ていることにすら気付かない人々にとって、悪を排除することは当然のことである。 しかし、悪を消し去ることは決して出来ないことも、人々は気付いていた。 「悪霊」を封じ込める、あるいは退散させる儀式は存在するものの、 消滅させる儀式が,はたして存在するだろうか。 人の子は、「大いなる自然」から生まれ来て、当初,善悪の区別なく育つ。 そして、人間としての思考が始まる時、「善」「悪」の区別が必要になる。 「悪」を排除しようと苦労する時期、「善」をもっと伸ばそうと努力する時期、 しかしながら,いつの日か,人は自分の心の内に「善・悪」の両者が存在することに 「神・悪魔」が存在することに気付く。 人類は,形態学的・解剖学的・生化学的・生理学的に類型パターンを内在している。 特に大脳の類型パターンは,共通の思考パターンを生みだし, 環境因子が近いほど思考パターンは似てくる。 このことは,集団で共有しうる善悪の価値判断の基準を容易に形成する原動力たりうる。 思考パターンの類型は,「神・悪魔」の区別にも類型パターンを生じせしめうる。 すなわち、地域、住民、文化、歴史、言葉、触れ合い、戦争、協力の様々な環境によって、 「神・悪魔」の区別にも類型パターンが生じる。 哲学の領域でこの問題に解決を与えられそうなのは「現象学」であろう(と勝手に考えている)。 人と環境の両者(人をも含んだ大自然)と、それらから生じた「神・悪魔」の区別そのものとの相互作用が 現在の「宗教」とその紛争を生じせしめ、今後も永遠に続いて行くことになりうる。 良しにつけ,悪しきにつけ,地域性を無視したネットワーク上での仮想集団の形成は, さらなる従来型の「善悪」・「神・悪魔」の区別の崩壊を押し進める。 そして,新種の「善悪」・「神・悪魔」の区別を形成しうるであろう。 <<< 当時は、はじめて哲学という概念の一端(現象学)に触れた時期でもありました。 。。。あれから20年近くも経ってしまったのかと思うと、愕然としますが、個人的な神概念に関して言えば、変化はありません。
- wiz0621
- ベストアンサー率42% (182/430)
質問者さんが教会に通っていたのも、不安を解消する必要があったためですよね。 最終的にその根本的な原因、つまり自分の不安のありかを認識できたのであれば、 少なくともその点に関しては有意義だったんじゃないでしょうか。 何故そういう行為があったか。それは必要があったから。 このシンプルな着想は、神という制度であってもまったく同様なのです。 宗教家にとっては神が居る必要があるから、神は居ることにしないといけない。 よって神は存在する、と主張する。 もちろん、必要ない人にとってはいない。神とは、つまりそういう制度であるのです。 では、神を必要とする側の理由は何か。 これは不安の解消であったり、根源の希求であったり、個人毎に様々でしょう。 ですから、"神"という着想が一人に効果があっても、別の人に同様の効果があるとは限らない。 そもそも別の原因、別の病気なんですから、薬(あるいは痛み止めの麻薬)の処方は異なるのです。 むしろ害があることもあるでしょうね。 つまり、我々人類が忘れてはいけないのは、異端審問を行った人々も やはり同様に理由を求めていた、ということなのです。 そもそもとして、異端審問で行われたような残虐行為は、人間の社会では認められない行為です。 それでも何故異端審問があったのか。 それは必要があったからです。 どうしてもやりたい。ですが社会的に禁じられる行為です。 この残虐行為を許容し、当時周囲を納得させられるのは誰か。 それは、人間を超越し、無価値な人間を"処分"することが認められる存在です。 該当するのは唯一人のみ。 この名を用いることで、異端審問をはじめとする残虐行為は、人間社会において正当性を持った。 異端審問は、ただしく神という制度が機能した結果起こる、当然の帰結なのです。 つまりはこういうことです。 人を超越する存在を定義をした人間は、人々に敬虔さを呼び起こす効果を期待したとして 別の人にとっては抑圧と感じられ、苦痛でしかない。 さらに別な人にとっては、他者の生命を神以下である、と価値を貶める口実にすらなりうるのです。 幸いにも、世に遍く神が必要だった暗黒時代は終わり、組織化された宗教はその残滓が残るのみです。 我々人類は、近代哲学によって"自我"という概念を明確化させ、 自我を持った人間は、それぞれが異なるという着想を得ました。 つまり、神は矛盾しうる、ということをようやく理解するに至ったわけです。 一様な想念によってもたらされる効果は万人に共通するものではないのです。 神を正面から見るにあたって、我々は他人との違いを理解する必要があります。 もちろん結果として心に神殿を抱くにしても、あるいはそもそも否定するにしても そのこと自体は許容されるでしょう。 ですが私は、少なくとも人間(すなわち他人)によって構成された 神の代弁者なるものや、教会組織などというものはありえないと考えるのです。
- bokeyu
- ベストアンサー率37% (15/40)
現在は不必要であっても、そのうちに必要な時が訪れるでしょうね。
- zebura23
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一つ言えることは、私たちは誰でもが、 自分が知り得て確信したことだけしか知りません。 そのゆえに、人は自分がわかっていることだけを口にします。 だからといって、何が言われたかどうかで真実が損なわれることもなければ、 「ある」ものを「ない」ということにはできません。 今、「神」を見出す人々とは、科学者たちのことだと思います。 それは「神」を見出す場所とはもはや、 これまでのような宗教や神話や精神世界のことではなくなったからです。 「神」の存在を概念で語る時代は終わったのだと思います。 私たちは今や、 見出された事実を認めるか否か、が問われる時代に生きていると思います。 2010年の科学者たちの発表によると、原子よりも微小な量子の世界にさえも、 「黄金比率」が存在することを発見したということです。 このフィボナッチ数列と言われる黄金比率は、 科学者が発見した量子の世界がそうなら、 つまりすべてのものにその比率が用いられていることになります。 そして実際に、人間の体だけでなく、あらゆる動物、昆虫、植物に至るまでが 共通した黄金比といわれる設計図の元に創造されている事実です。 そして惑星地球は2万6000年周期を持って活動しています。 このようなことがわかってくるにつれて思われることは、 この宇宙は、私たちが知らないだけで、 実は、 「偉大なる知性」によって運営されている世界ではないかということです。 この「偉大なる知性」を、何と呼ぼうと構わないと思いますが、 それは事実として受け入れねばならないことなのです。 私たちは今、文系理系といったような分裂した考え方ではなく、 すべてのものは相互に結びついているものであって、 ジグソーパズルのパーツが揃ったとき、初めて全体が見えて来るように、 実は、何も切り離されたものは一つもないことに、 私たちは気づくべき時に来ているのではないかと思います。 http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-ee4e.html
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
神がいるのか居ないのかわからんが、神を利用する人間がいることだけは確かですね。
お礼
話がズレますがキリスト教に天国という概念がありますよね?厳密な定義は分かりませんが天国に行ったら皆が永遠に楽しく過ごすのだと教会では教わりました。 昔から私は終わりのないことに対して非常に恐怖心を持っており、永遠に終わらない時に置かれ、あまつさえ意識はハッキリしているという状況は地獄以外の何者でもないというのがありました。牧師に尋ねてみても答えはありませんでした。今でも確たる答えは見いだせません。 こういう疑問は時に夜も寝付けないほど私を襲うのですが、こういった恐怖を解決出来ないことも神を信じない今の状況に繋がっているのだと思います。こんなに悩むのならいっそのこと信じないようにしようと…